はそのまま、人の波に紛れてフレーゲルから足早に離れた。
逃げても祖父が既に話をつけているなら一緒だなんて、嫌というほど判っている。
こんな風に怒らせたりして、正式に夫婦になったときに、どんな目に遭わされるかも判ったものではない。
自分でも馬鹿だと思う。
逃げ出せるものなら、あんな家など捨てて逃げ出している。捨てられるものなら。
母のように、すべて投げ捨てられるものなら。
自身だけの問題なら、あんな家がどうなろうと知ったことではない。
けれどそうではない。
が逃げ出せば、だけの問題では済まされない。
母が逃げ出して、母に付いていたメイドがどうなったのか知ったとき、は逃げられないと悟った。
自分ひとりが我慢すれば。
侯爵家の娘として引き取られた以上、政略結婚は覚悟していた。
だがそれでも、もっとましな人材はいなかったのか。
憤ったまま足早に人込みから抜け出した瞬間、正面から人にぶつかった。



01.開幕のベル(2)



「わっ!」
「おっと」
柱の陰で人が居るとわからなかった。
踏鞴を踏んで後ろに転びかけたを、優雅な仕草でぶつかった相手が抱きとめてくれた。
「ごめ……申し訳ございません」
「いいえ。お怪我はございませんか、フロイライン」
准将以上が出席するこのパーティーの席で聞けるはずのないほど若々しい綺麗な声。それに軍服の階級章は、大将。
大将?こんな若い声で?
まさかと思いつつも顔を上げて相手を確認して、硬直した。
まさか、懐かしい夢を見たその日に。
金の髪と蒼い瞳。
白皙の若者は、見目も麗しく華麗に成長していた。
「ラインハルト……」
思わず声を零したに、一瞬だけ不快を表しかけた青年はすぐに表情を取繕う。
「私をご存知で?フロイライン」
こちらは一目でわかったというのに、相手が気付かないということは案外と腹が立つものだ。
ムッと気分を悪くして、は逆にわざと照れたように俯いた。
「え、ええ。失礼致しました。ミューゼル閣下」
「いいえ。フロイラインとはお会いした記憶がなかったものですから」
初対面で呼び捨てにされて腹を立てたということだろう。
確かに初対面なら失礼だ。
ならば、忘れ去っていることはどう表現するか?
もちろん同じく失礼なことだろう。
どうやって度肝を抜いてやろうかと思考を巡らせていると、人込みの向こうから不愉快な声が聞こえた。
!」
思わず本心が顔に出る。
ついでに、目の前のラインハルトも露骨に顔をしかめた。
、そこでなにを……これはこれはミューゼル閣下、まさかこの場にいらしておられるとはな」
「幸いにも、ブラウンシュヴァイク公に招待していただいたので」
冷たい硬質な声で突っぱねる。そしてを関係者と思ったらしく一歩距離を開けた。
「恥知らずなことに、大将閣下の地位を戴いている男は、どうやら人の婚約者にまで戦勝を上げようという腹らしいな。下賎な男らしいやり様だ」
「婚約者!?」
ラインハルトが驚いて一瞬、小柄な少女を見下ろした見た。フレーゲルはラインハルトより五歳年上で二十四歳。一方はどうみても十代半ば。
少し童顔だったとしても精々十六、七が関の山に見えるだろう。
実際は十四歳である。
だがすぐに驚きを消すと、露骨に不快な顔でを睨みつけて更に一歩距離を開けた。
「男爵におかれてはどうやら発想が下劣なようだ。小官には想像もつかぬような品性をお持ちだ。貴様の婚約者と知っていれば、だれが手を貸そうか」
取繕いもしない見事なまでの本音ぶちまけに、思わず呆れながらも内心拍手を送りたくなる。
「貴様……っ」
フレーゲルが敵いもしない相手に拳を握り締めるのを、は無感動に眺めていた。
ラインハルトの戦功はでも知っている。最前線に出ていくつもの戦場を潜り抜けているのだ。先ほどぶつかった体格も立派なものになっていた。
それを、最前線どころかまともに運動しているのかすら怪しい貴族の子息が敵うはずもない。
そのままラインハルトがフレーゲルをぶちのめすのを傍観していようかと広げた扇で軽く顔を仰いでいると、目の端にこちらに向かって来る、老紳士然とした軍人が見えた。
ブラウンシュヴァイク公の側にいたということは、側近かなにかに違いない。
どうやら一触即発の雰囲気に気がついているらしい。
フレーゲルが殴り倒されるのは胸がすくに違いないが、揉め事が見つかるのは好ましくない。にとっても、ラインハルトにとっても。
は向かってくる軍人に笑顔で首を振って、来る必要がないと伝えた。
それを見た軍人は驚いたように、足を止める。
軍人が足を止めたのを確認してから熱くなっている子供ふたりの注意を惹きつけようと、パシンと小気味いい音を立てて扇を閉じた。
「勝手に婚約者などと言い立てられては不愉快千万ですわ、おかっぱ男爵」
「お、おかっぱ!?」
フレーゲルが唖然と悲鳴を上げ、ラインハルトは遠慮なく吹き出す。せっかく気を逸らしたのに、フレーゲルの目がラインハルトに戻ってしまう。
「ミューゼル閣下。まさかこのような席で騒ぎを起こされるおつもりではございませんでしょう?」
ラインハルトにも釘を刺しておくと、途端に不快を顔一杯に広げてみせる。
宮廷の派閥戦争の間を縫って生きている割に、ラインハルトの表情はわかりやすい。
これで大丈夫なのかと思わず心配になってしまう。
「勝手にとは異なことを。お前の祖父からは承諾を得ている。正式な婚約者だ!」
「気持ちの悪いこと言わないでエロ河童。あんたにヤられるくらいなら、その辺のゴロツキの方がずっとマシ。その人間性に比例して短小でイカ臭そうなナニなんて、こっちまで腐りそう」
吐き出しそうだと、舌を出してそれこそ品性の欠片も無い言葉で情け容赦なく切り捨てると、男二人そろってぴたりと動きが止まった。
揃って赤面したけれど、意味はまったく違う。
ラインハルトは、年頃の娘の明け透けな品の無い言葉に恥ずかしくて頬を染めた。
そんな反応をされるとこちらまで恥ずかしくなる。
処女みたいな反応するな、と更にラインハルトが赤面してしまいそうなことを考える。
一方、侮辱された本人は当然、怒りで頭に血が昇ったのだ。
特に、ライバル視しているらしいラインハルトの前で思いっきり侮辱されたのは効いたらしい。
「きさ…………き、貴様っ!」
「男爵!」
を殴ろうと、振りかぶったのは拳だった。
男女同権大いに結構。
既に当初の目的を見失っていたが拳を固めるのと、ラインハルトがそれでも女性を庇おうと間に割り込んだのと、そして閃光は同時だった。







当サイト一、口の悪い主人公。おまけに気も強い(^^;)
14歳の女の子なんですけど…ね。


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