「姉さん姉さんって、しつこいのよ!このシスコン!」
「う、うるさい!お前なんか大嫌いだ!」
「お前だぁ!?何様のつもり、ラインハルト!様とお呼び!」
「ラインハルト……も、落ち着いてよ……」



01.開幕のベル(1)



苛立ちのまま金の髪も美しい頭を殴ったところで目が覚めた。
夢なのだから殴ったはずの手が痛くないのは当たり前として、首が痛いのはどうしてだろう。
そして、なぜ世界は上下反転しているのだろう。
「おやあ?」
目覚めたばかりのうつろな意識で茫洋として呟く。
またやった。
寝相が悪くてベッドから上半身だけ落ちていたのだ。腰から上だけ床に向かって下がっている。
変死体のようなこの寝相に、初めて見たときメイドのユメリアは悲鳴を上げた。
ちょっとしたホラー状態になってしまったがわざとではない。
だというのに執事にはこっぴどく怒られた。
「それは、お嬢様の良家の淑女らしさのなさに嘆かれていたんです!」
の髪を櫛梳きながら、ユメリアが当時を思い出して憤慨した。それは思い出すのも懐かしい、この屋敷に来て一週間ほどの九年前のことだ。
十四歳になった今でも、この寝相は治っていない。
「そーだったっけ?」
あくびを噛み殺しながら適当に答えると、鏡の中のユメリアは溜息をついた。
「お嬢様……淑女は大口をあけて欠伸などなさらないものですよ」
「うるさいなー。自分の部屋なんだからいいじゃない」
「せめて扇などで隠してください。お嬢様は淑女としての振る舞いが身に染み着いていらっしゃらないのですから、普段の癖が外でも出ますよ?」
自分つきのメイドに言い負けるってのはどういうことだ。はがくりと項垂れる。
この十年ですっかり力関係ができてしまった。
自分より年上で体格のいい舎弟がふたりいた頃が懐かしい。
舎弟、か。
思わず溜息を漏れる。
「あら珍しい。なにか悩みでもおありですか、お嬢様」
「いやあ、悩みっていうか、懐かしい夢を見たから。感傷、かな」
髪を結い上げながら、ユメリアは目を瞬いた。
「まあ本当にお珍しい。素直に訳を話されるなんて」
「聞いておいて、それはないんじゃない?」
「感傷も結構ですが、今日はお支度が整い次第、お顔を見せるようにと旦那様からお達しがございましたよ」
「うわぁ、益々憂鬱だ……」
髪を結い上げてもらって朝の支度が整ってしまった以上、仕方がない。綺麗にしてもらったから髪に手を突っ込んでかき回すわけにもいかず、このやり場のないやるせなさをどう表現したらいいか悩んでいたら、部屋から追い出された。
「さ、憂鬱な作業はさっさとお済ませになってらっしゃいませ」
既に今更ではあるが、荷物のような扱いに淑女には相応しくなく豪快に腕を組んで溜息を零して呟いた。
「これでも侯爵令嬢なのに……」


赤い絨毯が敷かれた廊下を颯爽と歩く。
気分はトボトボと効果音を着けたいほどでも、廊下を歩く姿は背筋を伸ばして胸を張って、手は軽く前で重ねて、前をまっすぐに向いて。
背中を丸めない、下を向かない、手を振らないと歩き方が一番酷く矯正された。
それでも、人目がなければ貴族の淑女らしい静々とした歩き方ではなく、軍人に劣らぬくらい力強い歩みになってしまうのは、性格のせいに他ならない。
言葉遣いとテーブルマナーなどの礼儀作法も厳しかった。
貴族としての心得、学問などの基本的知識はこの邸へ連れて来られてから叩き込まれた。
書き文字も手を叩かれながら覚えたものだ。
侯爵家の娘として。
言いつけどおりに訪ねた祖父の部屋には、大きな女性の肖像画がある。
艶やかなブルネットを編みこんで結い上げ、気の強そうなアメジスト色の瞳で見る者を射る、居丈高な女性。
の尊敬する亡き母親だ。
夫を持たず、邸を飛び出し実家からの捜索に身を隠しながらをひとりで育てた母親。は感謝と尊敬の念で一杯の母親と同じ色の髪と瞳を誇りにすらしている。
「ご機嫌麗しゅう、おじい様」
車椅子に座って娘の肖像画を見ていた頭部の禿げ上がった老人は、コントローラーで車椅子を反転させて、今度は生きている孫を見据えた。
「今夜ブラウンシュヴァイク公の祝いの席がある。皇帝陛下もご臨席になられる席だ。お前も出席するように」
朝の挨拶ひとつない。
元より心温まる関係などは築いてもいない祖父なので、そのことにはなんの感慨も覚えない。
それよりも、とうとうやってきた正式な社交界デビューにウンザリとした気分になった。
おまけに初参加のパーティーが皇帝臨席のブラウンシュヴァイク公爵のパーティー。
箔つけたいという祖父の考えがありありとわかる。
へーへー。行きゃあいいんでしょうが、行きゃあ。
は心の中で毒づいた。緊張感もなにもない。
正式な社交の場に出たことはないが、身内だけというものを少し拡大したお茶会などには何回か出ている。
ただし、貴族の淑女たちとはまったく気の合うところがないは、隙を見てはさっさと逃げ出す事がほとんどだ。
嘆くメイドのユメリアに理由を聞かれて説明したら、もっと嘆かれた。
「だって貴族の娘さん方の話題って、つまらないんだもの。お花がどーとか、音楽がなんだとか、あるいは素晴らしい殿方のお話だとか。あんたらの言う理想の結婚なんかくそ喰らえと叫びたいのを我慢しているのだから、逃げ出す方がマシでしょ?」
家の実権などとは程遠い、政略結婚に使われるお嬢様方に政治とか経済とか戦争とかの話をしろという方が酷なことはにもわかっている。
だからといって、それこそ政治にも経済にも関わりもない家同士の婚約話など、噂し合ってなんになる。そういうわけで、はやさぐれてドレスの裾をたくし上げて逃げ出してしまうのだ。
溜息が漏れそうになって、は慌てて喉の調子を見て短く答えた。
「はい。おじい様」
返事は、はいかいいえ。貴族のお姫様は無駄口を叩くなという前時代的な考えで凝り固まっている老人になにを言っても無駄だ。
話はそれだけのようなので、さっさと挨拶して部屋から逃げ出した。
部屋を後にしながら、ふと首を捻る。
「それにしても……じい様はともかく、なんでブラウンシュヴァイクのハゲがわたしを呼んだわけ?」
箔を付けたいのは、祖父だけだろうに。


そして、今そのパーティーに出席している。
車椅子から降りて杖にもたれるようにして歩く老人の腕に軽く手を添えて支えながら進むというのは、実のところ楽なことではない。
おまけにコルセット付けて、夜会用のドレス着ているとなると、余計に。
裾がバサバサとして歩きにくいことこの上ない。
細くて真っ直ぐな髪をなんとか固めて綺麗に結い上げ、オフホワイトの裾のたっぷりと広がったドレス、アクセサリーは銀を基調としたエメラルドのネックレスとイヤリング。
いくら本人が飾り立てることを嫌っても、祖父の気合の入れようが違う。
主催者他一部の大貴族だけ中央のテーブルについて、それ以外は立席という権力と選民意識の凝り固まった形のパーティーで、侯爵である祖父と付き添いのはテーブルに席が用意してあった。
こんな場で目立ちたくないのに。
溜息が漏れそうになって、腹筋に力を込めて耐えた。
それでも、には楽しみがひとつだけあった。
皇帝陛下ご臨席。ということは、おそらくはその寵姫であるグリューネワルト伯爵夫人アンネローゼもこの場に現れると見て間違いないはず。
その昔、弟の方とは喧嘩ばかりをしていたが、優しいお姉さんだったアンネローゼの事は、母親とは違う、強い憧憬の思いで慕っていた。
この場では口を利くことさえできないかもしれないけれど、の事を覚えていてくれたのなら、侯爵家の家人だということは認識してくれるはず。
上手くいけば、またアンネローゼに会えるようになるかもしれない。
期待していた分、それが裏切られると落胆も大きい。
皇帝陛下ご臨席の予定が腹痛で急遽、新無憂宮に戻ったという話に、あくまで形式として残念がる声が上がった。心の篭った声はひとつとしてない。
は皇帝ではなくアンネローゼの欠席に心の底から落胆しつつ、人望のないらしい皇帝には肩をすくめるだけであった。
などと不遜なことを考えていると、本日の主役の挨拶が終って祖父がその主役に元帥昇進の祝いの祝辞を述べる。
「本日は真におめでとうございます、ブラウンシュヴァイク公」
「おお、侯爵。よく来てくださった。そちらがご自慢の孫娘殿かな?」
ご自慢!?
唖然として大口を開けかけたは顎に力を込めてそれを耐えた。
一度たりともこの祖父に誉められたことなんてない。いつも、家の恥だと不平なら言われているけれど。
「ふふ、歳を経てようやく得た孫でしてな。母親に似て奥ゆかしい娘です。、ブラウンシュヴァイク公にご挨拶を」
「ご機嫌麗しゅうございます、ブラウンシュヴァイク公。と申します」
軽く頭を下げて挨拶。
奥ゆかしい娘を演じろというお達しなので、挨拶はそれだけに留めた。
「おお、まるで雲雀のように愛らしい声だ。それではわしも自慢の甥を紹介するとしようか」
なんとなく嫌な予感を覚える話の流れに、眉をしかめかけてどうにか微笑みを保つ。
「伯父上、お呼びになりましたか」
予感的中。
呼ばれて現れたのはブラウンシュヴァイク公の甥であるフレーゲル男爵。
ああ………。
天を仰ぎたくなった。
なるほど、どうしてブラウンシュヴァイク公がの箔付けに協力したのか、これでわかった。
祖父と公爵で共謀済みなのだ。フレーゲル男爵との婚約という事項が。
席を蹴って帰りたいという思いを懸命に堪える。
思わず舌打ちしかけて、さっと扇を広げて顔半分を隠した。
祖父としては、が婿を迎える事が最善だっただろう。だが、ブラウンシュヴァイク公爵との縁戚関係という魅力も大きい。がフレーゲル家に嫁したとして、子供を二人以上産めばフレーゲル家も家も後継ぎには困らない。
ブラウンシュヴァイク公としては、侯爵家を手中に治める絶好の機会だったというわけだ。
「甥のフレーゲル男爵だ。フロイライン・は本当に奥ゆかしいようだな。扇で顔を隠してしまった。フレーゲル男爵、緊張を解して差し上げるといい」
「はい、伯父上。フロイライン・、どうぞこちらへ」
「……はい、男爵。失礼致します、ブラウンシュヴァイク公」
踵を返して、むしろ後ろ足で砂をかけて逃げ出してやろうかとすら思う本音を懸命に堪えて、誘われるままに移動する。
フレーゲルは敬愛する伯父上殿から十分に距離を開けてから、シャンパンの入ったグラスを差し出してきた。
「どうぞ、フロイライン」
伯父の前で見せていたものよりも、数段下卑た笑いになっている。
「わたしの本性を知っていて、よくもまあフロイラインなどと繕えること」
扇で口元を隠しながら、は心の底から毒づいた。
以前、この男にはどこぞの従姉のお茶会のときに無理やりキスされそうになって股間を蹴り上げたことがある。女に蹴られて逃がしたとなっては不名誉だと考えたからか、表沙汰にはなっていない。
「なあに、これからたっぷりと調教してやるさ、我が花嫁」
「気持ち悪い」
パシンと音をさせて扇を閉じて目の前の男を睨み付けた。
は差し出されたシャンパンを丸々無視して、自分で適当にワインのグラスを引っつかんで一気に煽った。
「相変わらず品の無い小娘だ。それでよく侯爵家令嬢などとうそぶける」
「お生憎様。品性下劣な人間に貶されても誉め言葉でしかないわ」
見れたものじゃないと毒づいた顔から、いやらしい笑いが消えてさらに見れたものではなくなる。
怒りで紅潮した醜い顔。
はその表情に、閉じたままの扇を唇に当てて悠然と笑った。
「あら、どうやら人間の言葉は理解できるようね。なによりだわ」
「この…小娘が……」
ギリギリと歯軋りの音の間から呪いの言葉が漏れ出して、余裕を見せたまま祖父と公爵がこちらの様子に気付いていないことを確認してから、目の前の男に背を向けた。
「さようなら。あんたの口臭がきつくて吐きそうだわ」
「なっ!」
激昂したフレーゲルに腕を掴まれそうになって、泳ぐように横にあった柱の陰に移動した。







銀英長編連載第一話。
のはずなのに、フレーゲル男爵とブラウンシュヴァイク公爵しか出ていない……。
つ、次に本命も片方出ます!(^^;)


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