21. ペシャワール城塞に着いて一心地がついたアルスラーンは、翼ある友人に追っ手から守ってくれた礼にと肉を持っていった。飼い主であるキシュワードと話すという目的もある。 告死天使の名を持つ鷹は喜んだ様子でアルスラーンが持ってきた肉にくちばしを付けた。 アルスラーンはそれに目を細めて柔らかく見つめ、アズライールの背を撫でると改めてキシュワードに向き直る。 そして雄弁ではないが誠実な様子で自分が目指す先の一端を打ち明けると、キシュワードは目を見張ってしばし言葉を吟味する様子を見せた。 「奴隷を解放するとおっしゃいますか」 それは純粋な驚きであって、否定や不快の様子ではない。 「随分と先走った話であることは判っている。だが私が国政に関わるようになれば、これを成し遂げたいと思っている」 ナルサスの言うとおり、そして結果が示したとおり、一時の感情で奴隷を解放しようとしても失敗するだけだ。彼らは自らの意志で生き方を決めるということを知らない。 だが国のレベルできちんと計画を立て、様々な条件を整えて望めば違った結果を生み出すことができるのではないだろうか。 カシャーン城砦を脱出してから、アルスラーンはずっとこのことを考えていた。 「ナルサス卿の申したことも、殿下の決心もご立派です。私個人としては異論ございません。ですがそのようなことを仰れば、恐らく諸侯たちの大半は殿下のお味方にはなりませんぞ」 「ナルサスにもそう言われた」 アルスラーンはほろ苦く笑って緩く首を振る。 「だがルシタニアを追い払って、この国がまったく元通りということにはならないと思う。以前よりもよくなるのでなければ、戦う意味がない」 「なるほど……」 キシュワードは深く頷きながら、同時に少し眉を寄せて渋面を見せた。 「ですがお父上は、殿下のお考えをどう思われるでしょうか。陛下が今まで奴隷制度の廃止を志されたという話は聞き及んだことがございませんが……」 アルスラーンはそれも判っていると頷く。 「ルシタニアを追い払い、私が父上を助けて差し上げることができれば、私の声もそれだけ通るようになると思う。父上も無碍にはされないだろう」 そうしてじっくりと話し合うことができれば。 それはそう信じているというよりも、信じるように自らに言い聞かせる言葉であることを、誰もよりもアルスラーン自身が強く感じていた。 これからアルスラーンを交える前に、臣下たちだけで先に会議を行うことは聞いている。 アルスラーンはキシュワードの部屋を出ると、自室として通された部屋に戻ることにした。 アルスラーンの部屋はかつて父アンドラゴラスが東方遠征の折に使用した場所で、城塞で最も豪華な調度品を揃え石造りのテラスもついている。 だがアルスラーンが喜んだのは豪奢な部屋ではなく、部屋の四方に仲間たちの部屋を用意されたことだ。 カシャーン城砦では、ホディールの意図もあってダリューンたちとは部屋を遠く離された。 だからこそキシュワードの配慮が嬉しい。 カシャーン城砦での出来事を思い出すと、そのたびに複雑な想いに駆られる。 大切な友人と再会した場所。 そうして、彼女がアルスラーンのために養父を亡くした場所。 あの時アルスラーンが奴隷を解放しようとしなければ、と今も一緒に行動をすることはなかったかもしれない。 だが同時に、あの時奴隷を解放しようとしなければ、彼女はせめて亡くなった養父をもう少し違う形で弔えたのではないだろうか。 奴隷たちに追われたことに衝撃を受けていたので気付けなかったが、戦闘の直後に城砦から逃げ出したのだから、恐らく彼女は養父をそのままにして背を向けなければならなかったはずだ。 エラムから事の真相を聞いて、そのことにようやく思い至った。 は結局最後まで自らは真相を教えてくれなかった。それはアルスラーンの心情を慮ってのことだとは理解している。 ただが頑なにアルスラーンに対して頭を垂れるために、一次はその配慮は友人としてではなく、目下の者としてのものだろうかという疑問も抱いた。 だがそれは、きっと違う。そう思う。 カシャーン城砦で宛がわれたアルスラーンの部屋で二人きりになったとき、そうしてアルスラーンと旧知のであると認めたとき、彼女は確かに友人としてアルスラーンと語り合った。両手を握って、会いたかったと微笑んでくれた。 あれから一度も二人きりになれなくて、はずっと距離を保ったままだ。 今度はすぐ向かいの部屋にいる。声をかければすぐに会えるし、部屋にも来てくれるだろう。 誰もいない場所で、二人きりで、あの幼い頃の街角のようにとはいかなくても、せめて傍にいてくれたら。 先の会議には旅の仲間からはダリューンとナルサス、そしてギーヴとファランギースが出席するだけで、がいかないことも聞いている。 だからこそ、部屋へ戻る足取りも軽く廊下を進む。と二人きりになれる、絶好の機会だ。 そのアルスラーンの足が、ある一角でぴたりと止まった。 夕闇に染まりつつある角を曲がった回廊の向こう、とエラムが何か言葉を交わしている様子が見える。それが二人だと判ったのは、背格好と僅かに聞えた声からだ。城砦内に子供はアルスラーンととエラムとアルフリードくらいしかいない。 どうやら料理を肩に掲げているらしいエラムの影に、ナルサスのために用意したのかと微笑ましくさえ思っていた。 エラムは本当にナルサスが好きなのだと。 アルスラーンがふたりに声をかけようと足を踏み出したとき、とエラムの影が重なった。 ……が、エラムを抱き締めた。 踏み出した足は一歩で止まる。 目に映った光景は一瞬のことで、すぐに影は離れは廊下の向こうへ歩いて行ってしまう。 改めて互いに再会を確認したとき、はアルスラーンの手は握ったけれど、再会を喜び彼女を抱き寄せたアルスラーンを抱き締め返してはくれなかった。 だがエラムのことは抱き締めて。 湧き上がる不可解な不快に眉を寄せたアルスラーンは、部屋に戻ろうと歩き出したエラムと向き合うまで足を止めたままだった。 「……殿下?どうなさったのですか、こんな廊下で」 廊下の一角で立ち尽くしていたアルスラーンに気付くと、エラムは手にした盆を両手に抱え直し安定させて駆け寄ってくる。 「エラム……」 こんな気持ちになったのは、一体どれほど久々のことだろう。 エクバターナの街角で、たまたまがアルスラーンとは別の友人と親しくしていた所を見たときと同じような、けれどもどこか少し違うような、不思議な感覚だった。 きっとそれを嫉妬というのだと、そう教えてくれたのもだった。 がアルスラーンのいないところでアルスラーン以外の友達と仲良くしていたのが、きっと寂しかったに違いないと。 自分で言ったことをどこまで理解していたのか、臆面もなく嬉しそうに笑った友達。 そうではないと言いたかったのに違うとも言えない。 そんなアルスラーンに、幼い頃のはにこりと笑った。 「でも、わたしの一番の友達はアルだよ。他の誰よりも、アルのことが一番好き!」 その言葉を聞いた途端に、心の中で燻っていた何かが綺麗に晴れたことを覚えている。同時に、と一番親しい友人は自分なのだと、そう信じていたのだと気付いたことも、覚えている。 「……私は、成長していないのか」 がアルスラーンによりもエラムと親しくすることに嫉妬したかと思うと、溜息が漏れる。と再会したときは、涙を流す彼女の頬を拭って、幼い頃とは逆だと成長した気がしたというのに、こんなところは変わっていないのか。 「殿下?」 溜息を漏らすアルスラーンに、エラムは盆を両手にしたまま首を傾げた。 エラムと別れて角を曲がったは、溜息をついて頬を軽く撫でた。 「……修行が足りないわ」 ファランギースには窘められ、アルフリードを怒らせてしまい、エラムには心配されてしまった。それだけ傍から見ての態度が判り易いということなのだろう。 一番気づいて欲しくない人だけは判っていないようだから、今のうちに態度を改めなくてはいけない。 軽く頬を叩いて気合いを入れ直したは、階下に降りると庭に出て深呼吸をした。息を吐き出し、今度こそ気持ちを切り替えるように、目を閉じた。 戦闘に使う物とは別の筋肉の動きを意識して、軽く身体を動かす。 まずは身体を解そうとゆっくりと呼吸を繰り返しながらステップを踏み出すと、気持ちが芸に向いて行く。 ようやく本格的に稽古ができると、気持ちが切り替わったことを実感して目を開けたとき、ふと蹄の音を聞いたような気がして視線を転じた。 の耳に間違いはなく、もう日も暮れていると言うのに騎馬に乗った人物が城門へと向かっている。しかもよく目を凝らして見ると、それは万騎長のバフマンであった。 城塞を預かる将がたったひとりで門を潜る後ろ姿を、は首を傾げて見送った。 まさか万騎長が伝令というはずもなく、供もつけていないということは単なる気晴らしかなにかだろう。だが平時ならともかく、昼にはこの城の近くまで銀仮面の一党が王太子を追ってきていたというのに、随分身軽に出て行く。 門番も普通に見送っていたし、腕には自信があるに違いないとは思うけれど。 不思議なことだと首を傾げたは、城壁越しの馬蹄の音が遠ざかる頃に、同じく騎乗したキシュワードとその部下が同じ城門に現れたことに目を瞬いた。 アルスラーンと供に自室を後にしたキシュワードは、すぐに王子の傍を辞去して今後の方針を話し合うためにバフマンの部屋を訪れた。 キシュワードを迎えたバフマンは、相も変わらず何かに迷うように覇気がない。 少し前まではこんな様子ではなかった。老いてもなお盛んな老将として意気軒昂に部下を叱咤しつつの指導に当たっていたというのに。 眉をひそめるキシュワードの内心に気付いていないはずはないのだが、バフマンは素知らぬ振りで後から訪れたダリューンたちのことも出迎えた。 ある程度の意見を出し合って、後のアルスラーンを交えた軍議を意義あるものにするための会議は、しかしあまり実りがなかった。 積極的な若者たちに対して、バフマンに甚だ気力が欠けていたからである。 「慌てたところで益はない。アンドラゴラス陛下の安否さえまだ判らぬ。少なくとも今年の内に軍を動かすことには、わしは反対じゃ。国内の諸勢力がどう動くか、それを見極めてからでも遅くはない」 重々しく口を開いたバフマンに、ダリューンの眉間に稲妻にも似たものが走った。黒い甲冑を鳴らして長身ごとバフマンに向き直る。 「アルスラーン殿下を陣頭に、パルスの王権を回復させるは当然のこと。我らがそれを行ってこそ諸勢力も動き始めるのではござらぬか。何ゆえにそれをおためらいある。バフマン殿の仰りようは、慎重と申すよりやる気がないとしか思えぬ」 「ダリューン、もうよした方がいい」 ナルサスが首を振って友を止め、溜息とともに首を振った。 「ゴタルゼス大王の御世より、戦場にあって一度たりとも敵に遅れをとったことなきバフマン殿なれど、老いとはむごいもの。すでに義侠の心もすりへり、ただ安楽に老後を過ごせはよいとお考えだろう。期待した我らが間違っていたのだ」 手厳しい言葉にバフマンの表情が強張り、頬が紅潮する。 「何を言うか!くちばしの黄色い雛鳥めが!」 荒々しく立ち上がったバフマンはナルサスを指差し、続けて何かを言いかけた。 だがすぐに口を閉ざすと、一同から目を逸らして遠乗りに出かけると告げて早々に部屋を出て行く。 扉が閉まり、遠のく足音を聞きながらダリューンは苦笑を漏らした。 「怒っただけか……」 「いや、あの老人、もっと喰えぬ。怒ったふりをして座を外し、追及されることを避けたのだ」 ナルサスがあえて挑発したことに、挑発された本人が気づいていた。なぜあんなにも消極的なのかは理解できないが、バフマンの頭脳が錆び付いているわけではないということだ。 細い顎を撫でて思案するナルサスを見て何かを考えた様子だったキシュワードは、ナルサス同様考え込むダリューンに向き直る。 「実はバフマン殿のあの態度に心当たりがある」 一斉に視線を向けられて、キシュワードは眉を寄せてやはり考えるように首を振って視線に込められた質問を否定する。 「消極的になっている理由そのものではない。そうなった原因の品があるのだ。実はアトロパテネ会戦の直前に、ヴァフリーズ殿からバフマン殿の元に手紙が届けられた」 「伯父が!?」 ダリューンは眉を跳ね上げ、キシュワードは重く頷く。 「俺が知っているのはそこまでだ。内容の方は見当もつかぬ。だがバフマン殿がなにやら屈託して、切れ味がなくなってしまったのはそれからのことでな」 今度はダリューンに視線が集まるが、ダリューンも考え込むだけで伯父が何をバフマンに伝えたか見当もつかない。 大将軍ヴァフリーズは、ルシタニアとの決戦であったアトロパテネ会戦で戦死している。 遺体を見たわけではないが確かな情報として伝わったことで間違いはない。 改めて思い返さずともアトロパテネ会戦には様々なことが絡まっていた。 あの戦いでの敗戦がパルス軍を壊滅させ、戦いの趨勢を決めて王都エクバターナの陥落に繋がったこと……だけではない。 ダリューンは万騎長に抜擢されてから初めて望む戦いであり、開戦の前に敵軍の不自然さを指摘する慎重論を讒言して王の怒りを買い、万騎長の任を解かれた。 アルスラーンは正真正銘の初陣として参加して、全軍が掛かった罠のためにすべての部下を失った。 無敵を誇ったアンドラゴラス王は生きているとの情報があるだけで、未だ敵陣に捕虜として捕らえられている。 幾人もの万騎長が戦死し、そして行方不明になった。会戦に参加した八人のうち、現在生きていることが確認されている万騎長は、直前で万騎長の任を解かれたダリューンしかいない。会戦では生き残ったが、ルシタニアを手引きした裏切り者のカーラーンはすでにダリューンの手で討ち果たしている。 そして、戦死したダリューンの伯父ヴァフリーズ。 ヴァフリーズは会戦前に、地位を剥奪され一騎士として戦いに望むことになったダリューンに奇妙なことを約束させた。 「アルスラーン殿下『個人』に忠誠を誓ってくれぬか」 そう何度も念を押す伯父に、剣にかけて誓った。 その誓いは今でも有効であり、そして今では誓いがあろうとなかろうと関係がない。 誓いを立てさせた伯父からは、「お前にくらいは王子の味方であって欲しい」としか聞くことができなかった。そのすぐ後に戦が始まったからだ。 あの時は、父王に理由もなく疎まれている王子の心配をしてのことだろうかと考えただけだったが、今にして思えばもっと深い理由が存在しているらしい。 そもそも本当に、王子が父親に疎まれていたことに理由はなかったのだろうか? 素直で利発的な息子を疎む親がいるはずはない。だがアンドラゴラス王も、タハミーネ王妃も、アルスラーンのことを避けていた。 伯父との奇妙な会話。 万騎長という栄職にあり、国に違うことなき忠誠を誓っていたはずのカーラーンが裏切った理由が欲に目が眩んでのことなどとは考えられない。 「ともかく、今はバフマン殿だろう。かの御仁が何かを知っていることは間違いない」 様々なことが脳裡を駆け巡り、考え込むダリューン正面でキシュワードが膝に手をつき立ち上がる。 「何か判るとは思えんが、何も判らないとも限らん。バフマン殿の様子を見てこよう」 |
青春をしている少年たちと、裏事情に思いを馳せる大人たち。 |