20. 今後の方針についての話し合いがあるとのことで、同室者の中から呼び出されたのはファランギースだけだった。 ファランギースはアルスラーンの側近と言えるが、は従者だ。立場が違うのだから仕方が無いとはいえ、少し寂しい。 アルスラーンとの距離を感じて僅かに浮かんだ寂しさをすぐに振り切って、楽器と武具を先にしていたせいで、後回しになっていた肌と髪の手入れをすることにした。 今はアルスラーンの従者としているとはいえ、本業のことを思えば疎かにはできない。 いつ、旅芸人に戻っても良いように。 それはアルスラーンとの別れの期限だと思うと、ずきりと胸が痛んだ。 「あたしは会議の後にナルサスが軽く楽しめるように酒と肴の準備でもしておこうかな」 窓枠に腰掛けて、風に髪をなぶらせ乾かしていたアルフリードが大きく伸びをして床に足を降ろす。 「も一緒に行く?」 「ナルサス様の晩酌はアルフリードに任せるよ」 「そうじゃなくてさ、王子様になにか持っていってあげたら?」 髪に香油を塗りこんでいた手が滑った。 「きゅ、急に何を言い出すかと思えば……」 「王子様だって会議なんて窮屈なのが終わればゆっくりしたいんじゃないの?冷たい紅茶とお菓子のひとつでも持っていってさ」 「いい、わたしはいいよ……アルフリードだけ行っておいでよ」 軽く手を振って見送る姿勢を見せると、アルフリードは不満そうに眉を寄せの鼻先に指を突きつけた。 「暗い!暗いよ!そりゃ確かに王子様なんて雲の上の身分の人だけどさ、王子様はのこと気にかけてくれてるじゃないか!あんたが押さなくてどうするの!」 「無茶言わないでよ……」 は額を押さえて溜息をつく。 「だいたいわたしは、殿下のお役に立てればいいの。アルフリードみたいに妻や恋人になりたいわけじゃないんだから」 「違うね。はなりたくないわけじゃなくて、なれないって決め付けてるだけ!」 「そんなこと……」 アルスラーンの妻になることなど、ありえる話ではない。最初からは、ただ少しでも長くその傍にいたかった。それで十分だ。 アルフリードの強い目に見つめられ、は僅かに嘆息した。 そうだ、十分だと思っているわけではない。けれどそれ以上は望みがないのだから、十分だと言い聞かせていただけだ。 「………でもね、アルフリード。あの殿下が、愛妾を持つような人に見える?」 「けどさ」 「多くを望んではだめ。傍にいることがつらくなる。だからわたしはただ、あの人の願いを叶えるためのものになりたい」 多くを望まない。決して豊かではない旅の生活において、それはよく言い聞かされていた。 今ここにある命を喜び、それを全うすることを望む。人が本当に生きようとするのなら、それだけで十分だと養父は言っていた。 それだけで済まない者が多くいるから、この世から争いはなくならないのだと。 叶わない願いは、いつか苦しみを抱くだけものになる。アルスラーンが誰か他の女性の手を取るとき、その傍にまだがいるとは限らない。 けれど遠くにあっても、きっと胸を締め付けられるだろうことだけは確信がある。 多くを望めば、その分だけ苦しみを増す。 「だからこれでいいの」 そう笑顔で言うと、アルフリードは不満そうに口を閉ざした。 会議の後にナルサスに何か飲み物を用意しておこうと思ったのはエラムも同様だった。 城の厨房を借りに入った先で、小麦粉を強く練って叩きつけるアルフリードの姿を見つけたとたんに、何を作ろうかと膨らんでいた楽しい気持ちが一気に萎んだけれど。 自分は自分のやることをするだけだと、アルフリードのことを無視して支度を始めたが、横から聞える練った小麦粉を調理台に叩きつける音がいやに乱暴で眉をひそめる。 「こんな時間に菓子でも作る気か?お前が勝手にぶくぶく太るのは好きにしたらいいけど、みっともない姿でナルサス様の周りをうろちょろするなよ」 アルフリードとは初めからして仲良くなどとは対極の立場にいて、今更大した嫌味のつもりでもなかったのに、アルフリードはぐるりと首を巡らせてエラムを睨み付けた。 ただ睨まれただけなら恐れはしないけれど、その目がどこか血走っているようで思わず腰が引けてしまった。 「な……なんだよ」 「あんたみたいに、そうやって、外見とか、身分とか、釣り合うとか、不釣合いだとか、ごちゃごちゃ言う奴ばっかりだから、があんなになってるんじゃないのさ!」 「はあ……?」 アルフリードに嫌味を言ったのに、なぜの話になるのだろう。 どんな変換をして話を聞いているのかと眉を寄せたエラムに、アルフリードはますます眉を吊り上げる。 「あの子はさ!あたしたちといるときはいっつも笑ってたのに!旅慣れてるからって、岩場での生活に慣れてるわけじゃないのに、あたしと一緒に軽く飛んで移動してさ。元気な子だったのに、なんであんな笑い方するようになってんのさ!あんたみたいに身分身分ってうるさい奴がいるからだろう!?」 「なんのことだ?身分についてが気にしているのは知ってるけど……」 カシャーン城砦で、アルスラーンの助けになりたいのだと苦く笑った少女は、自分は旅芸人だからと王子と距離を保とうとした。それは知っている。 友人でありたい、けれどそうはなれない。だから黙って、アルスラーンにも知られないようにそっとエラムにだけ手を貸した。 すべてはアルスラーンのために。 「でもそれは、仕方ないだろう?のは分別っていうんだよ。お前みたいに図々しくない、常識があるってことだ」 「王子様が遠いのは、王宮に引っ込んでるからじゃないか!今こうやって傍にいるのに、なんでまだ我慢しなきゃならないの?ばっかじゃないの!?望まなければ何も叶いやしないのに!」 アルフリードはまた生地を叩きつけた。 その苛立ちは、友人のことを思ってのものだったのかとエラムは少々意外に思って目の前の少女への認識を新たにする。 恐らく理解できない友人に対する苛立ちもあるけれど、それは友人の身を思っているからのことだ。 望まなければ、何も叶わない。 味方が散り散りになった旅の途中、アルスラーンはエラムと友人になりたいと言った。 最初は部下の従者にそんなこと言う王子なんて理解できなかったし、これで本当に主が仕える価値があるのだろうかとさえ思いもした。 けれどそれが気紛れではなくて、本当に近しい存在を求めているのだと、彼が人を隔てる人ではないのだと、旅の最中に知ることができた。それはアルスラーンが、根気よく友人になりたいという願いが本当だと思わせるだけ、エラムに親しく話しかけてきたからだ。 今でも友人なんて大それたことは思えないけれど、旅の始めよりもずっとあの王子のことを好いている。それはエラムも自覚している。 「だったら、それを本人に言えばいいじゃないか。僕に言っても仕方がない」 「それが言えたらこんなこところでクダなんて巻いてない。……あんな顔で笑われたら、何も言えないじゃないか」 エラムに詰め寄らんばかりに睨みつけていたアルフリードは、途端に眉を下げて小麦粉の生地で汚れた両手を落とした。 「は本当にそれでいいと思ってる。けど、それは寂しいよ。王子様の手助けをして、王子様の願いが叶えばも嬉しいかもしれないけど、そんなの本当にが幸せなわけじゃない。だってが考えてる王子様の未来には、の姿はないんだ」 「それは……」 アルフリードを諭す言葉を探して、結局何も言えずに沈黙した。 エラムにはアルスラーンに語ったように夢がある。自分の夢に自分の姿があることは当然として、それではナルサスの先を思い描くとき、それでもエラムはその傍にある。 この戦いがどう進むにしても、ナルサスが多くの人の上に立ち、指揮を取るその傍で、今のように身の回りの細々とした世話以外にも、ナルサスの役に立つ姿を夢見ている。 大切な人の未来を思い描くとき、そこに初めから自分の姿がないとはどんな気持ちだろう。 「……でもそんなの、が考えることじゃないか」 「あんた冷たい子だね!はあんたのこと、悪い子じゃないって言ってたのに!もういいよっ」 アルフリードは憤慨してエラムから離れると、もうこちらを見ることはなかった。 夕食を終えた後だということもあって、エラムは簡単な料理に留めた。 荒く練った米を平たく伸ばして一口大に切り分け、カリカリに少し焦がして焼いた手で摘めるお菓子のようなものと、果物を数種類。 それらを酒と共に盆に載せた頃、アルフリードの作っていた料理もちょうど完成していたが、一声も掛けずに先に出て行く。 アルフリードは腸を取り出した魚の腹に塩を振った野菜を詰めて、伸ばした生地に包む料理を作っていたが、酒の肴にするには胃に重いだろう。 「ナルサス様はお優しいからなあ……あいつの作ったものまで全部食べたら大変だ」 ナルサスの自室ではなくて、どこかで避難して酒を楽しんだ方が主のために良いかもしれないと思案しながら歩いていると、前からが歩いてくる姿が見えた。 夕暮れの廊下は薄暗い。その顔が見える距離まで誰かがいるなんて気づかなかったことに驚いて足を止める。 「、どこか行くの?」 「うん、庭に出ようかって思って。ここのところまったく踊りの練習をしてないからね」 エラムが気づくよりも先に、どうやらの方が先にエラムに気づいていたらしく、突然掛けられた声に驚くことなく答えてエラムの前まで進んできた。 踊りの練習と聞いて、エラムは複雑な心境で眉を寄せた。アルフリードの言葉を思い出す。 が思う、アルスラーンの未来に、の姿はない。 「エラム?」 じっと見つめて、何も言わないエラムには首を傾げてその手にあるものを指差した。 「それ、ナルサス様に持って行くものじゃないの?行かなくていいの?」 「え?あ、うん。行くよ」 「じゃあね」 ひらひらと手を振って通り過ぎたの足取りは滑るように滑らかで、先ほどその接近に気づくのが遅れたのは、どうやらは足音を立てないことが原因らしい。 「ってさ」 「なに?」 声を掛けると振り返る。さらりと流れた黒髪は、旅から旅を続けているとは思えないほどに艶やかだ。旅の途中で彼女がこれといった手入れをしている姿は見てないので、恐らくこの城に入ってから手を施したに違いない。人前に出て観衆を魅了することが仕事の彼女にとって、己の容色を保つことは当然のことだ。それは仕事の一環で、特定の誰かのためのことではない。 そして彼女が踊り子として容色を保つのだとすれば、それは今はもう友人とは呼べない人との、別れた先を思っている。 「エラム?」 何が言いたいのか、何が言いたかったのか。 言葉に詰ったエラムは二度三度と小さな言葉にならない呟きを零して、それからもう一度を真っ直ぐに見る。 「……僕は、殿下の友人にはなれない」 突然の話に何のことか判らずに眉を潜めるに、もう一度きっぱりと繰り返した。 「僕は殿下の友人にはなれない。僕はナルサス様の従者で、ナルサス様のお立場もある。だからどれだけ殿下が友人を欲しいと仰られても、僕はそれに応えられない」 身分のこともあるし、友人だなんて畏れ多いとも思う。けれどそれが王子の望みなら、ほんの少しでも王子にとって気安い存在であることができればと、それは思わなくもない。 「は、どうして無理なんだ?別に、大手を振って宣伝するわけじゃないだろう?殿下の前でだけ、それでも友人になれないのかい?」 黒曜石のような瞳を大きく開いて何度か瞬きをしたは、やがてゆっくりと苦笑の様子を見せる。 「アルフリードに何か言われた?」 「なんであんな奴の話が出るのかさっぱりだ!」 この疑問がアルフリードの影響だなんて、そんなことは認められなくてエラムは打てば響くような速さで否定する。 はその様子に笑いながら、身体の後ろで軽く両手を組んで、つま先で軽く城の廊下を叩いた。 「アルフリードはいい子だよ。真っ直ぐなの」 「真っ直ぐすぎて突き抜けてるよ。ナルサス様の迷惑を考えやしない」 「そう?本当にそう思う?」 くすくすと笑って、は廊下の窓から夕闇の空へと視線を向けた。 「本当に人の迷惑も考えないような子は、人のために本気で怒ったりしないんだよ」 「あいつが怒ってるって判るなら……」 「わたしは、あの子みたいに真っ直ぐじゃないから」 は組んでいた手を解くとエラムに向き直り、そのほっそりとした腕を伸ばして、肩の高さで片手に盆を乗せたエラムをぎゅっと抱き締める。 「!?」 「……ありがとう。エラムは優しいね」 優しい人だから、人のために悩むのね。 そう囁いて、抱き締めた腕を解くとは呆然と立ち尽くすエラムに微笑みかけ、ひらひらと手を振って今度こそ歩き去ってしまった。 しばらくその場で佇んでいたエラムは、片手に乗せていた盆が揺らめいて、慌ててバランスを取るはめになった。 |
アルフリードは彼女の気持ちを恋と知っていますが、 エラムは友情だと思ってるという差もあります。 |