22. キシュワードは遠乗りに出かけると言って出て行ってしまったバフマンの後を追うために、城塞周辺の見回りという理由をつけることにした。キシュワード旗下の一部隊に城外への探索を命じ、そこに自分も同行すると付け加える。 「何も見回りに自ら赴かれなくとも」 「不審な一団を見かけたという話も聞く。殿下を追っていたというパルス人の部隊の行方も掴めておらんし、一応だ。バフマン殿がお一人で遠乗りに出てしまわれたことも気がかりでな」 はっきりとバフマンの後を追う目的だということを濁そうと引き合いに出した『パルス人の部隊』を口にして、キシュワードは眉を寄せて顎を軽く撫でた。 「特に銀の仮面をつけた男は、あのダリューンと数合とはいえ斬り結んだという話だ。念には念を入れておこう」 「ダリューン卿と……」 小さく呟いた百騎長の声に滲む動揺に、余計なことを口にしたかとすぐに打ち消すように苦笑を見せる。 「だから俺が出ておこうと言うだけだ」 歴代最年少で万騎長の地位を戴いたダリューンと切り結んで無事だった敵という話に些かの不安に囚われた部下は、自らの仕える万騎長が同行するという事実にすぐに力づけられたようだ。 勢いを取り戻して出立の準備に駆け出して行く。 「しかし……バフマン殿が向かわれた方角はいずれか判らんしな。さりとてあまり巡回に人数を回すわけにも行くまい」 そこまで呟いて、キシュワードは己の発言を顧みて眉をひそめた。 「いかんな。バフマン殿に不審な点があるとはいえ、これではまるで見張るかのようだ。あくまで様子を見るだけなのだから、見つからなければそれはそれでよいはずだ。まさか歴戦のバフマン殿がカーラーンのごときように国に背くはずもない……」 言い差した言葉の不吉さに、キシュワードはますます顔をしかめる。 アトロパテネの野の戦いでパルス軍を壊滅に導く裏切りをしたというカーラーンは、由緒正しい家柄の出で、これもまた裏切りを考えさせるだけの材料があったとはどこを見ても思い浮かぶ物がない。不遇の扱いを受けていたというのならまだしも、国王アンドラゴラスはカーラーンを万騎長として不足のない待遇を与えていたはずである。忠誠心のない男にも見えなかった。 それともこれは、キシュワードの目が節穴だっただけのことなのか。 「いずれにせよ、カーラーンとバフマン殿のことは切り離して考えなくてはならん」 バフマンの様子に陰りが出たのはほんの少し前、アトロパテネ会戦とちょうど同じ辺りだ。 そう、ダリューンに言った通り彼の伯父であるヴァフリーズの手紙が届いた後だ。そしてヴァフリーズは国王を守ろうとして戦死している。理由は判然としなくとも、カーラーンと同じであるはずがない。 気を取り直して中庭へ降りたキシュワードは、用意の整った愛馬に上がり城門へと移動した。 開き始めた門を背に、振り返って部隊を分けると告げる。 「よいか、怪しい一団のこともさることながら、此度は単騎で表へ出られたバフマン殿へ帰城をお勧めすることが最も重要だ」 ふと横手の城壁沿いから近付いてきている少女に気付いたが、これは聞かれても特に問題もない。怪しい一団がいるという話があったので、一人で外へ行ったバフマンに帰還を促すというのは何の不自然もない口実だ。 「だがバフマン殿がいずこの方角へ向かわれたかは判らん。今は隊を三方へ分けて探索する」 「あの……」 横合いから掛けられたまだ幼ささえ残る少女の声に、命を受けて受諾に甲冑を鳴らした騎士たちが一斉に首を向けた。 その反応から、声を掛けられるまで近付いてきた存在に気付いていなかっただろうことが見て取れる。 土を踏む足音はなく、気配も薄かったので無理もないが、市井の少女を相手に些か情けないとキシュワードが落胆するのはどうしようもない。 「何かな」 少女の接近に驚いて反応が遅れた部下を横目に、嘆息を飲み込んだキシュワードが先を促した。多少は急いでいるが、万騎長と判っていて何かを言いに来た相手を無碍にするほどの危急ではない。まして相手は、道案内にとはいえ王太子殿下が連れて来て、そのまま城内へ入れた娘だ。 「お話が少しだけ聞えたのですが、バフマン様でしたら西の……えっと、西の、少し北の方へ行かれました」 「………君は城壁の上にいたのか?」 城の外へ出たバフマンの行く方向をある程度見極めたというのはどういうことか。北門から出た以上は南に下ることだけはないが、それ以外はどちらへ向かうか判らないはずだ。 「いいえ。ですがバフマン様はこちらの門を抜けてあちらの」 少女が振り返って自分の後ろを指差す。 「わたしがいた方向へ馬を走らせておられました。蹄の音は少しずつですが城壁から離れて行きましたけれど、離れる音の響きがそれほど急に北へは向いておられませんでした」 蹄の音が小かろうはずもないが、城壁の向こうの音の細かな方角を聞き分けたというのだろうか。 だが少女は態度こそ控え目ではあるが、発言には絶対の自信を持っているように見える。 「おぬしは耳に自信があるのか」 「楽妓として、人並み以上には」 「よろしい。ではその忠告を受けよう。感謝する。西北ならば砂岩の丘陵があるはずだ。行くぞ!」 目的のある遠乗りでないのなら、何か理由でもない限り最初に向かった先から大きく旋回して逆方向へ行くということもないだろう。多少の前後はあろうとも、近い方角にいるはずだ。バフマンが城を出てから、そう時間が経っているわけでもない。 手綱を引き、馬首を返すと城門を潜る。その後に百騎の蹄の音が続いた。 少女の言葉に従い馬首を向けた方角で、ほどなくバフマンの姿を見つけることができた。 すぐ傍に、銀仮面を被った人影までも。 「バフマン殿っ!」 まさか口実に使ったパルス人の一団、それも銀仮面の男がいるとは思わなかった。 バフマンは老練な戦士とはいえ、ダリューンほどの戦士を唸らせた相手となると、寄る年波というものがある。即座に加勢に加わるべく馬を疾走させながら腰に下げた両の剣に手を掛けると淀みなくそれを引き抜く。 「バフマン殿をお助けせよ!」 両手を手綱から放し足だけで馬を操りながら、誰よりも早く駆け抜けるキシュワードに、銀仮面の男はすぐに馬首を返した。 周囲に他の敵影は見えない。相手も単騎行動中にバフマンと出くわしたのかもしれない。 男の後を追うべく馬の足を衰えさせずに駆け抜けようとしたキシュワードの前に、それを止めるかのように掌を向けたバフマンが割り込んだ。 「待たれよ!キシュワード殿っ」 「バフマン殿!あれは王太子殿下のお命を狙ったという男でありましょう!単騎であるなら今こそ捕らえる絶好の機!お止めあるな!」 「待て!わしが思うに、あれは囮ではないか?」 「……囮ですと?」 「そうだ。このような城塞の近くで指揮官であるという男が単騎で行動するはずがない。あれはきっと我らを誘い出し、罠に嵌めようという算段に違いない。迂闊に追わず、城に戻って防備を固めるのだ」 バフマンの声には淀みなく、焦った様子も見えない。だがその言葉にはまるで言い訳のような不審なものが拭いきれない。 まさかと思い打ち消したはずのことが脳裡に浮かんで、キシュワードの視線には不審が浮かんでいたはずだ。 だが年上でなおかつ万騎長としても先達であるバフマンに重ねて帰城を勧められては、言葉に従うよりは他なかった。 キシュワードが部下を率いて城門を駆け抜けていく後姿を見送ったは、門番からの興味深げな視線に居心地が悪くなって城内に戻ることにした。 駆け抜けた騎馬たちの風圧で乱れた髪を整えるように耳に掛け、軽く頭を下げるとすぐに踵を返す。 せっかく久々に芸妓としての鍛錬に励めそうだったのにと溜息が漏れるが、バフマンが目的と判っていて、無駄に部隊が散らばることを無視するわけにもいかないだろう。 部屋に戻ろうか、それとも城内を散策してみるか、階段をゆっくりと昇りながら思案したが、勝手にうろちょろと動いて叱られることになれば、を連れてきたアルスラーンにも迷惑になるかもしれない。 「……戻ろ」 大人しく部屋で笛でも吹くか、琵琶でも爪弾いてもいいかもしれない。 そこまで考えて、は陰鬱に溜息をついた。 笛は父の形見が手許にあるが、それ以外の楽器はカシャーン城塞に置き去りにしたのだった。 新しい楽器を揃える必要があるが、それが一体いつになるのか、この生活をしている限り見当もつかない。 「あんまり間を空けると、腕が鈍っちゃうんだけなあ……」 元々、は踊りを旨としていて演奏は養父が担っていたこともある。これからは一人で生きていかなくてはならないのだから、楽器へも力を入れなくてはならないだろう。いずれはどこかの一座に入れてもらうこともあるかもしれないが、それもある程度の腕がなければ受け入れてはもらえない。芸人の子としての将来の成長を見越して拾うには、は些かとうが立ちすぎている。 城下の町へ買い物へは出られないだろうかと暗くなった窓の外を見やりながら歩いていたは、廊下で仲間の楽師と行き会った。 「あ……」 そういえば、この人がいたのだった。旅の最中はそれどころではなかったが、ギーヴが琵琶を持っていることは知っている。ただ、楽師が自分の楽器を他人に貸すとは思えないという根本の問題があったのだが。 「おや、どうした。さっそく一人で探検か?」 目的もなく彷徨っているように見えたのか、に気づいたギーヴはからかうようような口調で軽く手を上げる。そう言ったのは、恐らく自身も城内を見て回っているからでもあるだろうが、探索ではなく探検と言われてしまうと、妙に子供っぽく聞えた。 「せっかく落ち着いたから、久しぶりに踊りの鍛錬をしようと庭に出ていたの」 嘆息をつきながら軽く肩を竦めたに、どうやら思うようには鍛錬できなかったと見て取ったらしい。ギーヴも肩を竦めて、それから急に考えるように顎を撫でる。 「ねえ……」 「なあ……」 同時に口を開き、重なった言葉に同時に口を閉ざした。 互いに目を瞬き、ギーヴが顎を撫でていた手を外して先を促すような仕草をしたので、先に言いたかったことを口にした。 先ほどちらりと考えた、楽器を借りられないかという話だ。 最初から駄目で元々で訊ねた話だったが、思ったとおりギーヴは即座に首を振った。 「悪いな。自分の楽器を人に触らせるのはあまり好きじゃない」 「いいえ、こちらこそ無理を言ってごめんなさい」 「なに、言いたいことは判るから気にするな。なあ、ところでそんなに芸妓としての腕が鈍ることが気になるなら、俺の伴奏ではどうだ?」 「え?」 ギーヴはにやりと笑って顎に手を当て、目を瞬くを上から下までじっくりと往復して眺める。 「少し興味があってな。楽器の腕ではなく踊り子としての腕だが、音と合わせた方が鍛錬にもなるだろう?」 ギーヴの楽師としての腕前はまだ知らないが、一人で楽師として旅をしていたのならそれなりにはできるのだろう。それは願ってもない誘いであったに違いないが、は即答できなかった。 頷こうとして、琵琶の伴奏に養父の音を思い出してしまったから。 「あ……えっと……」 一瞬だけ表情を輝かせて、だがすぐに言葉に詰まったに、ギーヴは軽く眉を上げて手を振る。 「別に今すぐという話でもないさ。少し興味があっただけだしな。まあ、気が向いたら声を掛けてみてくれ。その時に俺の気が乗れば、試してみてもよかろう」 「……ええ、そうね。ありがとう……」 申し出を受けることも、断ることもしなかったに、その心情を察している風に軽く流してくれる。 ファランギースには散々にあしらわれてばかりいるギーヴだが、やはり大人の男だと、自らの未熟を思っては微笑みながら、軽く溜息をついた。 |
ギーヴほどバランスの取れた大人はそういないと思います。 |