19.


ようやくたどり着いたペシャワール城塞は、赤い砂岩で出来た高く厚い城壁に囲まれた武骨な様相だった。パルスの武威を示すための建造物であり、王都エクバターナのような華やかな装飾など一切ありはしない。
城門の扉も厚い樫板を四枚重ねて鉄板を貼り、しかもそれが二重になっている。国境に面する東の城壁の下には、深い濠も巡らしてある。
現在この城塞を預かる万騎長は二人、キシュワードとバフマンという。アルスラーンを脅かしたザンデら追撃隊を追い返したのは、年少のキシュワードのほうだ。
彼は敵を蹴散らすと、城下へ率いて来た五千の騎兵のうち半数の兵に掃討に当たらせ、すぐさまアルスラーンの元へと駆け寄って歓喜の声を上げた。


「殿下!アルスラーン殿下!」
他の者たちと同じように馬を降りながら武器を仕舞ったには面識のない男ではあったが、それが誰であるかは尋ねるまでもなく判った。
均整の取れた長身と、綺麗に整えられた黒い髭、漂う武人としての威風もさることながら、なにより両の腰に下げられた二振りの剣が知らしめる彼の勇名。
「よくぞご無事で……」
「久しぶりだ、キシュワード。アズライールが助けてくれたので、おぬしも近くにいるとすぐに判った。本当に、よく来てくれた」
アルスラーンが名を呼ぶと、王子の肩に留まっていた鷹が誇らしげに一声鳴く。アルスラーンはすぐ目の前で跪いた男の手を取って感謝の言葉を述べながら立ち上がらせた。
同時に二振りの剣を扱う二刀流で双刀将軍との異名を馳せる万騎長の一人、キシュワード。
現在は東の国境にいるが、キシュワードは二年前までは西の国境を守ってミスル国の兵士と剣を交えていた。
キシュワードが西から東へと、まったくの正反対の位置まで配転されたのは、ミスル側がそれを休戦協定の条件のひとつに挙げたからだ。その交換条件としてミスルは五つの城塞をパルスに引き渡すという提示までした。
パルスとミスルとの間にはディジレという大河が流れているのだが、「双刀将軍キシュワードがある限り、翼があろうともディジレを越えるあたわず」と謳われたほどである。
はパルスに戻る前はちょうどミスル国を長く旅していたので、かの国でキシュワードの名前を畏怖や憎悪を交えた声でよく耳にしていた。
キシュワードは王太子の手に導かれて立ち上がると深く一礼をして、アルスラーンの左右に立つダリューンやナルサスの両名と視線を交わして懐かしそうな表情をする。
それから更にその後ろに控えるたち王太子の他の従者をさっと一瞥して確認したが、噂で聞いていた鬼人のごとき男のその目は、意外にも柔らかで優しい。
一行にアルスラーン以外の子供が混じっていることに、驚きや侮蔑のようなものは一切見せず、キシュワードは遠くに見える城塞を示してアルスラーンを歓迎した。
「ペシャワール城にある騎兵二万、歩兵六万、あげて殿下に忠誠を誓わせていただきますぞ」


そうキシュワードが示したペシャワール城塞の高く荘厳な城門を潜りながら、はようやく本当に安堵することができた。
国で随一の剣士のダリューンもいるし、なにより五千もの騎兵を従えて現れたキシュワード。頼もしい臣下に周囲を守られた時点でアルスラーンは安全になったと言えたのだが、頑強な要塞に入ればその安全はより強固になる。
自分の身も大切にしないといけないとアルスラーンに叱られて反省はしたが、それはそれとしてが一番気がかりで大切なものがアルスラーンの身であることに変わりはない。
石畳の広場で馬を降り、一行の最後尾について城へと入ったに、横を歩いていたアルフリードがこっそりと耳打ちをしてきた。
「なんか落ち着かないね、こういうとこ」
は苦笑いで頷く。
普段は砂漠と岩山の辺りで生活を営むゾット族のアルフリードが荘厳な城塞に馴染みがないのは当然だろう。度胸の据わった娘なので気圧されているという様子はなく、言葉の通り単に違和感が拭えないでいる程度の様子ではあるが。
は仕事で王侯貴族の下へ呼ばれることもあったから、まるで踏み込んだことのないような場所ではないのだが、芸人として裏口からひっそりと入るのと、王子の従者として正面から入るのでは大きな違いがある。やはり少々、居心地が悪い。
そんな後ろの少女達のやりとりなど知る由もなく、アルスラーンを案内して先頭を行くキシュワードが先の廊下を示して道を開けた。
「さて、殿下。今一人の万騎長が、殿下にお目通りを望んでおります」
そこには白に近い灰色の髪と髭の老将が立っていた。
「バフマン!」
アルスラーンは久々に会う臣下に喜色を見せる。
キシュワードと共に国境を守護している万騎長最年長の歴戦の将軍は、だが王子の喜びに対して意外なほどに反応が鈍かった。
「おお……殿下。ご無事で……まこと、ご無事でようございました……王太子殿下」
歴戦の勇者というには少しばかりぎこちない動きで、歩み寄ったアルスラーンに深々と礼を取る。
「うん。バフマンも息災でなによりだ」
老将のぎこちなさを歳のせいだと思ったらしいアルスラーンが優しく声をかける後ろで、ダリューンやナルサスたちはちらりと視線を交わし合っている。
大人たちのその様子には気づかなかったが、も違和感に僅かに首を傾げた。
バフマンの動きの鈍さは、老人特有のものとは少し違って見えた気がしたからだが、ではどう違うかと問われるとはっきりとは言葉に表せない、その程度の違和感。
「それでは殿下、どうぞまずは旅の疲れをごゆるりと癒してくださりませ。かつてアンドラゴラス陛下が東方遠征の折にお使いになれた部屋を整えてございますれば」
キシュワードは広間へと王子を案内しながら、祝宴の準備や王子の従者たちの部屋割りなど、様々な指示を素早く飛ばす。
キシュワードが用意させた部屋はそれぞれ、アルスラーンの部屋を中心として左右と向かい側に、それぞれダリューンとギーヴ、ナルサスとエラム、ファランギースとアルフリードとという組み合わせになっていた。
は一行の最後尾を歩きながら、王子の前を辞したバフマンの横顔をちらりと見て通り過ぎたが、老将の顔色を伺う事はできなかった。


広間で一通りのことを済ませると、長旅の疲れを気遣ったキシュワードの計らいで八人は早々に振り分けられた部屋に入ることが出来た。歓待の宴は夜になってからということで、それまでは各自が自由に時間を使える。
「まずは風呂だよね。汗と泥がすごいんだもん。水浴びする暇すらなかったからさあ」
そう不満気に漏らしたアルフリードは、を引っ張ってすぐに大浴場に向かった。ファランギースはその忙しなさを笑っているだけで、特に咎めることも同調することもなく、先に軽く装備を点検してから風呂に行くつもりのようだった。
そうしてアルフリードはほとんどファランギースと入れ替わりくらいの早さで入浴を済ませると、部屋で薔薇水を一杯飲み干して早速ナルサスたちの部屋へと行ってしまった。
その行動力に、一人部屋に残されたは唖然とするしかない。
「元気だよね……アルフリード」
つい先刻まで敵に追われて命の危機にさらされていたというのに、行動がすべて機敏だ。
本来の行動力を考えると、もアルフリードとそう変わりはないと思う。ただ、今までとはあまりにも勝手の違う旅が続いたせいで感覚が少し鈍っているような気がする。
アルフリードの元気の良さに感心しながらカーペットに座り短剣と鞭を軽く点検すると、次に笛と竪琴の手入れを始めた。
アルスラーンについて行くと決めたからには、今まで以上に武芸についても怠れない。だがの本分は芸妓である。どちらも疎かにするつもりはない。
竪琴を磨き、弦の調子を軽く整えると、は後に残していた笛を手にした。
カシャーン城砦でファランギースが死した養父の懐から取り出して握らせてくれた、形見の品。あのときファランギースがそうしてくれなければ、はこれを手にすることすら思いつかなかっただろう。
それをぎゅっと強く握り締めて深く息を吐く。
本当に悼む気持ちがあるのなら、遠くからでも弔える。
自分の死に捉われるなと、最期までの心配をしてくれた優しい養父。あんなことになったのはのせいなのに、そのことを一言も、最期まで責めることはなかった。
まだ湿ったままの髪を後ろへと流し、はカーペットの上で背を伸ばして西の方へと向き直る。そっと笛に口を当てると、静かに曲を奏でた。
あの別れを思うと、今でも胸が痛み涙が滲む。幸せになれと言ってくれた養父は、が塞いでばかりいても喜びはしないだろう。だから前を向いて進んで行く。だけどこれは忘れてもいい痛みではない。罪も悲しみもどちらも抱えて、例え時と共に薄れて行くとしても、決して忘れずに。
ゆっくりと丁寧に、葬送の曲ではなくが奏でる中で養父が一番好きだと言ってくれた曲を吹き終えた。
滲んでいた涙をそっと拭って笛を下ろすと、後ろで静かに扉が開く。
入浴を終えて部屋へ戻ってきた女神官は、何も言わずにから少し離れたところに腰を降ろして軽く点検だけしておいた剣の手入れを始めた。
恐らくは、が養父への弔いをしていることに気づいて部屋の前で曲が終わるまで待っていてくれたのだろう。思えばあの騒動の最中に、ファランギースは女神官として養父のために祈りの言葉を短くだが捧げてくれた。
は居住まいを正し、ファランギースの正面に向かって座り直すと、剣と布を手に顔を上げたファランギースに、感謝の意を込めて深々と頭を下げた。
「お礼が遅れましたが、父のために祈りをありがとうございました」
「礼を言うほどのことでもあるまい。私は神官としての務めを果たしたまでじゃ。それに、おぬしの父にとっては、おぬしのその心が何よりの手向けであろう」
「そう……だったらいいな……」
その美貌に優しい笑みを乗せてそう返されて、は僅かに微笑んで笛を抱き締めながら俯いた。
それからすぐに気持ちを切り替えるつもりで、目尻に浮かんでいた涙を拭いながら顔を上げる。
「それにしても、ミスラ神殿に仕える神官はみんな強いんですか?」
「武芸は嗜みではあるが、私が殿下の元へ遣わされたのはもっとも武芸に秀でていたからじゃ」
言外に自らの稀有な才能を肯定しているのだが、ファランギースが口にすると嫌味でも過信でもなく、さも当然で当たり前という気になるのだから不思議なものだ。
思わず感心して頷いてしまったに、ファランギースはくすりと笑う。
「と、それは真実だがそれだけではない。私のように美しく、学問にも武芸にも秀でた者はとかく同僚に妬まれるものでな。殿下の御身にことあるときは、神殿に仕える者のうち武芸をこととする者がお助けせよという、この春亡くなった先代の女神官長の遺言に従うという名目で私を神殿から追い出したというわけじゃ」
「な、なるほど」
やはり当たり前のことのようにサラリと言い放つファランギースに同調するような、圧倒されるような思いで頷いたは、ここまで自分に自信を持って生きている美女に、ふと既視感を覚えた。
誰かを考えるまでもない。遠い昔に別れた、に武芸と踊りの基礎を教えてくれた最初の養母だ。
しかも偶然なのか、それともそれがミスラ神の神官の常識なのだろうか。養母も元ミスラ神の女神官だった。
武芸に秀で、養母も旅芸人としては学があった様子だった。自信満々に生きた美女という点まで同じで、は苦笑しながら頬に手を当てた。
「これでフゼスターン地方の神殿なんてところまで一緒だったらすごいんだけどなあ……」
「うん?私のいた神殿を知っているのか?」
聞こえた地名にファランギースが何気なく答え、は絶句した。フゼスターンのミスラ神殿は一体どんな神官教育をしているのだろう。
思わず真剣に考え込んでしまったところで、再び背後の扉が開いた。ただし、今度は叩きつけるような激しさで。
「なにさ、あいつ!」
憤慨して足取りも荒く部屋に飛び込んできたアルフリードは、そのままの勢いでの横に腰を降ろした。
「アルフリード?」
「あのエラムって子!なんであんなに生意気なのさ!年上を敬うことすらしもしない!」
「あー……」
は軽く天井を見上げて言葉に詰り、ファランギースは小さく笑った。
ナルサスに深い忠誠を誓っているエラムは、急に現れてナルサスの妻になると宣言して憚らないアルフリードに対して、色々と思うところがあるようだ。
その様子は周囲から見ても一目瞭然で、も今までは自分のことで手一杯でつい放っておいた形になってしまったが、これから共に仲間としてやっていくならどうにか仲裁する必要があるだろう。
「わ、悪い子じゃないんだよ」
「喧嘩を売ってきたのはあっちだよ!?ナルサスの邪魔をしたら許さないなんて言ってさ!あいつに許してもらう筋合いなんかないのに!」
「アルフリード……」
「おぬし、ナルサス卿を好いておるのか?」
当惑するとは違い、ファランギースは笑みを含んで問い掛ける。
友人に怒りをぶちまけていたら唐突に声を掛けられて、勢いで首を巡らせたアルフリードは、その笑みを見せる美貌に一瞬だけ口ごもった。
「……だったらいけないのかい?」
反抗しようとしてしきれない口調に、ファランギースは更に微笑む。
「もしナルサス卿を好いておるのなら、彼の妨げにならぬようにすることじゃ。あの御仁は今のところ、一人の女よりも、一国を興すことに夢中になっておる。しばらくは見守ってやってもよかろう?」
「国を興すなんて意味のないことだよ。新しい貴族と奴隷ができるだけさ。ナルサスほど頭のいい人が、そんなことに気づかないなんてね」
アルフリードの口調は、やっぱり反抗しきれないで拗ねている風があって、今度はもこっそりと笑みを含んだ。
ただ、アルフリードの言葉には頷くものがある。
流れて生きてきたにとって、国というものがそんなにも貴重だという考えは理解できない。国が滅びたなら、次の土地へ行けばいい。むしろ国がなくなったからといって、いきなり土地の全てが滅ぶわけでもない。ただ生き易いか、生き難いか。国の意味なんてそれくらいとしか思えない。
それでもここにいるのは、それがアルスラーンの望みだと知っているからだ。本当は、パルスという国がどうなろうとも、には特になんの感慨もない。ただ大切な人を悲しませたくないから、国土をパルスの物に奪回できればいいと願うだけだ。
ファランギースは少女達の様子に頷きながら、剣を磨き始める。
「そうかもしれぬ。だが、おぬしのナルサスなら、それを克服するような道を見つけるかも知れぬぞ」
アルフリードと一緒にまでドキリとして背を伸ばしてしまった。
優しいアルが作る国なら。
本当に、アルの優しさを生かす国を作ることができたら、それは確かに意味のない興亡ではない。
「そういう男だと思えばこそ、彼を好きになったのではないのかな」
「わかったよ」
アルフリードは多少ぶっきらぼうに答えたが、ファランギースの言葉には頷いた。傍で聞いていただけのはずなのに、なんだかまで一緒に諭された気分だ。
諭されたりなんかしなくたって、は僅かな望みも持ってなんていないはずなのに。
「でもあんた、随分とお節介だね。どうしてそう口を挟むのさ」
「気に障ったのなら許して欲しい。確かにお節介だと判ってはいるのだが、私にも経験があることなので、他人ごととは思えなくてな。……も」
「え!?わ、わたしは別に」
アルスラーンへの気持ちを見透かされたようで、は慌てて首と手を一緒に振る。……恐らくは見透かされていると思う。たった数日一緒にいただけのアルフリードにだって気づかれているくらいだ。
とアルフリードと、それぞれ自分の考えに入った少女たちを見守るように、ファランギースは微笑みを浮かべて剣を磨くことを再開した。







安全な場所についてホッとしたところで、改めてファランギース話を。
それにしても、判りやすい少女たち……。


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