18.


の手を離すと、アルスラーンは部下達のほうを振り返る。
「それで、その者はナルサスが?」
ナルサスの隣に馬を並べるアルフリードについて訊ねると、僅かに顔を赤らめてぼうっと眺めていたアルフリードがはっと驚いたように背筋を伸ばす。
「は、はいっ!あの、あたし……じゃない、えーと、わたくし……」
さすがに一国の王子を前にすると緊張したらしいアルフリードの様子に、ナルサスが軽く咳払いをした。
「この者はゾット族の族長の娘のアルフリードと申します。追っ手の兵に囲まれていたところを救いました。の友人とのことで、そのままついてきているのですが……」
「おぬしの妻だからではなかったか?」
ダリューンが小声で呟くように言い、ナルサスに睨み付けられる。
「あの、わ、わたくしもと一緒に殿下にお仕えして国のために働きたいと思います」
「そうか……いや、しかしが我らと共にあるのはペシャワールまでなのだが、それでよいのなら……」
「殿下、わたしもアルフリードと同じです」
は赤くなった目元を拭って背筋を伸ばした。
「お許しいただけるなら、この先も殿下のために働きたく思います。決して命を粗末にはしないと誓います。ですから!」
……」
アルスラーンは困惑したように言葉を濁らせた。
心許せる少女がこれからも傍らにいてくれるのは確かに嬉しい。だがそれは危険と承知で彼女を受け入れることになる。
「よろしいのではありませんか、殿下」
「ナルサス、何を」
最初にを国境までの道案内すればいいと提案してきたのはナルサスだ。
そのナルサスが事も無げに同行を許可するように勧めて、アルスラーンは驚いたように目を見張る。向こうでギーヴが興味深げに顎を撫でたのが見えたが、ナルサスは気にも留めずに首を振る。
「道案内として雇ったのは、あのときのこと。旅の様子も見ておりましたが、本人がこう申しております以上は特に問題はないかと。あとは殿下のお心一つの話ではありますが」
「ナルサス……」
アルスラーンがを返り見ると、視線を逸らすことなく真っ直ぐに目を見て緊張したようにアルスラーンの言葉を待っている。
本音を言えば、離れたくないのはアルスラーンだって同じなのに。
アルスラーンは目を閉じて溜息をつくと、手綱を引いて馬首を東へと向ける。
、アルフリード。今の私はろくな礼もできないが、それでも良いだろうか」
「もちろんです!ありがとうございます!」
は表情を輝かせて頭を下げて、事情のよく判っていなかったアルフリードも友人の様子にほっと胸を撫で下ろす。
アルスラーンに続いて馬を進めていくファランギースやダリューンと共にエラムが通り過ぎ様にの肩を軽く叩いた。
「よかったね。これからもよろしく」
「うん……よろしく」
アルスラーンの傍にいたいと、傍にいてその力になりたいのだと、の強い思いを言葉にして聞いていたのはエラムだけだ。それが叶ったことを喜んでくれる、それが嬉しくては肩をさすって笑顔で頷いた。


一行の最後尾に着くナルサスに、並んで行くギーヴが馬を寄せてからかい混じりの声をかけてきた。
「傍観者を決め込むと言っていたわりには、随分と口添えをしたな軍師殿」
「おぬしよりはあの娘のほうが、殿下に対する忠誠の点においては信用がなるからな」
今のアルスラーンには優秀な部下はもちろんのことだが、何よりも信の置ける相手が少しでも必要だ。
ペシャワールに着きさえすれば、城塞には多くの兵士と何より万騎長のキシュワードとバフマンがいる。だが気持ちを和らげさせることのできる者といえば、さて誰がいるというのか。
先に行くとアルフリードには蹄の音で聞こえていないだろう程度に押さえた声でナルサスがそう返すと、ギーヴは軽く口笛を吹いた。
「俺はまたてっきり、両手に花の状況で篭絡されたのかとばかり」
ナルサスが露骨に顔をしかめて、ギーヴは珍しく判りやすい反応をする軍師を見て楽しむ。
「ダリューンはファランギース殿と二人旅だったというし、なんとも羨ましいことだ。俺とは雲泥の差だ」
「俺は何もしておらん!何もなかった!」
強く潔白を強調したナルサスは、それから溜息をついて更に少し声を落とした。
「俺は何もしておらんぞ。むしろ殺されかけたほどだ」
「ああ、軍師殿の道には銀仮面の男がいたそうだな」
「違う。にだ」
ひょいと眉を上げて意外そうな表情を作ったギーヴに、ナルサスは軽く首を振る。
「俺の首を手柄にしようとしたのではない。敵に囲まれて、俺が寝返りを誘われたときのことだ。後ろから凄まじい殺気を放たれた。万が一本当に俺が寝返ったとしたら、大人しくしていれば命が助かるものを、あの娘は俺が殿下の敵に回るくらいなら、刺し違えてでも殺そうと思ったらしい」
「それはまた、酔狂な」
ギーヴのその言葉は、間違いなく逃げられない状況なら、自分はナルサスを手柄にすると言っているようなものだが、そんなことは判りきっていたことなのでナルサスもそうだろうと頷くだけだ。
「それにダリューンが間に合ったからどうにか収まったが、最後には己の命を盾に俺を逃がそうとしたようだ。このような状況だからな、大望のために命を捨てられるのはいい。だが殿下に対して盲目過ぎることはまた別の弊害だ。それが気にはなっていたのだが……」
「そこは殿下が釘を刺されたということか」
ナルサスは黙ってたちより更に前を行くアルスラーンの後姿を見る。
臣下に行き過ぎる点があろうとも、その手綱を捌く器量がアルスラーンにあることは喜ばしい。
ダリューンもナルサスも、ギーヴもファランギースもその誰もは、気持ちが行過ぎて極端な行動に走るということはありえない。
今のアルスラーンは船頭となり行く道を指し示しはするが、船の操作そのものはすべてナルサスたち臣下に任せている。今はそれでいい。
だがいずれ従える数が増えるに従って、アルスラーンが直接指揮する者の中にも任せきりにするには不安な者も出てくるはずだ。大抵はそれらにはナルサスやダリューンが傍にいて対処することにはなるが、アルスラーン自身がそういった者に慣れておいて悪いことはない。
主はなるべく鷹揚に構えていて、要所を押さえてくれればいい。だがその要所を見極める目を持つことこそが、難しい。
はその未熟ゆえに貴重なのだ。能力が及ばないということではなく、過ぎる献身が起こす不安定は、アルスラーンに感情の面での成長を促してくれるだろう。
そして、『王子ではないアルスラーン』であろうと変わらぬ献身を見せる存在は、いずれ王子を支える大きな柱になるかもしれない。
エラムやアルフリードは、アルスラーンの前にまずナルサスを挟む。そうではなくて、真っ直ぐにアルスラーンにのみ忠誠を誓う者が欲しかった。
「ま、ちょうど銀仮面の正体のこともあるしな……」
これはギーヴにも聞こえないよう口の中で小さく呟いて付け足す。見張っていなくともがアルスラーンの障害になることを吹聴する心配はないにしろ、事がどう転ぶか判らない以上、情報を知るものが目の届く範囲にいてくれるほうが有難い。
それら他の者には漏らさない理由も含めて、ナルサスにはを引き止めておきたいだけの理由があったのだ。


「ねえ、
アルフリードが前後を走る仲間を気にしながら馬を寄せてきた。
並走する馬同士がぶつからないよう、ギリギリの距離まで詰める技量はさすがはパルスの民というべきかもしれない。
できるだけの距離を詰めて、声が他に漏れないようにアルフリードは更に少々身を乗り出した。
よほど内緒にしたいのかとも耳を寄せるように態勢を乗り出すと、蹄の音にかき消されない程度に押さえた、いたずらっぽい声で囁かれる。
「安心したよ」
「何が?」
「あんたがナルサスは違うって言ってたの、本当だったみたいで」
目を瞬くに、アルフリードは更に少しだけ声をひそめた。
「さっきの王子様、あたしまでドキドキしちゃったよ」
「なっ……ア、アルフリード!」
一瞬で耳まで真っ赤に染めた友人に、アルフリードはにやりと笑う。
「兄者が友達って主張も今なら納得だよ。そりゃあんなにキラキラした王子様を見てるなら、兄者なんて目に入らないよねえ」
「で、殿下はそんなのじゃ……もちろんメルレインも違うけど!」
「そんな必死に否定しなくてもさ、さっきの王子様を見てる限り望みなしってこともないじゃないの。むしろもう恋人かって勢いだったよ!」
「変なこと言ってたら、ダリューン様に不敬を問われても知らないよ」
は声を低めて脅しつけたが、アルフリードは笑って手を振るだけだ。
「王子様だって息抜きは必要だって。結構いい感じなんだからさ」
「息抜きが必要なら芸を使うわ。今は殿下のお心を乱すようなことが一番いけないの。だから殿下に変なこと言わないでよ!」
、それ硬いよー」
恋する乙女が恋に生きなくてどうするのと不平を述べる友人を放って、馬の足を速める。
恋に生きるというのなら、は十分恋に生きている。命を捨てようとしたのだってそのためだ。それは逆に怒られてしまったのだけど。
アルスラーンにとってのは、幼い頃の友達だ。
硬かろうと意地だろうと、アルスラーンにこの気持ちを知られて、気まずい思いをさせるくらいなら黙って傍に控えているほうがずっといい。
この先の分かれ道で先を示すために、は先頭を行くダリューンの元まで馬を飛ばした。


とアルフリードの話を元にひたすら東へと馬を走らせて、とうとう東にペシャワール城塞の姿を望む距離まできた。岩山と疎林の彼方に赤い砂岩の城壁や塔が見える。
あと少しというところまできたが、目の前には深い渓谷があり、直進はできない。
「少し上流にいけばアドハーナの橋がありますが」
東のペシャワール城塞へ向かうための木製の重要な橋の名前を挙げたに、ナルサスは軽く首を傾げた。
「本来の大陸公路を最初から直進していればアドハーナの橋に直接出ていたからよかったかもしれんが……」
少し考えて、ナルサスは上流ではなく下流を示した。
「相手はパルス人だからな、通常の道では地の利はない。アドハーナより廃れた道を行こう」
こうして下流へ下り、流れが浅く緩やかな場所を探し当てたところで追っ手の声が聞こえた。
「いたぞ!アルスラーンは生かして捕らえろ!他の者は殺せっ!」
殺到する敵にダリューン、ナルサス、ギーヴ、ファランギースの四人で輪を作り、アルスラーンと年少者たちを背後の円の中に庇い、庇われた年少者たちはそれぞれ弓やナイフを使って、卓絶した剣技を奮う大人たちの援護を欠かさない。
「ダリューン!貴様の相手はこの俺だ!」
マルヤム製の冑を被り、巨大な剣を操る若い男が声を張り上げダリューンに踊りかかる。銀仮面のヒルメスの傍に控えていた男だ。
「まだ懲りぬか、カーラーンの不肖の子が!」
ダリューンが巨大な剣を弾き返し、さも嫌そうな声を上げた。
「二度はしくじったが逃がすものか!貴様は父の仇だ!」
「否定はせぬが、おぬしの父上と俺は正々堂々と戦って勝敗を決した。それもカーラーンが万騎長でありながら、ルシタニアの手先になって国を売ったゆえのこと。父の愚行こそを恥じ入るべきであろう!」
「父上がルシタニア人ごときの手先になっただと!?」
男は唸り声を上げて更に激しく剣を振るう。
「父上や俺は、パルスに正統の王位を回復するため、あえて一時ルシタニア人に膝を屈する真似をして見せただけのこと!貴様と俺と、どちらが王家の真の忠臣であるか、いずれ貴様も思い知ることになるわ!」
「正統の王位だと?」
はハッとしてダリューンのほうを振り返る。
怪訝そうな表情で男の剣を受け止めたダリューンの向こうで、男はにやりと口を歪めるように笑った。
は咄嗟に、右手に鞭を手にしたまま、素早く左手で腰のナイフを抜き取って投げつける。
男を狙うにはダリューンの位置の角度が悪かった。男ではなくその傍にいた別の兵士を襲った一撃は、だがその絶命の声が男の話の邪魔をした。
続いて馬首を返して鞭を男にしならせるその前に、黒い塊が上空から飛来して、猛然と男に襲い掛かった。
「ぐわっ!なんだ、こいつはっ!?」
ダリューンからよろめき離れた男は、その追い討ちを防ごうと滅茶苦茶に剣を振って後ろに下がる。すぐさま剣と槍の壁が男とダリューンの間に出来た。
男に襲い掛かった影が再び上空に舞い上がり、高い声で鳴く。
アルスラーンはその鳴き声に喜びの声を上げて上空を振り仰いだ。
「アズライール!」
アルスラーンが左腕を差し出すと、再び舞い降りた影がその腕に捕まった。立派な体躯の鷹だ。甘えるように一声鳴いて擦り寄った鷹を誉めてから、アルスラーンは声を張り上げる。
「みんな、キシュワードが近くにいる!援軍をつれてきてくれるぞ!」
万騎長の一人の名前が上がり、敵兵に動揺が走る。万騎長は一騎当千と言われているが、それはここにいるダリューンが証明している。そこに部下を引き連れた新たな万騎長が現れては勝ち目はない。
浮き足立ったところに更にダリューンの剣が唸り、完全に指揮が乱れた。
そこに轟く蹄の音と、抜剣の金属音が続き、敵兵は総崩れになって我先にと馬首を返す。
「王太子殿下を守り参らせよ!全軍突撃っ!」
力強い声に続き、五千もの騎兵が突撃の声を上げながら川を渡り、尾根の急坂を駆け下り、殺到する。
形勢は一変した。
舌打ちをしつつ馬首を返した先ほどの男に、ダリューンが血に染まった剣を片手に追いすがろうとした。
「待て、ザンデ!」
だがダリューンが馬を走らせるより先に、ギーヴがその横を駆け抜ける。
「その敵、俺がもらった!」
横合いからの突きに、ザンデと呼ばれた男は左頬を切り裂かれながら大剣を振って続く二撃目を打ち払いギーヴとの距離を開けた。
は素早く鞍にかけていた弓を手にして弦を引き絞る。
あの男はヒルメスのことを知っている。傍に控えていたことからも、恐らく片腕と見ていいだろう。決して逃がすものかと狙いを定めて放った弓は、手綱を握る男の左腕を射抜いた。
だが手綱を手放しよろめいた男は、剣を握ったままの右腕を馬の首に回して落馬を免れた。
唖然としたの横で、逃げる男にアルフリードが悲鳴のような、感心したような声を上げる。
「うっそ、曲芸!」
「なかなかしぶとい」
獲物を逃がしたギーヴの皮肉を込めた賞賛を聞きながら、は走り去るその背中を苦い思いで睨み付けていた。








ようやく味方に会うことができました。ペシャワールへ到着です。


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