17. このまま逃げ切れるとは思っていなかったが、しばらく馬を走らせたところで聞こえた馬蹄の轟きにナルサスは舌打ちをする。 ヒルメスの追手であることは見なくても判る。もしも追いつかれたら、今度こそ奇策も弁舌も通用しないのは明白だ。 ヒルメスと一対一ならそう引けを取らないとは思うが、こちらにはとアルフリードがいて、しかも相手には部下がいる。多勢に無勢だ。 「ナルサスめがいたぞ!」 追手の先頭にいた騎士の叫びに、は僅かに肩越しに追手を返り見ると自分の馬をナルサスの後ろに回した。弓を射かけられたときは盾になる。そうでなくても、とナルサスの馬術の技量を考えれば、先頭にはナルサスにいてもらうべきだろう。 喚声と武器を扱く金属の擦れる音が交じり合って、後ろから追い立てるように殺到する。 手には汗が滲み、耳を打つ激しい音が馬蹄の轟きなのか、それとも自分の鼓動なのか判らない。 「ここで……」 は唇を噛み締めた。 ここでなんとしてでも、ナルサスだけでも逃がしきれば、アルスラーンの役に立てる。 崖を回り込む細い道に差し掛かり、は腹を括った。この狭い道を抜けたところで馬を止めて追手を迎え撃つ。 崖を利用すれば幾分かの時間は稼げる。崖の出口で倒れたら、自分の死体も追手の馬の足の邪魔になって、少しでも足止めになるだろう。 「……もう一度、会いたかったな」 目を細めて、晴れ渡った夜空のような色の瞳の少年を想う。だが次の瞬間には、口を引き結び、手綱を握っていた手を鞍にかけていた弓に伸ばした。その刹那。 風がの頬のすぐ横を駆け抜けて後ろから悲鳴が聞こえた。 その風は、唸りを上げて飛来した黒羽の矢が起こしたものだと気づいたのは、弓弦の音と共に二射、三射と射かけられたからだ。 崖の細い道を抜けた先に、黒衣の騎士が弓を構えて待っていた。 「ダリューン様!」 そのすさまじい弓勢と、黒衣の騎士の名に怖気づいたようなざわめきが起こり、にわかに追手が浮き足立った。追いついた人数だけではとてもではないが、手におえないと思ったのだろう。慌てて退却していく。 「ナルサス、ひとつ貸しにしておくぞ」 ダリューンは崖を抜けてきた三騎を、弓を鞍に戻しながら不適な笑みを見せて迎えた。 「ぎりぎりで間に合っておいて、偉そうに言わんでもらいたいものだな」 ダリューンの横をそのまま駆け抜けたナルサスは馬の足を緩めながらすぐ様言い返したが、さすがに僅かに呼吸が乱れていた。 は僅かどころではない。この逃避行中、何度か死を覚悟した中でも、一番の絶望的な状況だったのだ。肩で呼吸をし、心臓は早鐘のように鳴り響き、汗がどっと拭き出す。 「ナルサス様!ご無事でよろしゅうございました!」 ダリューンとは違い、こちらは素直に喜んで馬を寄せてきたエラムは、頷いた主人からずっとその行方を気にしていた少女に視線を移した。 「も、無事で」 「……………うん」 無事の再会を喜んでくれるエラムに笑顔を返そうとしたけれど、手綱を強く握っていないと、震えて力が抜けてしまいそうで、荒い呼吸の合間からそう返すことで精一杯だった。 それを見ていたナルサスが、少し目を細めて口を開く。 「、おぬし……」 「ところでナルサス、こちらの女性は?」 追手がすべて退却したことを確認して、馬を返して戻ってきたダリューンが一人増えていた同行者に興味を持って訊ねると、何を言いかけていたナルサスは急に言葉に詰まった。 当然の質問への返答に苦慮しているナルサスを見て、は自分が説明しようとしたのだが、やはりまだ上手く声が出ない。強く死を覚悟しすぎて、喉まで震えている。 だがそんな配慮は無用だった。当の本人が名乗ったからだ。 「あたしはアルフリード。ナルサスの妻だよ」 あっさりと、簡潔に、要点だけをまとめた自己紹介に、ダリューンとエラムの唖然とした視線がナルサスに向かう。 「違う!」 ナルサスが叫ぶと、アルフリードは少し照れたように笑顔で頷く。 「うん、本当はね、正式には結婚はしてないんだ。だから今はただの情婦なんだけど」 「情婦!?」 「ナルサス様……」 ダリューンとエラムから向けられた含みのある視線に、ナルサスは常にはないほど慌てて否定に右手を振る。 「違う!俺は何もしておらぬ!」 「いやに慌てるではないか」 「あ、慌ててなどおらぬ。この娘はゾット族の族長の娘で、の友人だ!例の銀仮面に狙われていたところを救ってやったのだ!、おぬしも何とか言え!」 「えっと……」 単に乱れた呼吸と震えた喉でまだ上手く言葉が出なかっただけなのだが、が言葉に詰まったように見えて、ダリューンとエラムの目は一層疑わしくなった。 「!!」 「そんなに隠さなくてもいいのに」 アルフリードが一言付け加える度に、事態に油を注がれる。 「おぬしは余計なことを言うな!本当に何もしておらぬ。隣の部屋に寝ていただけだ。後ろめたいことなど何もない。そうだろう、!」 その問いは頷くだけで肯定できたので、も素直に頷いた。確かに、この旅の間はそうだった。 むきになって弁解するナルサスをしばらく眺めていたダリューンは、笑い出すのを堪える表情で咳払いする。 「まあ、すんだことはともかくとしてだ、ナルサス……」 「どういう意味だ!?俺は何もすませたりしておらぬ!」 「判った判った。それよりこの先のことだ。おぬし、この娘をペシャワール城へ連れて行くつもりか」 ダリューンのほうがよほど冷静だった。ナルサスも乗り出していた身を引いて、首をひとつ振ってアルフリードを返り見る。 「そうだ、忘れていた。おぬしはゾット族の族長の娘なのだから、父上に代わって一族を指導しなくてはならないはず。そろそろ一族のほうへ戻ってはどうだ?」 ナルサスの声と表情には露骨な期待が篭っていて、は少々呆れて息を吐いた。 ようやく気持ちも落ち着いてきた友人に気づいた様子もなく、最初から元気一杯だったアルフリードは馬上から手を伸ばしての腕を掴んだ。 「その点は心配いらないよ。あたしには腹違いの兄者がいるからね。頭がいいのと性格が悪いのと両方揃ってるから、戻ったところで喧嘩して飛び出すか、追い出されるかさ。それならこっちにはもいるし、ナルサスの傍にいるよ」 「心配させてくれぬものかなあ……」 ナルサスは溜息をつきながら唸ったが、ふと聞こえた蹄の音に振り返って驚いた。 エラムが無言のまま、さっさと一人馬の足を速めて先へ進み出したからだ。 「おい、エラム……」 ナルサスが声を掛けると、侍童の少年はことさらに主を無視してダリューンに目を向ける。 「ダリューン様、急ぎましょう。すぐまた追手が来ます」 「うむ」 ダリューンも笑いを堪えながら馬を進め、エラムは戸惑った様子のに笑顔を見せる。 「アルスラーン殿下がとても心配しておいでだよ。行こう」 「アル……殿下が?わたしの?」 「うん、一緒に戻ろうとされたところをみんなで説得して先に進んでいただいたんだ」 アルスラーンが身分や能力で人を分ける人ではないことは判っている。けれど、ナルサスのついでだとしても、心配してくれたというその事実が嬉しくで、もすぐにエラムに続く。 早く、アルに会いたい。 一度は死を覚悟したからこそ、ますます会いたいという気持ちがはやる。 「お、おいまで……」 唯一の第三者的証人の気持ちがすでに先に行ってしまったことにナルサスの手が空を切り、がっくりと首を前に倒した。 「ナルサスにはあたしがいるじゃない」 アルフリードが笑顔で背中を叩いてナルサスを抜かして馬を進める。 ひりひりと痛む背中に手をやって、溜息をつきながらナルサスは一行の後を追うことになった。 先を行くアルスラーンたちに追いつけたのは、それから更に一夜明けた翌日のことだった。 アルスラーンは無事に戻ってきたダリューンたちと、何よりようやく再会できた軍師と友人に喜びを隠さずに馬を寄せて手を伸ばした。 「ナルサス、ナルサス、よく無事でいてくれた。本当によかった」 手を取って喜ぶアルスラーンに、ひねくれた感性を持つナルサスも素直な喜びを覚えて心から礼を述べる。 「殿下にはご心配をおかけいたしまして、申し訳ございません。ですが私は宮廷画家にしていただくまでは、そうやすやすと死にはいたしませぬゆえ、どうぞご安心を」 ナルサスの言葉に、ダリューンは半ば笑い、半ば本気で咳き込んだ。 アルスラーンは手綱を引いて馬を巡らせて、のほうにも目を向ける。 「も……無事でよかった」 もナルサスのように、素直に喜んで笑顔で頭を下げた。 「非才の身ながら、ナルサス卿を殿下の元へお送りできて喜ばしく思います」 特におかしな言葉ではなかった。は道案内として雇われている身であるし、まず無事でなければならないのは、ナルサスの身だったはずだ。 だがその言葉を聞いた途端にアルスラーンが眉をひそめ、表情を曇らせた。 驚く臣下たちの前で、アルスラーンの声が一段低くなる。 「」 厳しい声で名を呼ばれて驚いて顔を上げたは、アルスラーンの表情に二度驚く。 「私がそなたに望んだことは、ナルサスを守ることではない。そなたが無事であることだ」 厳しく叱られて、は自らの言葉を恥じて頬を染めた。 ナルサスは、きっと一人でもここまで来ることができた。自分はむしろ足手まといだったはずだ。それを、ナルサスを守ることができたなんて驕った言葉に聞こえたかもしれない。 だがアルスラーンが不機嫌になった理由は、それとは違った。言葉のままだったのだ。 アルスラーンは、手綱を握るの手を取って引き寄せる。 「私がどれだけそなたを心配したと思っているのだ。ナルサスを守ろうとしてくれたことは嬉しい。だが、私はも無事でなければ嫌だった。そんなことすら判ってくれないのか」 「ア………殿下……」 眉を寄せ、悲しそうな顔で訴えられて、の胸に息苦しいほどの喜びと反省が同時に湧き上がる。 自分の身にもしものことがあれば、アルスラーンは悲しんでくれるだろうとは思っていた。 それはその通りだと証明された。 けれど、ナルサスを守りきることができれば、その死もきっと誉めてくれるだろうと、そう勝手に思っていた。 「申し訳……ありません……」 アルスラーンはに対して、殉教のような死など、決して求めてはいないのに。 「……今でも友人でいて欲しいというのは、私の我侭だ。けれどだからといって、私のために犠牲になるなんて、にはそんなことは考えて欲しくない」 「はい……」 俯き、小さく返答したは、さらに強く手を握りられて再び目を上げる。アルスラーンの話はまだ終わっていないようだ。 「……そなたの父の死の真実をエラムから聞いた」 思ってもみない話に、今度こそ驚きで声も出なかった。慌てて振り返った先でエラムはばつが悪そうに肩を竦める。 また強く手を引かれてアルスラーンに目を戻すと、目を閉じて痛みを堪えるような表情のアルスラーンの額に握った手を引き寄せられる。 「で、殿下!?」 「どうして話してくれなかった。私のせいなのだと。どうして嘘をついたのだ」 「そんな……だって……ですが、本当に殿下のせいなどでは」 「では、私を助けるために動いていなくても、そなたの父は亡くなっていたのか」 「それは」 偶然に混戦に巻き込まれただけなら、肯定できる。だがあの場にいたのは、城主に対して後ろめたいことがあったからだ。混乱に乗じて逃げ出そうとしたからだ。 嘘をついたことを責められて、さらに嘘を重ねることに躊躇した。それが答えだ。 アルスラーンは息を吐いて目を開ける。 「の気持ちは嬉しい。感謝している。だが私は、私のためにに悲しみを一人で押し込めてもらいたくはない。エラムが教えてくれなければ、私はその罪まで重ねていた」 「でも……ですが、ホディール様を欺いたのはわたしの意志です!殿下がお命じになったことではありません。ですから……!」 「ありがとう……私を守ろうとしてくれたのだと、それは判っている。ホディールを欺いたのは私の命を救うため。嘘をついたのは私の心を守るため。だが私のために背負った悲しみを、罪を、どうか一人で背負わないで」 握ったの手の甲を、もう一方の手で撫でてアルスラーンは真摯な目でを見つめる。 「そなたの父の死がそなたの行動によるものだとしても、それは私のためにしたことの結果なのだ。そなたとそなたの父に申し訳なく思う。だが同時に、それを誇ってはいけないのか?私はそれほどに大切にされていると、そう誇ってはいけなかったのか」 「……殿下」 知らずに流れた涙が頬を濡らし、は言葉に詰まって俯いた。 濡れた頬とは対照的に、両手で優しく包まれた右手が温かい。 「が違うと言っても、私にはは大切な人だ。それを忘れないで欲しい」 「申し訳……ございま…せ……」 「違う、。謝って欲しいわけではない。判って欲しかったのだ」 伸ばされた手が、そっとの頬を拭い、少年のものらしいまだ細い指が涙で濡れる。 自分でも涙を拭いながら顔を上げると、アルスラーンはもう厳しい顔はしていなくて、心配そうに首を傾げている。 罪を、悲しみを、一人で背負うなと。責めているのではなく、共に背負いたいのだと、そう言ってくれる優しい人。既にたくさんのことを背負っているのに、たかが子供の頃の友人の悲しみまで。 謝罪はきっと、相応しい言葉ではないだろう。 は、アルスラーンの優しさに応えるようにゆっくりと微笑みを見せる。 「……ありがとう……ございます」 アルスラーンはようやく微笑んで、の手を強く、優しく握り締めた。 |
ようやく合流を果たせました。 大切な人のためと自分を大切にしない子には、その大切な人からの 説教が一番効く薬ではないかと。 |