16. 前には太陽を背にして狭い山道を塞いだ五十騎ほどの兵士がいて、先頭には恐るべき剣技を誇る銀仮面の男。後ろからも馬の蹄が轟いて退くこともできない。 前後を敵に阻まれて、とアルフリードは軽く視線を交し合った。逃げ場がない以上、覚悟するしかない。 左手で強く手綱を握り締めながら、右手を腰の鞭に伸ばした。この期に及んで絶望しないことに自分でも驚いてるが、心臓が割れそうなほど激しく脈打つことはどうしようもない。 隣でアルフリードも剣に手をかけた。しかしナルサスはまだ両手とも手綱を握ったままだ。 「待て、二人とも。そのまま進め」 正面の銀仮面を見据えたまま馬を進め、悠然といえるほどの涼しい顔で、ナルサスが二人を止めた。 ナルサスは驚く二人の視線を背中に受けながら、理由を説明することなく互いに相手の表情を読めるほどの距離まで詰めたところで馬を止めた。もっとも、相手は仮面を被っているのでどれほど距離を詰めようと表情など見えはしないが。 「ヒルメス王子!」 ナルサスの口からその名が飛び出して、銀仮面の男はほんの数拍沈黙した。 「……なぜ判った」 ナルサスの呼び掛けを肯定したことで、銀仮面の男がヒルメス王子、あるいはそれを騙る男だということは確定したのだが、はその名前に聞き覚えがない。 パルスの王家は現在、国王にアンドラゴラス三世、王太子にアルスラーンがいるだけで、王子と呼ばれるのはアルスラーンのみになる。 パルスを侵略、占領しているルシタニアの国王イノケンティス七世はいまだ独身で、側室も持たぬ身ゆえ子供はなく王子と呼ばれる存在はいない。 その他のパルス周囲の国々を見回しても、が知る限りではヒルメスという名の王子はおらず、第一他国の王子がパルス騎兵を率いている理由がない。 銀仮面の男はナルサスの呼びかけにやや動揺していた節があったが、すぐに馬を二、三歩進めてきた。 「いや、判っているのなら話は早い。ナルサス、おぬしの智謀は一国に冠絶すると聞いた。アンドラゴラスの小せがれなど捨て、俺の部下になれ。そうすれば重く用いてくれる」 「重くとは、どのように?」 ナルサスが聞き返して、は咄嗟に懐に手を伸ばした。 それが会話の流れだと判っていても、もしもナルサスが本当にアルスラーンの敵になるというのなら、命に代えても討ち果たさなければならない。頼もしい味方を、決して敵に渡すことはできない。 「万騎長でも、宮廷書記でも、あるいは宰相でも……」 国の最高位に近い地位さえも提示する銀仮面に、はいよいよ緊張して懐の短剣の柄を握り締める。 だがナルサスは、高く声を上げて笑った。 銀仮面やその部下たちだけでなく、とアルフリードさえ唖然とする中、ナルサスは笑うことをやめない。 「何を笑うか!」 「失礼いたした」 仮面から覗く怒気を込めた目に睨み据えられても、ナルサスの謝罪にはそれほどの誠意はなかった。 「せっかくのお申し出なれど、お断りする」 「ほう……なぜだ」 銀仮面の男の声が半音下がり、とアルフリードは同時に警戒したが、ナルサスはまだ手綱を握ったままだ。 「私はかつてアンドラゴラス王の不興を買って隠棲いたした。ひとたび隠者となった以上、再び誰かにお仕えするというのならば、器量の優れた主君を持つことを望むが道理。私は今、望みを叶えているというのに、みすみすそれを捨てる気には、残念ながらなり申さぬ」 「貴様、俺の器量がアンドラゴラスの小せがれに劣るというのか」 「あなたがヒルメス王子であれば、ダリューンと同年。私より一歳上。そしてアルスラーン殿下とは十三歳違い。にも関わらず、アルスラーン殿下のご器量はすでにあなたの上を行く。アルスラーン殿下のご成長にともない、差は開く一方でありましょう」 ただの日の光の反射が、男の殺気でまるで仮面全体が怒りの炎を巻き上げたかのような錯覚を起こさせた。気圧されながら、それでもはナルサスの言葉に心が弾んだ。 この人は、絶対にアルを裏切らない。 これだけの器量を持った人が、絶対の味方なのだと、そう思えばますます命に代えてもナルサスをアルスラーンの元に帰さなくてはならない。 銀仮面の右手が長剣の柄に掛かったが、まだ抜剣はしない。もしもあの剣が抜かれることがあれば、その間に割り込んででもナルサスを守らなくてはならないだろう。それが死を意味すると、判っていても。 決断すると、恐れよりも覚悟が上回った。今まで芸人として旅を続けていたときは、何としても生きて逃れることを至上の目標としていたのに。 の覚悟に気付いているはずもないが、ナルサスの舌は加速度的に厳しさを増していく。 「あなたは王位を回復するために、ルシタニア人と手を組んだ。ルシタニア人がマルヤムで何をやったか、彼らがパルスでどんなことをするか、あなたはご存知だったはずだ。たとえあなたがパルスの正統な支配者であろうと、パルスの民に災いをなす主は主とは思わん!」 「パルスの民がどうしたと?奴らは十六年に渡って、正統ならざる王を仰いでいたではないか。簒奪者アンドラゴラスめを国王と奉っていたではないか!それらの罪を、正統なる王の俺が正すことは当然ではないか!」 「なるほど、あなたを国王と認めぬ限り、パルスの民は生きる権利すら認められぬというわけか」 銀仮面の怒りで震える語尾に、ナルサスは小さく舌打ちをした。 「いまひとつ、私の気に入らぬことは、アルスラーン殿下は私に部下になるようにお頼みになった。ところがあなたは頭ごなしに命令なさる。私のようなひねくれ者には、はなはだ不愉快ですな」 「俺はオスロエス五世の子だ。パルスの正統なる王であり、貴様の正統なる主だ。命じて何がおかしい」 舌戦が激しくなるにつれて、は少々呆れてしまった。段々と子供の喧嘩じみた、理屈ではなく感情の話になってきている。 「あたしのナルサスは、お前なんかの部下になったりするもんか!」 それまで沈黙していたアルフリードが腹に据えかねたように叫ぶと、ナルサスが僅かによろめいた。それを笑っている場面ではないが、先ほどの呆れと合わせて、の中で張り詰めていたものが少しだけ緩くなる。 銀仮面と舌戦になる前、ナルサスは待てと言った。何も考えずにそんなことを言う男ではない。 必要とあれば、ナルサスを守るため、ひいてはアルスラーンのために身を呈することも辞さない。だが、勝手に覚悟を決める前に、ナルサスの指示に的確に動けるように構えておくことが重要だ。 「ほう、ダイラムの旧領主は、高貴な諸侯の出身でありながら、下賎な盗賊の娘が好みか」 毒気を含んだ冷笑がナルサスに向けられ、銀仮面の男の目がアルフリードの横のを映す。 「それとも小娘を好むだけ…か……」 と正面から初めて視線を合わせた銀仮面は、ふと言葉を途切らせた。ナルサスを警戒することはそのままに、何かを探るような、たどるような目で眉を寄せたようだった。 「ナルサス!あんた貴族さまだったの!?」 「俺の母は自由民だった。おぬしと同じだ。それに王族や貴族だからといって、角や尻尾が生えているわけではない」 自身の建て直しとアルフリードの驚愕に気を取られて、ナルサスは銀仮面の僅かな変化に気付くのが遅れた。 とにかく銀仮面に余裕を与えてはならないと、すぐに矛先を敵に戻す。 「もっとも、こちらの御仁については知らぬがな。あのような仮面をつけているのは、角や三つ目を隠すためかもしれぬ」 ナルサスの言葉に、銀仮面の目はすぐにから外れた。 「王者たる身が行うことには、貴様などには量れぬ正しい理由があるのだ」 「卑怯でありましょう」 「なにっ」 「仮面で顔を隠してルシタニア人の手先となり、仮面を外して解放者を装う。おそよ王者の知恵にあらず。狡知姦計というべきでござる。恥じることこそあれ、誇ることではありますまい」 「貴様!」 銀仮面は激しい怒りに震えたが、の目には図星を指され、それを覆い隠すための動揺に見えた。 「正統の国王をそしるつもりか!」 「正統だの異端だの、どうでもよろしい」 その声色は怒りに震える銀仮面の叫びよりもずっと静かなものだったが、押し返す力強さはそれ以上だったかもしれない。 「例えパルス王家の血をひかぬ者であっても、善政を行い民の支持を受ければ立派な国王だ。それ以外に何の資格が必要と仰るのか」 「黙れ!パルスを統治するのは、英雄王カイ・ホスローの子孫であるべきだ。それを否定するというのかっ」 「カイ・ホスロー王以前にパルスを統治していたのは、かの蛇王ザッハークでございます」 アルフリードと銀仮面の後ろの兵士たちが僅かに震えた。畏れや怯えというよりは、反射のようなものだ。 パルスの民が蛇王の名にどうしても反応してしまうという話は知っていたが、国から国へと移動を続けていたには、三百年前の人外と言われた王にそれほど意味はない。ちらりと横目で周囲の反応を確認するだけのことだ。 「その前は、聖賢王ジャムシード。カイ・ホスローは、そのいずれの血も受け継いでおりませんぞ」 この場で蛇王の名に反応しなかったのは、パルスの外で育ったと、話を持ち出したナルサスと、怒りに我を忘れかけていた銀仮面だけだ。 谷に沈黙が降り、銀仮面が深く息を吐いた。 「随分と戯言を聞いてやったが、よく判った。ナルサス、貴様はパルスの伝統と王威を破壊しようと企む不逞の輩だ。智略を惜しんで使ってやろうとしたことが気の迷いであった」 銀仮面の剣が日を反射しながら抜き放たれる。 はっと息を飲んで鞭に手をかけたをナルサスが振り返らずに制した。 「おぬしの敵う相手ではない。下がっていろ」 「ですがナルサス様、我が身に代えてもあなたにはアルスラーン殿下の元へ帰っていただかねばなりません」 「おぬしでは万に一つの可能性もない。おぬしにもしもがあらば、俺は殿下に顔向けができん」 「なるほど、その小娘はアルスラーンめのものか。薄汚い簒奪者の小せがれには似合いの貧相な娘だ」 悪意に満ちた嘲笑に、は怒りでまなじりを上げる。 「殿下は下々などと隔てず命を惜しんでくださる方。女と見れば嬲るものと見るお前なんかと一緒にするな!」 「口の効き方すら知らぬ下賎の小娘が……正統の国王にへらず口を叩くか」 「下がっていろ。不肖の身ながら、殿下のお相手仕る」 軽く手を振って少女たちに下がるように示すと、ナルサスも長剣を抜き放つ。 「ナルサス、気をつけて……!」 アルフリードが手綱を握り締めて祈るように言葉を掛けた。 「ひとつ。そこまで正統の王と仰るのならば、その誇りにかけて女には手を出さずにいただきたい」 「いいだろう。小娘ごとき、死に際の望みとして叶えてやろう。ザンデ、おぬしらは決して手を出すな。こやつの首と舌は俺の手で刎ねてやる」 「ご随意に、ヒルメス殿下」 後ろで銀仮面の傍に控えていた大柄の男が恭しく応える。 銀仮面が短い声で馬腹を蹴りつけ、人馬一体となってナルサスに突進してきた。 「死ね、ナルサス!」 恐るべき速度で剣が振り上げられるその一瞬、ナルサスの剣の刃が、銀仮面が背にしていた陽光を反射させ、その目に叩きつけた。 「あっ……!」 太陽の光に目が眩んだ銀仮面の長剣が見事に空を斬る。 すかさずナルサスの剣が突進してきた馬の手綱を両断した。バランスを崩した銀仮面が馬上から転落し、砂地に叩きつけられる。 「走れ!」 ナルサスの合図で、とアルフリードは間髪いれずに馬の腹を蹴る。 ナルサスは落馬した銀仮面を討ち果たす隙も狙っていたが、視力が回復しないまでも銀仮面は即座に跳ね起きて剣を構えたのですぐに断念して逃走に専念した。 「ナルサス!貴様、尋常に立ち会うのではなかったのか!」 「正統の国王にむける剣はござらぬよ」 主の危急に混乱した一団の間を一気に駆け抜けながら、ぬけぬけと言い放ったナルサスは追い縋ってきた一騎を馬上から切り落とし、別の一騎の顔にはが投じた短剣が突き立った。 三人はしばらくの間、馬を急がせることに専念していたが、ナルサスがふいに少女たちを振り返る。 「、アルフリード。いいか、銀仮面の男の本名がヒルメスということ、あの男が何を語ったかということ、この二つは決して他人に話さないでくれ」 「ナルサスがそう言うなら、誰にも言わない」 素直に返答したアルフリードとは違い、は即答しかねた。 「アルスラーン殿下にもですか?」 正統な王だとか、簒奪者だとか、アルスラーンの身に掛かってくる話だ。それを当人に黙っていろといわれても、には素直に頷けない。 「ヒルメス王子と聞いても誰かは判りませんでした。ですが、オスロエス王は知っています。病死したと言われる、アンドラゴラス王の兄王であらせられた方。前国王でいらっしゃいます。あの銀仮面の男が真にそのお子であるなら……」 「そうだ。十六年前オスロエス五世が病死し、その子ヒルメス王子も王宮で起きた火事によって焼死したとのことで、オスロエス五世の弟アンドラゴラス王が即位した。オスロエス五世、ヒルメス王子、ともに謀殺の疑いはかかっていたのだ。……もしもヒルメス王子が存命なら、王位はアンドラゴラス王には移らず、ヒルメス王が誕生していたはずだ」 謀殺の疑いが疑いではなく真実だとしたら。 銀仮面の男が本物のヒルメス王子なら、王家の図式は大きく変化する。 二人の話を聞きながら、さすがのアルフリードも話の大きさに唾を飲み込んだ。 「で、でもさ、なんでもかんでも掘り返すことはないんじゃない?」 「アルフリードの言う通りだ。殿下にお話しするのは、ことの真偽を量ってからだ。いたずらにお話ししても、殿下のお悩みを深くするだけだ」 これは半ば真実で、半ば方便であったがはそれで納得したようだった。 ナルサスにしても、この選択が正しいという確信があるわけではない。だが物事には時期がある。ヒルメスの計画を考えると、いずれ彼が自ら出自を吹聴し始めることは明らかであったが、それまでには話しておくべきことであって、今のうちから知らなくてもよいことを、知らせる気にはなれなかった。 あるいは、ことに流れによってはアルスラーンは従兄の話を知らずに済むかもしれない。 それにしても何かと背負い込むことになる王子だ。 若いながらも多難な主を思って、ナルサスは空を見上げて溜息をついた。 |
なにやらとんでもない話を聞いてしまいましたが……。 |