15. 東の道を進むアルスラーン、エラム、ギーヴの旅は順調だった。 旅の行程そのものもだが、それだけではなくギーヴから見てもアルスラーンとエラムの間に友誼めいたものが育ち始めていたからだ。 高貴な身分の者は奉仕されることが当然だと考えていると、それはギーヴだけでなくエラムもそう思っていたはずだ。 だがアルスラーンは臣下のさらにその従者にすぎないエラムを助けに走った。それに単純に感動したのか、それとも別の理由もあるのか、あれからエラムはアルスラーンに対する態度を軟化させた。 アルスラーンがそれからも根気強く話し掛けたこともあって、とうとうエラムは訊ねられて将来の夢を語り始めた。以前は、自分の将来もナルサスが決めてくれると一言で終えてしまった話だ。 「パルスの西南には虚無の砂漠が三百ファルサング四方に広がっていて、その果てに伝説の青銅都市や円柱都市があると、何年か前にナルサス様から伺いました。私は大人になったら、そこを訪れたいと思っております。失われた歴史や伝説を見つけ出したいのです」 遥か遠く離れた土地を夢見て語るエラムに、アルスラーンも熱心に耳を傾けて頷く。 「お前の調べた歴史や伝説を、私にも教えてくれるか?」 「殿下がお望みでしたら」 「ぜひ、頼む」 「かしこまりました」 そういったことを生業とするものも少なからず実在するし、あながち子供の夢想であると断定できない、だが現時点では子供の夢想に過ぎない将来を熱心に語り合う少年たちに、ギーヴは苦笑を禁じえなかった。 それは少年たちの微笑ましい交流に対してであり、そんな少年たちのよい「保護者」になっている自分に対する皮肉も込められている。 年長者であることを除いても、三人の中でもっとも旅慣れているのはギーヴだ。 いくら風変わりで下々に気安いとはいえ、それまで王宮で暮らしていたアルスラーンに旅のいろはが判るはずもなく、優秀な従者の少年といえど経験がないものはどうしようもない。 必然的に、寝床を探し、食料の調達、進路の選定とすべてギーヴが背負うことになる。そこにしつこく迫り来る追っ手との戦いも加わり、アルスラーンと行動を共にするまでの気ままな一人旅をふと思い出すと、半ば馬鹿らしくなってくる。 アルスラーンがどんな寝床でも食料でも、不平など一言も零さずむしろギーヴに感謝するからこそまだやっていられるが、逆に言えば少しでもそんな素振りを見せる相手ならとっくの昔に放り出しているだろう。 半分馬鹿らしいと思いつつ、それでも自分のような人間が捨てていく気になれない、むしろ世話を焼いてしまう相手。 考えれば考えるほどアルスラーンという王子は奇妙な少年だった。 「……昔、そうやって色々な場所の旅の話を聞くのがとても楽しかった」 アルスラーンが呟くようにそう言って、ギーヴは肩越しに少年を振り返ったが、その表情の奥は読めなかった。 旅の話をしていたのが誰なのか口にはしなかったが、その懐かしむような、だが割り切れない表情を見る限り明らかだ。 今は別の道を往く、旅の踊り子の少女。 それまでも特に強くはのことを話題にはしていなかったが、エラムから彼女の父の死の真相を知らされてから、どうもその名を口にすることを避けている節がある。 そうとエラムが気付いている様子はない。ギーヴが勝手にそう感じているだけだ。 だが大きくは外れていないだろうと思う。 「罪悪感かな」 心優しい王子様なら、そんなところかと想像しながら肩を竦めた。エラムが事の真相を告げたことが正しいとか間違っているとか、そんなことは考えないし、他人が判断を下すことではない。 ただひとつ、アルスラーンが罪の意識を感じることは、決して彼女の望みではないことだけは判った。 「世の中は上手くいかないことばかり……とね」 望みのままになることの方が少ない。まして他人の心など。 だがギーヴは深刻に考えたのではなく、あくまでも傍観者として、軽口を叩いただけだ。 彼の視線は、山間の草地で休んでいる栗毛の馬を捉えていた。 他人の恋色沙汰より、ギーヴに重要なのは今夜の食料だ。馬を捕らえることができれば、今日どころか何日分かの食料になる。 だが馬の様子を見て、少し考えた。 「ま、それも俺にはあまり縁のない言葉だな。エラム、今日の獲物を見つけた。殿下をお連れしてどこかに身を潜めていろ」 和やかに話し込んでいた少年たちは、保護者の言葉にその獲物に気がついた。 「馬ですか?私が追い込みましょうか」 「いや、弓は使わない。あの馬は生きたまま捕らえる。殺すのは惜しい」 「惜しい?」 ギーヴからはあまり聞かない言葉にアルスラーンが首を傾げる。確かにアルスラーンの目から見ても引き締まった身体つきや足回りはよい馬に見えたが、ギーヴは別のことを指していた。 「鞍も手綱もつけていませんが、側対足で走るのはよく訓練されている馬の証拠ですよ」 馬の足運びが、馬生来のものではなく、またどんな馬でもできるという走り方ではない。 側対足の走行は、通常の走り方に比べると馬の姿勢は安定し、走る速度も速まり、騎手と馬の疲労もずっと少ない。ただ、馬も騎手もよほどの訓練と素質が必要とされる。 ギーヴも一流の騎手であるだけに、殺して肉にする気にはなれなかった。捕まえて何か食糧なり、銀貨なりと交換するほうがずっと意義がある。何しろ数日前に気前よく金貨と銀貨を放り出したので、懐具合が心許ない。 「誰かの所有の馬なのか?」 それを捕まえるのはどうだろうと渋る様子を見せたアルスラーンに、ギーヴは捕獲用に革の投縄を用意しながら顎で馬を示す。 「ご心配なく、殿下。鞍も手綱もつけておりません。恐らくどこかの間抜けな馬主が逃がしてしまったのでしょう。このまま野生化させるよりは良心的というものです」 そう言われると、アルスラーンも素直に納得してエラムと共に馬を刺激しないようにその場をギーヴに任せて離れた。 ギーヴは投縄を手に、丈の高い草の中に忍び込んで馬の風下の回る。 「殿下の素直さは美徳だが心配でもあるな。あれは鞍も手綱も取って休ませているだけの馬だろうに。まああれだ、そんな不注意な真似をするとろくでもないことが起きるってことを持ち主に教えてやるいい機会さ」 抜け抜けと言い放ち、そのろくでもないことを実行するためにしばらく草の中で息を潜めて待った。 やがて草を踏む蹄の音がしたとき、狙いすまして投縄を投じる。すぐに手応えが返り馬のいななきが聞こえる。 「やった……!?」 捕獲したと確信した次の瞬間、ギーヴはものの見事に横転していた。何者かが、投縄を断ち切ったのだ。 ギーヴは地面を一回転する間に剣を抜き放ち、何者かの剣気に構える。 「白昼堂々、人の馬を盗むとはいい度胸だな」 だが草の向こうから聞こえた声にははっきりと聞き覚えがあった。ほっとするというべきか、笑ってしまうとでも言うべきか。 「ダリューン!」 「ギーヴか?」 お互いが相手を確認する声を出し合うと、同時に草むらから立ち上がる。狙ったのがダリューンの真っ黒な愛馬であったらギーヴもすぐに気付いただろう。だがそれはダリューンの同行者の馬だった。 「何じゃおぬし、無事であったか」 別の方向から美貌の女神官が剣を納めながら現れて、ギーヴは両手を広げて大袈裟な動作で歓喜を表す。 「ファランギース殿!ご心配いただいて恐縮のいたり。まさかこの馬がファランギース殿のものだったとは。きっとこうして真っ先にお会いできたのも……」 「おぬしのことなど心配せぬ。馬は途中で敵のものを奪ったものじゃ。それよりおぬし一人か。殿下はどうなされた。一緒ではないのか」 口上の途中で素気無く遮られたが、ギーヴは軽く肩を竦めて特に気を悪くした様子もなく隠れていた少年二人に口笛で合図をする。 こうしてバラバラになっていた七人のうち五人が、久しぶりに顔を揃えることができた。 ギーヴがファランギースの馬を狙って失敗したという話にひとしきり笑うと、アルスラーンは残る南の道を行った二人の心配をして振り返る。 「ナルサスと………は無事だろうか」 幼馴染みの少女の名を久々に口にしたその声に、複雑な響きがごく僅かに混じっていたことに気付いたのはギーヴだけだろう。ダリューンとファランギースはことの経緯をまだ知らない。 「こと剣に関してもナルサスの上を行く者など、滅多にはおりません。あの踊り子の娘も、身のこなしも軽く知恵も回る者でした。ご心配には及びますまい」 主を安心させるように断言しながら、ダリューンにはひとつ気がかりがあった。 銀仮面の男が追っ手の中にいた。ダリューンがかの男と直接相対したのは一回だけであったが、その一回で相手がどれほどの驍勇の主かは伺い知れた。銀仮面が北にも東にも現れなかったとなると、残る南の道にいることになる。 ダリューンの表情を見たアルスラーンは、頷いて手綱を引いた。 「二人を探しに行こう。我々は同志ではないか。大切な仲間を迎えに行くのは当然だ」 「ありがたいお言葉なれど……それはいけません。殿下に危険が及ぶことはナルサスの本意ではありますまい。このエラムと私とで、彼らを探して連れ帰ります。殿下はひと足お先にペシャワールへいらっしゃいますよう」 「だが」 「のことも、きっと大丈夫です。ナルサス様がご一緒ですから」 「殿下、ここはダリューン卿の申す通りです。殿下の御身の安全をまず以ってお考え下さい。なればこそナルサス卿も安心することができるというもの」 アルスラーンの言葉を嬉しく思いながらも別の道を勧めるダリューンとエラムに、ファランギースも口添えをする。 ギーヴはことを言ったのは逆効果ではないかと見ていたのだが、アルスラーンは旅の楽士の想像よりも道理を弁えている少年だった。 軽く唇を噛み、一度目を閉じるとすぐに真っ直ぐに黒衣の騎士と侍童の少年を見る。 「……いや、そうだな。ではダリューン、エラム。ナルサスとを頼む。四人の帰りを、先に進んで待っている」 「お任せください。必ずや」 ダリューンが誓いと共に一礼をして、エラムを伴い南の道へと馬を走らせて行く。 その姿をしばらく見て、アルスラーンも手綱を引いて東へと馬首を向けた。 「よろしいのですか?」 少年が自分なりに考えて堪えたことだ。そのままそっとしておけばいいのに、つい突いてしまうところが悪癖だと、ギーヴ自身でも思う。ファランギースはギーヴの一言にあからさまに眉をひそめたが、アルスラーンは頭を振って真っ直ぐに前を見据えた。 「私が共に戻れば、むしろ足手まといになることは目に見えている。私は先に進むことが、何よりダリューンたちのためになる」 ファランギースと共にアルスラーンの判断に頭を垂れながら、最善の判断を下した少年の心情はやはりギーヴにも測れなかった。 一方、南の尾根を駆けるナルサスたち一行の足取りは順調とは言いがたかった。 敵の包囲の無秩序さに、ナルサスの知恵が空転してしまって、かえって足が鈍ったのだ。 だがそれも終わりを迎えようとしていることは、ナルサスには手に取るように判った。 敵の動きに秩序が戻った。しかしそれで先の動きがすぐに予想できるかといえば、今度は今まで道をあちこちに移動して逃げたために、先に仕掛けられる罠の判断材料が足りない。 相手がこちらを追い込むのが先か、こちらが相手の手を内を読めるようになるのが先か。 救いといえば、同行者の少女たちがこの事態でも絶望することもなく前向きだったことだ。 これで泣き出したり癇癪を起こされたら堪らない。 途中まではアルスラーンの無事を思って焦れている様子ではあったが、これだけ包囲が続くということは、アルスラーンが無事である証拠だと告げるとようやく落ち着いた。 それ以降はむしろ、敵の必死な姿を見ると、まだアルスラーンは無事なのだ、捕まってはいないのだと安心するくらいなのだから、ナルサスとしてもその徹底ぶりには感心するやら呆れるやら。 「、アルフリード、この先の道で……」 二人の同行者に道の形を尋ねようとしたナルサスは、路上に落ちかかった影に手綱を引いた。 前方の、山道が大きく拓けた場所に五十騎ほどの人馬が固まっていた。そのすべてがパルス兵である。少数精鋭ということだろう。 その先頭に銀仮面の男を見つけて、ナルサスの後ろでとアルフリードが息を飲む。その壮絶な剣技は、ナルサスだけでなく二人の少女も目撃しているし、アルフリードなどは経験済みだ。 馬首を返して別の道へ逃げたいところだが、後ろからも蹄の音が迫っている。 「さてこれは……簡単には通れそうもないな」 事態と内心の深刻さは声には出さず、ナルサスは軽く嘆息して軽口のようにぼやいた。 |
アルスラーンは臣下たちと合流しましたが、まだの人が二人ほど。 一方そのまだの二人(とアルフリード)は再び危機的状況に。 |