12.


お互い不本意な組み合わせとなったナルサスとだったが、最初の落胆を除けば南の尾根を越えるペシャワールへの道を着実に進んでいた。
陽が昇るまでにいくつかの包囲を突破し、追跡をかわしてどうにか先の見通しがつきつつある。
ナルサスは遅れずに後ろをついてくるをわずかに振り返った。
これはの乗馬技術がナルサスに及ぶのではなく、ナルサスが加減をしてのことなのだが、それでも彼女は足手纏いというほどでもない。他の道を行った少年たちもそうだ。アルスラーンもエラムも決して無力な少年ではないが、他の大人たちがいずれも傑出した戦士であるため、どうしても差がついてしまうだろう。
だからこそ、その三人にそれぞれバラバラの道を行かせて護る大人にも、ついて来る子供にも最小限の負担であるようにと考えていたというのに。
「さて、夜も明けてきたが、待ち伏せのことを脇に置けば三つの道で、どの道がもっとも早く東へ抜けることになりそうだ?」
「東の道です。あの道はそのまままっすぐに東に向かっていますから。北とこの南はそれぞれ山地を回り込んでいて……でも上手くすればこの道でも早く着くかもしれません」
「どういうことだ?」
「この辺りはちょうどゾット族の『仕事』の縄張りのひとつのはずですから」
ナルサスはやや驚いて少女を振り返った。
「ゾット族?ゾット族というとあのゾット族か」
「他にゾット族がいるかは知りませんが、砂漠と岩山の地方で遊牧をしているゾット族です」
「ゾット族は遊牧と傭兵を旨としているが、盗賊行為も生業としているはずだぞ。危険でありこそすれ……おぬし、ゾット族と縁があるのか」
「父の芸がヘイルターシュ族長のお気に入りだったんです。小さい頃にしばらくの間、逗留させてもらったことがあります。ゾット族は一度結んだ縁は大切にするという風習があるから、ヘイルターシュ族長が健在でしたら危険はないはずです」
「それもおぬしがいればこそ、だな」
元より邪魔だったことはない娘だが、こういう縁を持っているから旅の空にある者は時に頼りになる。ナルサスは感心しながら考え込んだ。
「ゾット族に先導してもらえれば、より早く山道を抜けられるというわけか……」
そういうことならゾット族と遭遇したいようにも思うし、但し書き付きであることを考えると遭遇せずに済む方が無難のようでもあった。
もしも族長が交代していたときは、の縁も役に立たない可能性がある。
最悪の場合、ただ盗賊行動に及ぼうとするだけでなく、金貨十万枚に近づく手掛かりだと追っ手と化す可能性すらある。そうなると相手に地の利があるだけに厄介だ。
だがナルサスの思惑とは関係なく、左前方に見える岩場の向こうから、激しく剣を撃ち交わす音や悲鳴が聞こえてきた。
「『仕事』の最中か?」
ナルサスが振り返るが、同行者のにそうだと判るはずもない。だが「組織」であるゾット族の縄張りで他に派手な盗賊行為をする者がいるはずもなく、これが賊の襲撃だとするとゾット賊以外にはありえない。
「遠目で確認するか。、おぬしゾット族との縁は少し古いようだが今でも族長やその周囲の者の見分けがつく自信はあるか」
「わたしのような客商売は、お客の顔を覚えることも仕事のうちです」
子供のは大きく容姿も変わったかもしれないが、確認する相手は大人なのだから数年で全く別人のように見えることもないだろう。
自信を持って答えた少女に、ナルサスはを促して馬蹄の音が響かぬように砂地を選んで岩場に馬を寄せた。
岩場から確認した光景に、ナルサスとはそれぞれ違う意味で絶句する。
「あれは……」
戦闘を行う一団の片方、明らかに訓練された兵士はルシタニア人ではなく、パルス人のようだった。そしてその指揮官の男と、ナルサスは一度会ったことがある。
「銀仮面の男……この道にいたのか」
「あっ……」
隣でが息を詰めて口を押さえた。
「ヘイルターシュ族長……!」
はわなわなと震えて両手で顔を覆う。
「ゾット族か?」
少女は両手で顔を覆ったまま無言で頷いた。ナルサスが戦場に目を戻すと、戦いは始まったばかりだったようだが、銀仮面の男の足元に一人の体格のいい男が血に塗れて地面に倒れて動かない。
ナルサスは眉を寄せて軽く首を振った。はつい四日前に養父を亡くしたばかりだ。その養父と懇意の男の死は、同じく斬撃によるものらしい。顔見知りの死というだけでなく、今の彼女には酷な光景に違いない。
「……嘆いている暇はない。この隙にここを抜けるぞ」
は驚いたように顔を上げた。目に僅かに光るものが見えたがナルサスはあえてそれに気付かなかったふりで戦場に目を戻す。
「今なら追っ手の連中もゾット族に掛かりきりだ。素通りできる」
「でもっ」
顔見知りという程度の知り合いでも、これから死んで行くのだとすれば見捨てることに抵抗があるだろう。ざっと見ただけでも、ゾット族は追っ手の兵士達の半数ほどしか数がいない。その上で、訓練を受けた兵士とまともに正面から戦っての勝ち目は皆無に等しい。
憤って反論しかけたは、だが唇を噛み締めてぐっと押し黙る。
はただ旧知の者に会いに来たわけではなく、ペシャワールへ向かう途中なのだ。それも、アルスラーンの大事な軍師を連れて。
旧知の者を見捨てられないと、この岩場を駆け下りてナルサスまでを危険にはさらせない。第一、とナルサスのたった二人が加勢したところで勝敗が覆る数でもない。
「お前の相手はこのあたしだ!」
戦場から聞こえたよく通る声に、とナルサスはまたも違う驚きで戦場に目を戻した。
「女がいるのか?」
それもまだ少女と言って差し支えのない子供の声だ。
「まさか………アルフリード?」
それらしい人物を見つけるのは容易だった。何しろ、ナルサスが警戒している銀仮面の男に斬り掛かった人物以外は、みな精悍な戦士ばかりだったからだ。
「あの水色の布を頭に巻いた赤毛の……あの娘も知り合いか」
「アルフリードはヘイルターシュ族長の娘で……」
どうやらアルフリードという少女は単なる知り合いよりも一歩踏み込んだ仲らしい。声の調子からすると、似た年頃のようだから友人なのだろうと考える。
握り締めた両手は震え、今にも泣き出しそうな表情では強く唇を噛んだ。
友人が殺されると判っていて、それでもなお駆け出すわけにはいかない。
「……ナルサス様」
痛みに耐えるように強く両目を瞑って、行きましょうと少女が口にする前にナルサスは顎を撫でて周りを見渡す。
「友人を助けたいか」
「………え?」
「族長の娘というなら、助けておいても損はないだろう。まともに戦えばどうにもならんが、俺の武器は剣だけではないのでな」
ナルサスが己のこめかみを指で軽く叩くと、涙を堪えて紙のように真っ白になっていたの顔に希望の色が甦った。


ナルサスに言われるままに二人で準備を整えている間に、ゾット族の男たちは次々と討ち果たされていった。は聞こえてくる悲鳴に何度も気を取られそうになりながら、その中に少女の声がないことに自らを励まして作業を続けた。
「おっと、そろそろ限界だな。、後はおぬし一人で続けられるな?」
「大丈夫です」
「準備ができたら合図をくれ。どうせこけおどしだ。正確である必要はない。急いでくれよ」
ナルサスはひらりと馬上に上がると、岩場を軽々と馬で降りていく。が眼下を確認すると、すでに友人であるアルフリード以外の男たちはすべて討ち取られていた。
青褪めた表情で一度だけぎゅっと目を閉じて、すぐに作業に戻る。
再び男の悲鳴が聞こえたが、これはナルサスが斬り捨てた追っ手の兵士のものだ。
「ほう、これはおもしろい。銀仮面の君か」
包囲している兵士の間にたった一騎で降りておきながら、ナルサスの声に焦りも怯えもない。逃げる算段をつけているとはいえ、それでも危険な行為には変わりがないのにまったく気負いがないどころか、どこか愉快そうに芝居がかっている。
「久しいな、へぼ画家。王都で食うに困って、辺境の地まで流れてきたか」
「おぬしのようなものと斬り結んだことがまずかったかな。段々と人外境へ近づいているようで困ったものだ」
ナルサスは馬上で肩を竦めてぬけぬけと言い放った。岩場から見下ろす銀仮面は頭部をすっかり仮面で覆っていて顔どころか髪の一筋すら見えない。
「……貴様はかつてアンドラゴラスめの忌避を買って、宮廷を追放された身だそうだな」
「よくご存知でいらっしゃる」
ナルサスが笑って見せても、相手の男はまったく口調を変えることはない。
「アンドラゴラスの小せがれはどこにいる?」
革紐と縄を引いていたの肩がぴくりと震える。
アンドラゴラスの小せがれ。それは王太子アルスラーンのことだ。
ルシタニアの追っ手か、ルシタニアに取り入るパルス人の追っ手か、どちらにしてもアルスラーンを求めることは判るのだが、シャスリーンの耳はその声に含まれた微妙な感情の起伏を聞き分けたのだ。
「そうだな、おぬしが死んだら教えて差し上げてもいいが」
応じるナルサスの声に、は微妙に覚えた胸騒ぎを奥に押し込めると、急いで縄を木の幹に括りつけながら、額から流れる汗を肩で拭う。急がなければ、ナルサスが舌戦で時間を稼ぐにも限度がある。
「できるか?」
「まあ努力してみせるとしようか」
岩場の向こうではナルサスと銀仮面の男がそれぞれ馬を進める。
まだ作業は終わらない。あと少しなのにと唇を噛み締めるの耳に、馬の嘶きと少女の声が飛び込んできた。
「手を出すな!こいつは親父の仇だ、あたしが倒す!」
「アルフリード!?」
作業の合間にちらりと岩場から見下ろせば、ゾット族の少女はナルサスと銀仮面の男の間に飛び込んで、ナルサスが慌てて手綱を引いて馬を止めたようだった。少女は仇の男ではなく、ナルサスを睨み上げている。
「仇というなら、おぬしに譲ってやってもよいが、おぬし、剣も持っておらんではないか」
「だから、あんたの剣をお貸しよ」
当然のことのようにまっすぐに手を差し出す少女に、ナルサスが小さく声を立てて笑う。
「貸してもよいが、担保はどうずる?」
「親の仇を討とうという健気な女の子に剣を貸すのに、担保をとるっていうの!?」
「なにしろ初対面だものな、安全第一をとりたいわけさ」
ナルサスの視線が岩場のに僅かに動いた。は大きく息をついて二度だけ手を振る。
「しみったれだね!女にもてないよ!」
「へぼ画家、この小娘がおれに勝てると、本気で思っているのか」
銀仮面の男に冗談を交えた会話を遮られ、ナルサスは剣を振って血を落としながら笑う。
「できれば勝ってほしいと……本気で思うね!」
ナルサスの剣から振り落とされた血が、地面に落ちる前に銀仮面の男の後ろで悲鳴と轟音が続いた。
「落石だ!」
はっと銀仮面の男が振り返った。は次の棒を踏み込んでテコで押し上げた中ぶりの岩を斜面から落とすと、急いで馬に乗る。
走らせようと手綱を引いた時、馬が大きく嘶いた。
その声を聞きつけたように銀仮面の男が岩場を振り仰ぐ。その一瞬、仮面の奥の瞳と視線がぶつかったような気がした。
「また小娘……へぼ画家、貴様の差金か!」
「さらばだ、銀仮面!」
が馬を進ませながら、仕掛けていた縄や革紐を切るたびに岩が連鎖的に斜面を転がり落ちて、悲鳴と轟音と土煙が上がる。その混乱に乗じてナルサスは地上のアルフリードを拾い上げて一目散に騒動の場を駆け抜けていく。
ナルサスは岩の落ちるおよその位置を知っているが、銀仮面たちはそうではない。逃げ惑い、幾人かはその下敷きにされながら混迷を極めていた。
岩場の上を馬で走りながら、は肩越しに土煙の立ち昇る砂場を振り返る。
他の者はともかく、きっとあの銀仮面の男はこんな急仕掛けの罠で仕留めることなどできなかっただろう。ナルサスほどの剣士と相対して、隙を見せなかった男だ。
たった一瞬、それも確かに視線を交わしたといえるかも判らないほどの距離。
だがあの仮面の奥の瞳が見えたと感じた瞬間に、背筋を駆け抜けた悪寒は忘れようがない。
表面を彩る驚愕や憤怒に惑わされることなく感じたそれ。
あれは、憎悪の瞳だ。


「ナルサス様!」
馬を走らせてすぐ、先を行く二人乗りの馬に追いついてが声を掛けると、後ろに乗っていた少女が眉間にしわを寄せてじっとを見つめた。
「よくやった、。なかなかに絶妙な間合いだったぞ」
!?あんた、芸人の子の?あの、笛の上手かった!?」
「そうだよ。久しぶりだね、アルフリード」
記憶を辿るような表情だったゾット族の少女は、正解を得て声を裏返す。
「ナルサス様、アルフリードを救っていただき感謝の言葉もありません。ありがとうございます……ほら、アルフリードもお礼を言って」
「あ……ああ、そうだね、助かったよ。さっきは担保なんてしみったれたことを言う男だと思ったけど、時間を稼いでたんだね」
「なに、おぬしの論法が面白かったから半ば本気で言ったのだ。しみったれでも間違いではないかもな」
声を立てて笑うナルサスに、アルフリードは少し考え込んで、すぐに指を鳴らす。
「そうだ、じゃああんたには助けてもらった礼に、あの男の気色悪い銀の仮面をあげるよ。今度あいつと戦ったときは、必ずあたしが勝ってやるんだ。留め金を外して金槌で叩いて一枚板にしたら、銀貨百枚分にはなるよ。半年くらいは遊んで暮せるんじゃない?」
「アルフリード……」
ナルサスは元とはいえ、ダイラム地方の領主であったと聞いている。そして現在は王太子であるアルスラーンの軍師だ。その相手に銀貨で礼をと言ってもと、は頭痛を覚えて額を押さえた。
だがナルサスは、笑って頷くだけで怒ることもない。
「悪くない話だな。それよりおぬしに聞きたいことがあるのだが、あの銀仮面の男と言葉を交わしていただろう。なにか気になることはなかったか?」
「特にこれといって……偉そうな奴だったってだけで……ああそういえばおかしなことを言ってたかな」
「ほう、どんな?」
「自分は王侯の出身だってさ。どこの世界に仮面を被った王様がいるってのさ」
アルフリードはおかしそうに笑ったが、ナルサスは笑わなかった。も、恐らくはナルサスとは違う意味で笑えなかった。
仮面の下に覗いた、ひとかたならぬ憎悪の瞳。
真実がどうかはともかく、あの男の中では何か強い想いがあることは確かだ。
「……しかし、まさか」
ナルサスの小さな呟きを聞き取ったは、頭を振って気を取り直す。何も知らない相手の背景を思い描こうとしても、何ひとつ判るはずがない。だがあの男はアルスラーンにこだわっている節があった……。
「アルフリードといったか。おぬし、どこか行く宛てがあるなら適当なところで降ろしてやるぞ」
ナルサスが友人に話し掛け、もう一度仮面の男のことを頭の端に追いやるともナルサスの後ろに乗るアルフリードを覗き込む。
「他のみんなは近くにいるの?メルレインも?」
「兄者?兄者はこっちにはいない。は兄者とも仲良かったよね。なんであんな無愛想な男と仲良く喋れるのか不思議だったけどさ」
アルフリードは肩を竦めて、頭を振った。
「それが、今回はちょっと遠出してきてるんだよ。今はもっと南のほうで本拠地を構えててさ。ナルサスだっけ?せっかく助けてくれたんだから、最後まで責任とってよ。ここで置き去りにして、あたしがあの銀仮面に殺されたりしたら、寝覚めが悪いだろ?」
「アルフリード……」
は額を押さえたが、仲間が遠くにいる以上はアルフリードの言うことは間違いではない。言い方が図々しく聞こえるだけで。南に行くなら、道を引き返さなくてはいけないことを考えても、ここで別れるのはあまりにも危険だった。
の友達なら、あたしのこと見捨てたりしないよね?」
「アルフリード、ナルサス様は……」
「まあ、よかろう。乗りかかった船だ。せっかく助けた命をあたら散らせる趣味はなし、それにおぬしたちのお陰であの場を切り抜けられたことも事実だしな」
は息を詰めて、ぎゅっと唇を噛み締める。
ゾット族が追っ手に襲いかかっていたからこそ、あんな形であの場を切り抜けられたのだ。
だがそのために、アルフリードは父親と仲間を失っている。
「……アルフリード……ヘイルターシュ族長のこと……」
遠慮がちに口を開くと、アルフリードは少しだけ俯いて、だがすぐに決意を込めた顔を上げる。
「酒好きで女好きで無学で、どうしようもない男だったけど、あたしにとっては命の親だった。仇は必ず取ってやる!」
失ってすぐにそう決意するアルフリードの強さに、は目を細めて眩しそうに友人を見つめる。
「……でも、無茶だけはしないで。あの男は強そうだった。わたしはアルフリードを失いたくない」
「平気さ。絶対にあたしが勝ってやるんだ」
力強く拳を握り締める少女を肩越しに僅かに顧みて、そして隣を並走する少女を見て、ナルサスは息を吐いて空を見上げた。







もう一人のかつての友人という、旅の道連れが増えました。
似たような、けれど違う境遇でもある友人に羨望と危惧を。


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