11.


乗馬を弓に射られたアルスラーン、エラム、ギーヴの三人は次々と落馬した。だが馬が地面に倒れるまでうかうかと鞍に座ってはいなかった。それぞれ、その寸前には鐙を蹴って馬の巨体に巻き込まれないように地面を転がっている。
さらにギーヴは、地面を反転する間に剣を抜き放っていた。
「金貨十万枚の賞金首だ!腕一本でもいくらかにはなるぞ!」
敵兵たちの歓声にもうろたえず、剣を水平に薙いだ。甲冑をつけた膝から下の足がギーヴの傍に転がる。
崩れ落ちる敵兵の絶叫に掻き消されないほどの大声で、後ろの少年たちに向かって叫ぶ。
「逃げろ!」
第二閃は続く兵士の頸部に叩きつけられた。月光の下で鮮血がほとばしり、もいだ果実のように転がった首に兵士たちが怯んだ隙に身を翻したギーヴは、先を行ったはずの少年たちが立ちすくんでいるのを見つけて舌打ちをする。
「逃げろと言ってるだろう!何をしている!?」
足がすくんでいるのなら背中を突き飛ばして勢いをつけてやると傍に駆け寄って、ギーヴも少年たちと同様に絶句した。
草の向こうは、深い渓谷だったのだ。崖が切り立ち、底には月の光も届かず、耳に微かに水流の響きが届くのみの闇の底。これでは進みようがない。
振り返ると敵兵たちが剣の壁を作って肉迫してくる。渓谷から吹き上げる風と、背後から迫る甲冑の音を交互に見て、ギーヴは唯一の決断を下した。
「ええい、やってやる!」
迫り来る敵兵を迎え撃とうと剣に手をかけた少年たちとは逆に、ギーヴは剣を鞘に納めて両手を広げる。驚いた少年たちが目を見張ったとき、既に二人は両脇に抱えられて崖から落下していた。
「あっ……!」
声を上げたのは落ちた者ではなく、それを目撃した者だ。一瞬で姿の消えた三人に、慌てて崖の縁まで駆け寄って下を覗いたが、突き出した岩や生い茂った草が視界を隔てて、月明かりでは到底谷底など見えない。
部隊の隊長が覗いた谷から振り返り、立ち尽くす部下を叱咤する。
「下へ降りて奴らを探せ!」
部下の躊躇う様子に、隊長はさらに付け加えた。
「この深い谷底まで落ちたのだ。やつらはどうせ死ぬか、大怪我をして動けまい。もう危険はない。貴様等、金貨は欲しくないのか」
一旦はギーヴの剣技に怯んだ兵士たちだが、その響きは魅力的だった。命の危険にさらされることなく大金を手にすることができると、歩兵たちは我先にと断崖の下へ降りることのできそうな道を探して左右に散る。騎兵も馬から飛び降りて同じく駆け出す。
兵士たちの煽動に成功した部隊長は満足してもう一度断崖を覗き込んだ。別に部下に手柄を譲ってやろうなどという気は毛頭ない。部下に王子たちの死体を捜させて、その上前を跳ねるつもりなのだ。ああは言ったが、万が一あの危険な剣士がまだ剣を振るえる状態だったとき、金貨どころではなくなるかもしれない。
部下を鼓舞した自らの手際にうっとりとしながら覗き込んだ崖の闇に、見慣れた輝きが月光を反射した一閃を見た。
次の瞬間、顎の下を貫かれた。声を立てるどころか、恐らく自分に起こったことを自覚する暇さえなかっただろう。
剣が引き抜かれると、崖を覗き込んでいた身体はゆっくりと前のめりに倒れ、断崖の縁から夜の底へと転落していく。
「ふん、一番下まで落ちなきゃならん義理がどこにある」
不遜な呟きに続いて、崖の縁に剣を掴んだ手が掛かる。腕の力で一気に身体を引き上げたギーヴは、後に続いて崖を登っていたアルスラーンに手を貸して引き上げた。
さらにその後ろに続いているエラムのすぐ足の下に、狭い岩棚がある。ギーヴは少年たちを抱えるとそこに飛び降りて、すばやく崖に身体を貼り付けて闇に紛れていたのだ。
アルスラーンがエラムに手を貸している間に、ギーヴは置き去りにされていた馬の中から素早く足の速そうな三頭を選んで、少年たちが駆けて来たときには出発の準備が整っていた。
崖の下へ降りる道を探していた兵士たちの幾人かがそれに気付いて叫びを上げたときには、もう馬が駆け出していた。ギーヴがついでに他の馬の尻も叩いて、方々へ走らせたので敵兵たちは更に混乱することだろう。
追撃を振り切ってから小一時間ほど走った頃に、アルスラーンは旅の楽士を振り返った。
「ギーヴ、礼を言う。私はおぬしにどう報いたらいい?」
「いや、俺は地位や官職が欲しいわけじゃありません。あとでゆっくりと考えさせてもらいましょう」
「エラムは?」
もう一人の同行者は、首を振ってややそっけなく答える。
「私も別に何も欲しくはありません。お気遣いなく」
「では、将来は何になりたいのだ」
「私のことはナルサス様が決めてくださいます。とにかく大人になるまでは、ナルサス様の傍で学問を教えていただくつもりです」
礼を失さぬ程度の答えだったが、取り付く島もない。エラムはまずナルサスのために戦っているのであって、アルスラーンに対して尽くすのはそれがナルサスの望みだからだ。
何かを言いかけて黙ってしまったアルスラーンを横目に、エラムはふと今は別れて誰とどの道を行っているのかも判らない少女の言葉を思い出した。
カシャーン城塞で一緒に弓箭隊の詰め所へ向かった時、振り返った彼女は寂しそうな笑顔で言った。
「エラム、どうか王太子様のお力になってあげてね」
今ならよく判る。は、自分こそが王太子の力になりたかったのだろう。そんな想いを自分の中に押し込めて、王太子の傍にいるエラムに託した。
言われなくてもそうするつもりだ。それはの願いだからでも、エラムの気持ちだからでもなく、主のナルサスが望むから。
それだけのはずだと顔を上げたエラムは、左手の緩やかな崖道の上に人馬を発見した。
「追っ手です!」
いつの間にか月が沈みかけていて、空は少しずつ白み始めている。その薄明るい空を背後に背負い、崖道を駆け下りてくる敵兵の叫びが夜風に乗って三人の耳に届く。
「王子を捕らえろ!」
「何としつこい」
ギーヴが舌打ちをして敵影を見上げる。百人を越す数に見えるが、騎馬は十人ほどで後は歩兵だ。恐らくは奴隷だろう。
「どうにもなかなか簡単にはペシャワール城塞へ行かせてもらえそうもありませんな」
ギーヴが苦笑しつつ隣の王子に声をかけると、アルスラーンも年に似合わぬ苦味を含む笑みを見せる。
「ではますます行く価値がある。これほどしつこく追ってくるということは、ペシャワールは敵の手に落ちていないということだ」
「ふむ、それはそうですな」
頷きながらもギーヴがアルスラーンを見直したとき、弓勢が空気を震わせて矢が斜め後方から降り注いできた。
風下からの攻撃は激しくはないがいくらかの矢じりが届き、エラムの馬の首と横腹に突き刺さる。エラムは一晩の内に二度も乗馬を失うことになった。
「エラム!」
馬を失い地面に投げ出された少年を守るために、アルスラーンは叫ぶより早く馬首を翻して駆け戻って行く。
「ほう、何ともねえ」
ギーヴの紺色の瞳に半ば感心したような、あるいは呆れたような色が浮かんだ。
エラムはアルスラーンから見れば、部下のさらに従者であるに過ぎない。友なら、あるいは仲間なら、助けに戻るのも判る。だが高貴な身分であるはずの王子が、そんな部下の従者をわざわざ救いに行くとは、信じられない酔狂である。
ギーヴは今までの経験から、王族だの貴族だのと言った連中は人を盾にして当然だと思っているに違いない、と思っていたのだが例外もいるようだ。
「見捨てるわけにもいかんな」
自らに言い訳するように呟いた声が微かに弾んでいることには気付かなかった振りをして、ギーヴも勢いよく馬首を返す。
馬から飛び降りてエラムを助け起こしたアルスラーンに向かって白刃を振り上げた兵士は、手柄を立てる寸前に戻ってきたギーヴに気付いた。だがその瞬間に、鮮血を撒き散らしながら馬から転がり落ちる。
ギーヴはそのまま駆け抜けて、腰から袋を外した。
「敵は一人だ!殺せっ、突き殺せ!」
ギーヴの剣技に怯みつつ命令を下す隊長に従って、槍を構えた歩兵が怯えながら少しずつ距離を詰めようとする。
ギーヴは取り出した袋の口を開けると、その集団に向かって放り投げた。
「くれてやる!早い者勝ちだぞ!」
宙を舞う袋の口から星のような光の群れが飛び出して、兵士たちの頭上に降り注ぐ。それが地面に落ちる前に、彼らは光の正体に気付いていた。
「金だ!銀貨だ!」
「金貨もあるぞ!」
それは今までギーヴが貴族や悪党や兵士たちからせっせと掠めていたものだった。
「馬鹿者ども!戦わんか!わずかな金に目がくらみおって!」
一般兵士や隊長格の男には金貨十万枚と比べてはした金でも、奴隷の彼らにとっては生命を買えるほどの大金だ。我先にと地面に群がる歩兵を怒鳴りつける隊長が馬蹄の音に顔を上げたとき、すでに眼前に白刃が迫っていた。
「よくも大損させやがって!」
それが彼がこの世で聞いた最後の言葉だった。
指揮官の首が地面に転がると、金貨や銀貨を拾い集めていた兵士たちは、わっと悲鳴を上げて逃げ出した。
ギーヴは荒々しく息を吐くと刃を振って血を散らせ剣を鞘に収める。
乗り手を無くしてその場で止まっていた隊長の馬の手綱を引いて少年たちの方へ戻ると、エラムに手を貸して立ち上がらせていたアルスラーンがまた律儀に礼を言う。
「どういたしまして」
そう答えたギーヴの声には、今度は腹の底から力が込められていた。


追手を振り切り、朝の光に明るくなりつつある東の空に向かって再び馬を進め始めた三人はしばらく無言だった。
やがてアルスラーンが首を傾け隣の少年を見る。
「エラム」
「……何でしょう、殿下」
「私が嫌いか?」
突然の問いに驚いたエラムが首を巡らせると、晴れ渡った夜空の色の瞳と視線がぶつかる。
「なぜそんなことを……?」
「私はお前と友達になりたい。もし、私を嫌いでないなら友達になってくれないか」
「……私は解放奴隷の子です。友達などと、殿下と私では身分が違いすぎます」
「エラムもと同じことを言う。身分などと言っていたら、私は誰一人友達ができなくなる」
苦笑するアルスラーンに、エラムはまたあの少女の複雑そうな笑みを思い出した。
わたしはジプシーだから、と。
あんなにも王子を大切に思っているようなのに、その想いをすべて押し込めて。
「いずれにしても、殿下には先ほど助けていただきました。お礼の申しようもございません。ご恩はきっとお返しします」
これはの頼みだからではなく、そしてナルサスの命だからのものでもない。
エラム自身の恩で、エラム自身の意思だ。そう思うと、なぜか心の奥でほっとしている自分に気付いた。
頑なに従者の則を守るエラムに、アルスラーンはとくに気を悪くした様子もなく笑って首を振った。
「気にするな、私もエラムに助けてもらった」
後ろの少年たちの会話を聞きながら、ギーヴもまた首を傾げていた。
どうも妙な王子様だ。王族だの貴族だのに対するギーヴの先入観は、何も噂や又聞きだけでできたものではない。自らの体験で培ってきたものだ。それなのに、アルスラーンはその今までの経験をことごとく覆してくれるのだ。
ふと、エラムとは別にギーヴの脳裡にも旅芸人の少女の姿が思い浮かんだ。
「殿下、あなたは小さい頃、王宮の外で育てられたのではありませんか?」
「どうしてそう思う?」
突然の質問にも驚く様子もなく聞き返すアルスラーンに、ギーヴのほうがなぜか僅かにうろたえた。
「いえ、何となくですが……違いますか?」
「いや、当たっている。私は王宮の外にいたほうがずっと長いのだ。王太子に立てられた直後の半年間を除くと、正式に王宮で暮すようになったのはつい二年前からになる」
それまでは王都の一角で、騎士階級の乳母夫婦に育てられたとの話を聞いてエラムは得心した。
「では、と知り合ったのはそのときですか?」
アルスラーンとギーヴの視線が同時に向いて、好奇の質問だったかと口を押さえかけたが問われた王子は懐かしそうに頷いた。
「そう……もう八年も前になるな。私は普通に子供たちと混ざって遊んでいたから、は私のことを自由民の子だと思い込んでいたんだ」
だから再会したときは驚かせてしまったと小さく笑うアルスラーンに、ギーヴは内心で呆れて少女に同情した。自由民の子だと思っていた友人が王太子だと目の前に現れたときの心境は、驚いたどころの話ではないだろうに。
「その乳母夫婦は、今も元気ですか」
ギーヴの質問に、懐かしそうにしていたアルスラーンの眉が曇った。それが答えだ。
「二年前に死んだ。古い葡萄酒の中毒で。それで私は王宮に入って暮すようになったのだ」
「なるほど……」
ギーヴは頷いたが、本当に夫妻の死は中毒だったのかと疑っていた。高貴な身分の者が乳母に育てられるのはよくある話だが、それにしても十二歳まで街で暮すというのは少し長いように思える。なかなか複雑そうな事情を抱えている王子様だ。
ギーヴがそう考えている間に、どうやらエラムも何事か考え込んでいたようで、ぎゅっと手綱を握り締めて、意を決したように顔を上げる。
「あの、殿下」
「うん?」
「殿下に聞いていただきたいことがあるのです。本人が黙っていたから言うべきかずっと迷っていたことで……」
それだけでギーヴはエラムが言わんとしている話が何かを悟った。だが何も知らないアルスラーンは誰の話だろうと首を傾げるだけだ。本人、というからにはエラムの話ではないはずだから。
を……殿下が彼女のことを、身分を隔てて遠のいたとお思いでないのなら」
「もちろん、私は今もを大切な友だと思っている。……彼女にはできないと言われたけれど、でも」
「彼女は今でも殿下を大切に思っています」
「うん……そうだね。今は離れてしまっているけれど、こうして一緒に危険な旅をしようとしてくれるくらいに」
「違うんです、殿下。そうじゃなくて……カシャーン城塞で」
手綱を握り締めて身を乗り出すエラムと、首を傾げるアルスラーンを少し顧みて、ギーヴはそれぞれの反応を眺めていた。エラムを止める気はない。
「彼女は私に協力してくれました。弓に細工を……彼女の父親が殺されたのは、騒ぎに巻き込まれたせいではなくて、きっとそのせいなんだと思うのです。もしも私に報いると仰るのでしたら、それ以上に彼女に報いてやってください」
予想もしなかった話に、アルスラーンは声もなく目を見張った。







バラバラになっている間に、アルスラーンを取り巻く二人の心理に変化が。


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