10.


月明かりだけが頼りの山道を、七騎の騎馬が駆け抜けて行く。
カシャーン城塞を出発してから三度目の夜を迎えていた。
旅の道筋は、常にの薦めた道のみで進んだわけではない。
彼女の役目は正しくは、どの道を進めばどういった場所を通るのか、またその先ではどんな分かれ道があるかということをなるべく事細かに説明をして、ナルサスたちの判断に一定の根拠を与えることだった。
だがそれは、ただ抜け道へ導くことより難しい。が持っている知識と、ナルサスが知りたい情報が、必ずしも一致するとは限らない。
たち流浪の民にとっては、その道がどこへ続くのか、そして道の安全性が重要で、その周囲の地形などはそこまで重要視していないからだ。
ナルサスの頭の中のパルスの地図と、の持つ知識をすり合わせながら急ぎ、だが慎重に大陸行路からは遠い道を選んで旅を続けていたために、ただペシャワールへ向かうよりも随分と遠回りになっていた。
「ハディード!ハディード!」
先ほどから美貌の女神官から低く鋭い声が紡がれている。
彼女のが言うには、精霊たちが夜の気の中で立ち騒いでいるらしい。その存在は普通の人間には目にも見えず、声も聞こえないが、女神官としての修練を積んだファランギースにはそれが良く判るという。
先ほどから呟いているのは彼等を鎮めるための呪文なのだが、これは何の心得もない者が唱えたところで意味をなさない。
先を行くは遠い記憶の片隅に、同じ呟きを聞いていた。
武芸を教えてくれた最初の養い親は元はミスラ神殿の女神官見習いだった。ときどき夜になると呟いて、しばらくすると精霊たちの機嫌が直ったと笑っての頭を撫でたりしていた、その呟きと同じ。
だがファランギースはしばらく呪文を唱えると、眉をひそめて首を振った。
「どうも精霊たちの機嫌が悪うございます。水晶笛にもこたえようとしませぬ。思うに、血を欲する者が近くにいて、その悪しき霊波が精霊どもをいらだたせているのでしょう」
養母もそう言っていたことがあった。
宥めても精霊が落ち着かない夜は、特に注意して闇に紛れて息を潜めていた。そうすると、大抵の場合、たちがいる近くを獲物を求めた盗賊が通って行った。修業の途中で神殿を飛び出したと言っていた養母だが、彼女の能力のおかげで何度命拾いしたか判らない、とは一人目の養父の言葉だ。
が過去の記憶を辿っていると、ファランギースの言葉を聞いたエラムはナルサスに申し出て、馬を跳ばして夜道を偵察に出た。
大人たちは三人の子供の疲労を気にしているようだったが、偵察に走ったエラムを含め、三人とも元気なものだった。
そのエラムが程なく戻ってくると、緊張した様子でナルサスに告げる。
「ナルサス様、追手です!松明の数もおびただしくかなりの人数です。それに……」
「それに?」
「銀仮面の男が一行の中にいました」
銀仮面?
が肩越しに振り返ると、ダリューンとナルサス、それにギーヴの三人が顔を見合わせている。心当たりがあるのだろう。それも、悪いほうへ。
「急ぐとしようか」
ダリューンの言葉で一行はさらに馬の足を速めたが、一ファルサングも進まないうちに事態はより深刻になった。ファランギースが精霊たちの耐え難いほどの叫びを聞き、その様子にギーヴが背後を振り返ると数百の松明が連なって迫っていた。夜の闇の向こうから、轟くような馬蹄の響きが押し寄せてくる。
「止まれ!」
ナルサスの鋭い指示で一行は手綱を引いて足を止める。
迫り来る轟音に、が落ち着きなく後ろを振り返り、前を見るがナルサスは冷静だった。
「我々は少数であちらは大人数。移動に立てる音が大きく違うことは致し方ないですが、更に遠くからでも視認できる火を煌々と焚くのは如何にも不自然です。殿下、灯りの少ない方向に必ず伏兵がおります」
アルスラーンが重々しく頷いて、轟音に浮き足立っていたは驚いた。言われてみれば納得するが、こんな命の危険が迫っているときですら、冷静に物が考えられるのか。
、この先の道はどうなっている」
急に水を向けられて、馬上で飛び上がっては前とナルサスを交互に見た。
「え、えっと、東と南、それに北と三つに分かれています。東は特に道が険しくて、南は一番遠回り、北は道が広くなっていて……」
ナルサスは顎を軽く撫でて考えて、とにかくその分かれ道まで進んでみようということになった。
だがその地点につく頃には、前方の道からも剣と騎馬の気配が殺到しつつあった。
分厚い雲が月を隠し、闇の中で一行はすばやく、そして密かに先行きを決める。
「ペシャワールで会おう!」
アルスラーンの一言を合図に、七人は三組に分かれてペシャワールへの道を進むために馬の腹を蹴った。


はアルスラーンに着いて行くつもりだった。
元々彼の傍に居たくて、少しでも役に立ちたくて同行を願い出たのだ。
だから彼の声がした南に進んだつもりだったのに、雲が晴れて木々の間から漏れる月光の中で見えた馬上を行く人影に落胆した。
「エラム、大丈夫か」
「エラムはいません」
「なに!?」
振り返ったナルサスは、を認めて周囲を見回した。だが他の騎影は見えない。
あとの五人は別の道を行ったのだ。
「しまった……」
ナルサスは落胆したように肩を落として溜息をつく。
彼が示したのは、アルスラーンを最も武勇に優れるダリューンに預け、自分はエラムと共に行く。残りの道をギーヴとファランギースとが進むという案だった。もっとも自然な組み合わせだ。
つまりは黙ってナルサスの案から外れ、ダリューンとともにアルスラーンに従うつもりだったのだが、こうなった以上はそれは黙っていることにする。
分かれ道で厚い雲に月光を遮られ、真の闇で別れたのが運の尽きだったようだ。
ナルサスもも、それぞれ憮然として溜息をつく。
「せめてダリューンが殿下についていればいいのだが……どこが智者やら」
どうやら自然のせいにするつもりはないらしいナルサスに、はようやく苦く笑った。
前方から殺気が押し寄せて、ナルサスが剣を抜く。
「一気に抜けるぞ。遅れるな」
遅れれば置いて行く、との言外の意図にも頷いて鞭を手にする。
「勝つことじゃなくて、逃げることなら任せてください」
盗賊相手で逃げることには慣れていると告げるに、今度はナルサスが笑う。
「何を言う。これは逃げ切れば、こちらの勝ちだ」


ナルサスが希望を託したダリューンは、しかしやはり落胆しながら北の道を走っていた。
彼は当然のこととして、ナルサスに言われるまでもなくアルスラーンと共に行くつもりだったのに、同行者は美貌の女神官ただ一人だったのだ。
目が合うと、どうやらファランギースにも不満があるらしい。彼女はそもそも死んだ先代の女神官長の遺言に従ってアルスラーンを助けるために来たのであって、ナルサスの案に最初からあまりよい顔はしなかった。反論しなかったのはそれが妥当な判断であったことに加えて、時間がなかったからだ。
どうせナルサスの案から外れるのなら、アルスラーンと共に行きたかったに違いない。
「せめてナルサスが一緒であればいいが」
「ナルサス卿が一緒であればよいのじゃが」
二人は同時に呟いた。子供達だけで進んでいるとなるとあまりにも心配で、かといって大切な王太子を預けるには旅の楽士はいかにも普段の態度が軽い。
ナルサスの案では、ファランギースの同行者はギーヴ、ダリューンの同行者はアルスラーンのはずだった。
その二人がこちらにいるということは、想像しうる限り二番目に悪い状況が脳裡に浮かぶ。
一番悪い状況とはもちろん、アルスラーンが一人でいることだ。
戦力に不安があるとはいえ、エラムももただの子供ではない。機転は利くし、エラムはナルサスに深い忠義を、はアルスラーンに恋心を抱いているだけに、滅多なことでは王太子を打ち捨てて逃げるとは思わない。
ギーヴだけに任せるよりは少しは信頼できるような気がする。
「今更引き返すわけにもいくまい」
「どちらの道を往かれたかも判らぬしな」
それに後ろからも、追い込むために松明を掲げて押し寄せていた追手が迫っている。
ダリューンとファランギースは、前方に見える鋼の煌めきに意識を切り替えて刃を抜く。
結果的に二人はもっとも厚い包囲網を突破することになった。
包囲陣の兵士たちにとっては、気の毒なことに。


残る東の道で、アルスラーンとエラムとギーヴはやはりそれぞれ不本意だった。
アルスラーンは同行者が仲間のうちの誰であろうとも不満があるわけではない。ただ、自分のために危険を冒して同行してくれている幼馴染みとは、一緒にいたかったのだ。
自らが迎えた軍師の策に敢えて異を唱えることがなかったのはファランギースと同じで、それが妥当な組み合わせであり、そして時間がなかったからだ。
闇に翻弄されてダリューンとはぐれたのなら、と一緒がよかった。
エラムはナルサスに従いたかった。元々エラムはナルサスに従って、この一行に加わっているので、アルスラーンの直接の臣下ではない。命の危険に遭う場面なら、主について守りたかった。
ギーヴは三手に分かれるのなら、ナルサスに言われるまでもなくファランギースに着いて行く気だった。子供のお守りをするより、美女と二人旅のほうが楽しいに決まっている。
ナルサスの案ではも同行していたはずだが、子供とはいえ彼女も可愛らしい容姿をしている。両手に花だ。
十四歳とまだ子供だが芸人の子でもあるし、ギーヴとファランギースが旅の間でよい雰囲気になれば、気を利かせるくらいはしてくれたに違いない。
一行が妥当だと頷いたナルサスの案を、本人以上に一番積極的に支持したというのに、結果的に一番の貧乏くじを引いてしまった。せめて同行者がナルサスかダリューンなら、戦いにおいて楽ができたし、だけだったとしても見目の良い少女と見目の良い少年では、どちらが良いか言うまでもない。
最初の包囲網でギーヴは三人、アルスラーンとエラムも一人ずつを斬り捨てて、谷川を渡るときギーヴは弓矢で更に二騎を射落として追手の足を鈍らせた。
一時は半ファルサングほどの距離を開くことに成功したが、しばらく行くうちに追手の馬蹄の轟きが近づいてきている。
ギーヴ一人なら更に距離を空けられただろうが、王子と侍童の少年の乗馬技術はそれには及ばない。おまけに敵も選りすぐった騎手をそろえて追跡隊を編成していたらしい。
「もし俺が悪人なら……」
同行者の少年たちに聞こえぬほどの小声でギーヴは独りごちた。
まるで善人のような仮定で、ファランギースが聞けば呆れ果てたことだろう。
「王子様をルシタニア軍に突き出して、金貨十万枚の賞金にありつけるだろう。……が、俺は生まれつき、こすいこととむごいことができないからなあ」
ダリューンが聞けば、この先永劫、アルスラーンに近づけさせないに違いない呟きだ。
ふと、踊り子の少女の反応を思うと、ギーヴは我知らず苦笑を滲ませていた。
「そんな仮定を出すことだけでも、許さぬ娘だろうな」
カシャーン城塞からずっと、彼女がどれだけアルスラーンのために細心の注意を払っているのか見てきた。そして、まずナルサス第一のエラムですら、彼女のことを信用できると言っていた。
それほどの強い想い。
そのうち道の幅が狭くなり、丈の高い草が行く手を遮った。東は道が険しいのだと道案内の彼女が言っていた通りだ。
「アルスラーン殿下、こちらへ!」
エラムが先に立って丈の高い草を掻き分けたが、ふいに立ち止まって自分自身を罵る言葉を漏らす。草の向こうに月光を反射する金属の群れを発見したのだ。
「引き返して……っ」
そう言い終わらないうちに、金属の群れが一斉に甲冑を響かせて草の合間に立ち上がる。
しかもその矢は、人ではなく馬を狙っていた。
騎手を狙った矢なら打ち払うこともできるが、馬を狙われてはどうしようもない。
飛来した矢から自らを守りながら、三人は落馬を余儀なくされた。







そして一行はバラバラに。
アルスラーンの傍に居たくて着いて来たのに、分かれ分かれになってしまいました。
(補足ですが、1ファルサングは約5kmになります。ですので半ファルサングは2.5km)


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