9. カシャーン城砦から脱出したあと最初の戦闘は、翌日には起こった。 殺された主の報復を狙う追手に追いつかれたのではなく、ルシタニアの残党狩りに見つかったためだ。 最初にダリューンが豪剣を唸らせることで、狩りで獲物を見つけた気分だったルシタニア兵の気を一気に殺ぎ落とし、後はファランギースとギーヴの弓弦が奏でる優雅で血生臭い響きが追手たちの足を鈍らせた。 その間に、進む先にいた敵を弓で射落としたが先導して、ナルサスとエラムがアルスラーンの両脇を守りながら先へ先へと駆けて行く。 そもそもパルスの民は歩くことより先に馬に乗る技術を身につける、などという冗談が言われるほど乗馬技術に優れている。例えルシタニアの残党狩り部隊の半分が歩兵で構成されていなくても、逃げることに専念すれば振り切ることは容易いものだった。 おまけに敵はこちらに王太子がいることを知らない。どこかの貴族の子弟とその従者が相手だと考えると、その護衛たちの実力は多少の褒賞の旨みを遥かに越えていた。 だが後でこれが王太子一行だったと知れば、さぞかし悔しがることだろう。 あるいは、アトロパテネの野でルシタニア軍を震撼させた黒衣の騎士の剣の露とならずに済んだことに、安堵したかもしれない。 いずれにせよ、あまりにも少数の人数であることが、ルシタニア兵たちの目に王太子一行と映らなかった要因のひとつには違いない。おまけにたった七騎の騎馬しかいないのに、その中の三人が子供なのだ。 の先導で騎馬でもどうにか進むことのできる細い山間の道を抜けて、開けた場所に出たところで一時の休息をとることになった。 ナルサスはぐるりと辺りを見回して、草むらの向こうに見えた岩場の一角を指差す。 「あの辺りがいいだろう。岩肌が突き出ていて上から見えないし、こちらからは草むらで視認しにくい」 「判った。殿下、こちらへ。お疲れではありませんか?」 馬から降りたアルスラーンを誘導しながら気遣わしげに訊ねるダリューンに、当の少年は笑って頭を振る。 「これくらいで疲れはしない。ほら、もエラムも元気そうだ」 同じく子供である二人を引き合いに出した王子に促されるままに振り返ったダリューンは、忙しく周囲の斥候に走った少年と、旅の楽士と一緒に別の岩肌の一角へ足を向けている少女の姿を見る。確かに二人とも疲れなど見えないけれど。 「それとも、私は二人よりもそんなに軟弱そうに見えるかな」 「滅相もありません!」 大声で否定したダリューンに、それぞれに荷物の整理や辺りの見張りに出ていた者たちが一斉に振り返る。 ダリューンの慌てようが可笑しかったのか、アルスラーンはくすくすと笑いながら馬を引いて岩陰へ向った。 の後をついて行きながら、振り返ってそれを見たギーヴは楽しげに顎をひと撫でする。 「なかなかどうして、軟弱そうな見た目に反して気骨のある王子様だ」 ギーヴの感想に首を傾げるようにして見上げるの視線に、おどけるように肩を竦めた。 「王子様っていうのは宮廷だの離宮だの、綺麗で安全な場所でふんぞり返っているものだろう。そんな暮らしをしている者が、突然逃亡者になって追われながらの旅をしているのに、ああやって笑うだけの余裕がある。大したものではないか」 「なるほど」 ギーヴの見解に納得しては大きく頷いた。 にとっては、さすがに追われることこそあまり経験にないが、野宿や走り続け歩き続けなどの旅は当たり前のことだから、なんとも思わなかった。 だがギーヴの言うとおり、王太子であるアルスラーンにはこんな旅だけでも負担が大きいだろう。そこに残党狩りなどの追手も放たれているのだから精神的な負荷は相当重いはずだった。 だが、アルスラーンが愚痴のようなものを零したり弱音を吐いたりするところを、だけでなく、その前から一緒に旅をしているギーヴも見たことも聞いたこともない。 「ところでおぬしはどこへ行くんだ?軍師殿の指定した場所はあっちだぞ」 「この岩肌を回り込んだ向こうに……よかった、あった」 岩に手をついて、割れ目を覗き込んだの向こうから微かな水音が聞こえた。 「水か」 「雪解けの湧き水なの。まだ余裕はあるけど、できるところで水の補給はしとかなくちゃ」 岩肌を回り込んだを後ろから見ていると、彼女はまず両手でその水を掬って飲み干した。それからギーヴを振り返って馬に下げていた革の水袋を指差す。 「水を入れるよ。それを取って」 「……ああ」 ギーヴは自分の馬との馬の両方から水袋を降ろして手渡した。 水を詰める前に一度飲んで見せたのは、この水が無害であることを示す為だろう。たいていの集団において、新参者の信用が薄いことを自覚している。 古い水を捨てて新しいものに入れ替えるの背中を見ながら、ギーヴは可笑しくて口元を押さえた。 ただひとつ、彼女は自分の誠意を見せる相手を間違えている。 なにしろ元から宮廷に仕え、アトロパテネの決戦直前まで万騎長であったダリューンや、一度はアンドラゴラス王の軍師の一角に加わったことのあるナルサスとは違い、ギーヴは自身が一行の中でもっとも怪しい素性だからだ。 ファランギースはミスラ神殿の女神官で、女神官長の遺言に従ってアルスラーンを助けるためにやってきた。エラムは元ダイラムの領主であったナルサスの忠実な従者だ。 だがギーヴはただの旅の楽士で、面白そうな王子のことが気に入ったので仲間となっている。 たったそれだけの繋がりで、他の従者たちの信用の度合いで言えば、アルスラーンに友誼を持っているのほうが厚いだろうに。 「他の奴らの水袋も預かってこよう」 水を詰め終えた一つ目の袋を受け取ったギーヴがそれを馬に乗せ、休息に入ったアルスラーンたちのほうへと向かう。 「ファランギース殿、新鮮な水はいかがかな?あの娘が今湧き水を汲んでいるのだが」 女性にだけ声をかけるところがギーヴがギーヴたる所以には違いない。ファランギースだけでなく、ダリューンもナルサスも水袋を当たり前のように押し付けて、アルスラーンが目を瞬く。 「ナルサス様!この辺りに他の人影はありませんでした!」 息を切らせて駆け戻ってきたエラムは、ギーヴが複数の革袋を手にしていて首を傾げる。 「が湧き水の出る場所を知っていたらしい」 「では、私が手伝ってきます」 ギーヴから革の水袋を預かろうとしたエラムだが、ナルサスがそれを止めた。 「水は二人に任せておけばいい。それより、今のうちに食事をしておこう。再び出発すると、次に食事の機会がくるのがいつになるか判らんからな。支度をしてくれ」 一時の休息を終えると、再び急いで東へ向かった一行は夜の闇が深くなると適当な場所を探し当てて野営に入った。 見張りは三交代制で、最初はナルサスとギーヴだった。次がダリューンと、最後がファランギースとエラムの予定になっている。 「なあ軍師殿」 「なんだ?」 火の傍で外套に包まりながら思索に耽っている様子だったナルサスは、小さな呼びかけに首を巡らせた。 ギーヴは少し離れたところで、やはり外套に包まりながら細い木の枝で小さな火を突いている。 上がる煙がごく細く済むように、火は最小限の小ささに抑えられ、その上に枝から切り落とした生木で簡易屋根まで作って更に煙と光を抑えていた。 追われている身なら火は使わないことが常識だが、人間ではなく獣の対策には火が必要だった。火の囲いを手際よく作ったのはとそれを手伝ったエラムだ。 彼女に言わせると、養父と二人旅のときは盗賊に見つからないようにと普段からこうやっていたらしい。 「あの娘な、ペシャワール城塞へ着いたとき、果たして素直に金だけ貰って出て行くと思うか?」 「どうだろうな」 「俺は、このまま着いてくる気ではないかと思うのだが」 「なぜそう思う」 ナルサスの視線を受けて、ギーヴは火を見たまま軽く肩をすくめた。 「ただの勘だ」 「だがあながち大きく外れた勘でもあるまい」 あっさりと同意したナルサスに、ギーヴが首を巡らせる。同時にナルサスも、ギーヴと同じ方向を見た。 アルスラーンのすぐ傍にはダリューンが剣を抱いて眠っており、その反対側の脇をファランギースが固めている。そのファランギースから少し離れたところで、が小さくなって眠っていた。 「そうなれば好きにさせるさ。昼間見た弓の腕は、おぬしほどではないが悪くなかった」 「王子様はどう言うだろう」 「渋るかもな。だがそのとき説得するのは従いたい本人のすることで、俺が気にすることではない」 「では、後で軋轢が生まれたらどうする?」 エラムの話からも、養父の死の真相をアルスラーンに隠したことからも、彼女が王太子にひとかたならぬ好意があることは明らかだ。 理由が恋情であるというほど、固く、脆く、そして危ういものはない。 関係が上手く回っているときはいい。彼女が諦めて遠くから眺めているだけで満足できるならいい。だがアルスラーンは彼女を完全には遠ざけないに決まっている。 それは友誼という名の、情によって。 中途半端な距離は、彼女に欲をもたらすかもしれない。 「そのときは……」 それきりナルサスは黙り込み、ギーヴもそれ以上は掘り返しはしなかった。 ナルサスが最後まで言わなかった言葉を理解することができないほど、察しが悪い男ではない。 ―――主君が無用な悩みをかけられるなら、それを排除することもまた従者の務めだ、と。 翌日もまた戦闘が起こった。 今度はカシャーン城砦から放れた追手との戦闘で、こちらは弔い合戦の意味が込められているだけに追跡も執念深いものだった。 「小娘!」 後ろは大人たちに任せ、アルスラーンとエラムを連れて先に進もうとしたは、横からかけられた怒号に、咄嗟に鞭をしならせてその一撃を絡めとる。 怒りに燃える男は見覚えがある。ホディールに特に目を掛けられていた。城主の命でアルスラーンの元を訪れたの首尾を、廊下で伺っていた男だ。 「貴様!よくもホディール様を裏切ったな!たかが踊り子の分際でっ」 剣を強く引き戻され、手首を返すと刀身から鞭を外して正面から身構えた。 「!」 「先へお進みください殿下!エラム、殿下をお願い!」 馬を操って一撃、二撃と斬撃を避けながら、駆け戻ろうとしているらしいアルスラーンを振り返らずに強く告げる。 目の前の男の武芸の腕は、から見ても明らかにダリューンやナルサスはおろか、ギーヴやファランギースの足元にも及ばないだろう。 だがが正面から、一対一で対するには危険な相手だった。 普段から盗賊などを相手にするための鍛錬は積んでいるとはいえ、相手は軍人でおまけに主君を殺された怒りに燃えている。 だがそれは、とて同じことだ。 養父の死に自分の責任こそをもっとも強く感じているとはいえ、あの城砦で殺されたのだという悲しみは深い。 「ホディール様は貴様らに目をかけていたというのに……許せんっ」 「仕えるべき王太子殿下に剣を向けたのはホディール様よ!それに誤りはないとでも!?」 「ホディール様は真にパルスのことを思えばこそ行動に移されたのだ!」 「都合のいいことばかり……」 は歯を強く噛み締めた隙間から、憤りの言葉を小さく吐き出す。 養父の死は、の責任も重い。 だが欲を出してアルスラーンを危険に晒したことは、ホディールだけの誤りだ。 大切な人を、一人は命を狙い、一人は殺した。それがにとってのホディールだった。 「ダリューン様やナルサス様の暗殺を企むような卑劣な男、どこが忠臣なのよ!」 「踊り子の分際で何が判る!痴れ者めっ」 繰り出した鞭の一撃を跳ね除けられ、馬上でバランスを崩しながら煌めく銀の輝きを見た。 「!」 だが男は振り上げた剣をに降ろす前に、飛来した矢を叩き落す。その一瞬の隙で充分だった。 が投げつけた腰に下げていたナイフは、男の喉に吸い込まれるように深く突き立つ。 小さな呻き声を挙げた男の目がを見下ろして、ぐるりと白目を剥くと馬から永遠の落下を果たした。 頬についた返り血を手の甲で拭いながらが視線を転じると、先に行けと言ったはずのアルスラーンが、馬を走らせながら振り返って弓を構えている。 アルスラーンに助けられて、嬉しいのか悲しいのか、よく判らない。 はっきりしていることは、まだ戦闘は続いていて、急いでこの場を離れる必要があるということだけだ。 地面に落ちた男の後頭部を一瞥すると、進む道へ先導するために、ダリューンたちより先にアルスラーンとエラムを追いかけた。 |
ペシャワールへの道のりは険しいようです。 |