8.



ナルサスに促されて共に城砦を駆け出したが、が最後に城砦を振り返ると、松明をかかげた奴隷たちが憤怒に駆られた状態で城砦から押し寄せていた。
だが相手は徒歩で、こちらは騎馬だ。すぐにその姿は見えなくなる。
ナルサスが言っていた危険とは、きっとあの奴隷たちのことを指すのだろう。
悲しみに胸が押し潰されそうで、目の前で見た彼らの怒りもまるで遠い出来事のようだ。
月明かりだけの薄闇の中での、可能な限りの速度で馬を操りながら、部下たちに周囲を固められたアルスラーンは青褪めた表情で黙りこくっていた。
ナルサスは死んだ男から請け負った娘がちゃんとこの騎馬の速度についてきている様子を確認してから、アルスラーンに向き直る。
「ホディールは、自分の所有する奴隷たちには優しい主人でした。あの者たちにしてみれば、殿下も我々も、主の仇になるのです」
「ナルサスは私が奴隷を解放しようと言ったときから、こうなることが判っていたのだな?
なぜ教えてくれなかったのだ」
アルスラーンの声には詰問の調子はなく、奴隷たちの態度が想像とは違うものだったことに対する、あるいは結果を予測しながら黙っていた部下に対する怒りは窺えない。
純粋に落胆し、そして理由を知ろうとする意思をその視線から見出して安心しながらナルサスは苦笑する。
「先にそうお教えしても、殿下は納得なさらなかったでしょう。経験せねば判らぬこともあると思いましたので、あえてお止めしませんでした」
「……それは、おぬし自身の経験からか、ナルサス?」
アルスラーンの指摘に、ナルサスは苦笑とともに頷いた。
「私は五年前に父の跡を継いでダイラムの領主になったとき、所有するすべての奴隷を解放しました。ですが彼らのその八割は、自らの意思で奴隷として戻って参りました」
「なぜ……」
「彼らは生き方を自ら選択し、計画するというだけの技能も目的もなかったからです。私は彼らを解放するときに一年分の生活費をそれぞれに与えましたが、彼らはそれをただ消費することしかできなかったのです。彼らにとって、私がしたことは一時の金を与えただけで職を奪い、追い出したというだけのことでした」
エラムと並んで最後尾を行きながら、はぼんやりと主従の話を聞いていた。
確かに、ホディールは目下の者にも寛大だった。奴隷のことも常識の範囲内で使役していたし、気まぐれに鞭を打つような性癖も持っていなかった。
たち流れ者の芸人のことも、特に理不尽に扱うということはなかった。
それどころか金払いもよく、雇い主としては善良だったほうだ。
城主が何を企もうと黙って見て見ぬ振りをしてやり過ごしていれば、が幼い頃の想いに縋って勝手に行動しなければ、今頃あの優しかった養父はまだ笑っていたのに。
は急に息苦しさと締め付けるような胸の痛みを感じて、手綱から片手を離して胸の中央を押さえた。
「寛大な主人のもとに奴隷であることは、恐らくもっとも楽な生き方でしょう。自分では何も考える必要も無く、ただ命令に従っていれば、家も食事も与えられます。五年前の私は、そのことが判らなかったのです」
「……それは私も同じだな。ではナルサス、本当は人に自由など必要ないと、そなたはそう思うか?」
「いえ、殿下。人は本来、自由を求めるもの。奴隷たちが自由より鎖につながれるままの安楽を求めるようになったのは、他の道があるということを最初から知らないからです。地図も磁石も持たせずに、広大な草原の地に放り出されても、行く先を決められず立ち竦むことでしょう……」
ふと息をつくと、ナルサスは目を瞬いて語りすぎたかと思ったらしい。首を振って最後に付け足した。
「いずれにしても、殿下はご自身で歩む道を選びとろうとなさっておられる。私の話には左右なされますな」
アルスラーンは部下の慎重な言葉の意味を深く読み取ろうとその顔を見つめたが、薄闇の中、騎乗していては瞳どころか表情を知ることすら不可能だった。
信頼する軍師の言葉を自分なりに咀嚼して考えようとしながら、ふとこの五人がいつまでこうやってついてきてくれるのだろうかと思い浮かぶ。
彼らに愛想をつかされないうちに、自分はそれに見合うだけの成長をしなくてはならない。
手綱を握り締める手に力を込めて一同を見回して、決意を新たにしようとして眉をひそめた。
前を行くのはダリューンとギーヴ、横にはナルサスがいる。ファランギースはやや斜め後ろを走っていて、エラムがその後ろに……もう一人、並んでいて。
雲と木々の切れ間から差し込む月明かりで、黒い髪をたなびかせる少女の顔を見つけて、それこそ飛び上がるほど驚いた。
!」
エラムは隣を走っていたし、前を行くギーヴも城砦を飛び出すときに気付いていたから、同行者が一人増えていることに気付いていなかったのはアルスラーンだけだ。
城砦の奴隷を解放しようとして上手くいかず、それに落ち込んで自分のことで手一杯になっていた。
名前を呼ばれたは大きく震えて唇を噛み締め、ナルサスとファランギースは僅かに視線を交し合う。
ジプシーの男がホディールに斬られたことを、ダリューンはナルサスにだけ囁いたから、アルスラーンはまだそれを知らない。
「どうしても一緒に?それに……」
「殿下、申し遅れました。先ごろあの娘の父親に、娘を安全なところまで連れて行くように依頼され連れ出しました。殿下のご許可を仰がずに勝手に判断いたしましたこと、申し開きようもございません」
「依頼された?……では、あの男は……」
アルスラーンとは関わりのなかった男が、わざわざ娘を頼んでおいて、自分だけがあの場に残る意味はない。
一つの可能性に思い当たり、アルスラーンは蒼白の顔色で幼馴染みの少女を振り返る。
!私の……私のせいか?私のことにそなたを巻き込んで……」
「いいえ、殿下。騒ぎの場に迂闊に出たわたしの責任です」
がきっぱりとした声で否定して、ナルサスとファランギースはそれぞれ後ろの少女をちらりと顧みた。
だがやはりアルスラーンと同じで、薄闇の中ではその表情までは掴めない。
「中庭で、騒ぎが起こっていることに気付いたときに部屋に閉じ篭ればよかったのです。ナルサス様がお慈悲をかけて、後に従い供として城砦を出ることを許可くださいました」
そこに多く嘘が含まれていることに気付けなかったのは、ことの次第をほとんど知らないアルスラーンだけだ。
少女が口を噤むというのなら、あえてアルスラーンにすべてを知らせることもない。
「そうか……すまない、ではあの混戦に巻き込んでしまったのか」
あくまで、暗闇の乱戦に偶然巻き込まれたと言うに、アルスラーンは痛ましい思いで小さく息をつく。
「いいえ、もったいないお言葉です」
アルスラーンがそれ以上、会話を続けなかったのは幸いだった。
辛うじて声が震えないように振舞うのは、もうそれが限界だったからだ。
は嗚咽を殺すために口を塞ぐように布を押し込み、涙を拭いながら手綱を握り直した。



山道を馬で駆け下りながら、ダリューンがふいに振り返った。
「ときに殿下、いずれの方角へおいでになりますか」
山を下るにしても、これから先向かう方角によって道が決まる。分かれ道の直前になって決めているのでは遅く、また場合によっては道なき道を走る必要もある。振り返ればまだ城砦からの追っ手は見えないが、彼らが報復に出ないとは言い切れない。
南へ行けば、広大な乾燥地を縦断して、ギランの港町に至る。東方国境にはシンドゥラやチュルクと対峙する騎馬兵を中心としたペシャワール城塞がある。そして西には西方国境を守る歩兵中心の部隊がいる。
アルスラーンは数拍の沈黙のあと、白み始めた空を仰いだ。
「東へ」
ルシタニア軍に占領された王都を奪還するためには、兵力が必要だった。王都エクバターナの軍が敗れた以上、今の時点でパルス最大の兵力は、東のペシャワール城塞にある。
アルスラーンの言葉に、全員が馬首を東へと向けた。
「ところで、その娘はどこまで同行させるつもりだ、軍師殿」
少しずつ明るくなり始めた道に余裕が出来て、ギーヴが振り返って訪ねるとナルサスは軽く首を傾げる。
「山を降りる頃まででいいだろうと思っていたのだが……」
「ナルサス!」
アルスラーンは咎めるように声を上げて、叱責された軍師は苦笑で軽く眉を下げた。
「ご心配には及びません。城砦からの追っ手が出る可能性もあります。旧知とのことで、殿下もいろいろと気になるでしょうから、判断はお任せいたします」
アルスラーンはほっと息をつき、を振り返った。
さすがに泣いた様子は見られるが、それ以外は特に乱れた様子もない。アルスラーンと目が合うと、少し困ったように首を傾げたが、それだけだ。
今はそれどころではないから気丈に見えるかもしれないが、大切な人を亡くしたばかりで、見ればアルスラーンたちよりずっと軽装でもある。
おまけにナルサスの言うように城砦から追っ手が掛かれば、こんなところで一人にするのはあまりにも危険に見えた。
少なくとも、このカシャーン城砦を含むニームルーズ山を越えるまでは別れるわけにはいかない。
だがニームルーズ山を越えたところで、今度はルシタニア軍に占領された地に近づくことになる。現在は残党狩り以外にも、ルシタニアの略奪が各所で起こっていることを考えると、やはりどこで別れるかということは悩みどころでもあった。
別れる、と考えてアルスラーンは一瞬息苦しさに呼吸を止めた。
せっかく再会できたのに、また別れる。
城砦内でも別れを告げたが、あのときとは状況が違う。
あのときは、はそのまま自分の日常を変わりなく送ると思ったから手を離したのだ。
たった一人の連れを失って、これからどうするのだろう。
彼女は養父を昨夜失ったばかりだ。これからを聞いてもすぐに答えられるものでもない。
だが、アルスラーンの旅は決して安全ではない。むしろ、王太子として追撃を受けるからより危険が増す。
どこでと離れることが、彼女にとって一番安全になるかとアルスラーンが思案していると、後ろからが控えめに声を上げた。
「あの……東のペシャワールへ向かわれるのでしたら……わたし、抜け道などの案内ができます」
ナルサスとギーヴは予想した話であるが、そうと提案してよいのか判断に迷ったのだ。
旅を続ける者なら、芸人だろうと商人だろうと多少の道の知識はある。
軍隊で通る道筋なら限られてくるが、アルスラーンの一行はを含めてたった七騎の行軍だ。大陸公路を外れた上で盗賊に襲われにくい道や、地図に載っていない寂れた道はやギーヴのように流れ者のほうが熟知している場合も多い。
「だけど……、私たちの旅は危険なものだ。いつルシタニアの兵に追われるかもわからないし」
「だからこそ、わたしがお役に立てると思います」
「だけど……」
一人にするのも心配で、かといって連れて行くことにも不安がある。
困惑するアルスラーンに、ナルサスが軽く手を上げた。
「では殿下、こうすればどうでしょうか。娘を道案内として雇いましょう。庇護ではなく仕事を与えるのです。ペシャワールまでたどり着けば、報酬としてそれなりの賃金を渡せばよいでしょう。あとは国境ですから、チュルクでもシンドゥラでも、娘が望む国へ行けます。ルシタニアの跋扈するパルス国内より幾ばくかは安全でしょう」
アルスラーンは手綱を繰りながら、しばらく沈黙して考えた。
やがてまだ少し不安の残る表情でを振り返る。
「危険もあるけれど、本当にいいのだろうか?」
「承知の上です」
が頷くと、アルスラーンはナルサスの案を受けることに決めた。
何よりも、それが幼馴染みの身の安全を心配するアルスラーンの心情を汲んでの提案だと判っていたからだ。
正式に道案内として雇われることになると、は馬を前に進めて先頭に立つダリューンと並ぶ。
そうして、明るくなってきた東の空を振り仰いだ。
アルスラーンがカシャーン城砦にこなければ、確かに養父は生きていただろう。
だが、が城主を裏切るかどうか、それはの判断だった。
自ら選んだ道だ。
養父の死に責任があるとしたら、それはすべてにある。
自分だけでなく、養父の身も危険にさらすとわかっていて、エラムに手を貸したのだ。
それでも。
強く手綱を握り締める。
後悔はしていない。
養父を死に追いやった、そのことに悲しみ胸が潰れそうになっても、それでもアルスラーンの身を守るための行為に後悔はない。
後悔することは……できない。
それが養父に申し訳ない。
怒りよりも、憎しみよりも、申し訳なくて、ただ悲しくて、は懐に入れた笛を握り締めた。






一路ペシャワールへ。
行く先が決まったところで、第一章は終了です。


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