7. 「やれ、大変だ」 カシャーン城砦の兵士たちが武器を抜き、一触即発の雰囲気を茂みから眺めながら、養父はさして深刻そうではなく、むしろそれを予測していたかのような気軽さで呟いた。 「ご、ごめんなさい」 このまま黙って王太子一行が出て行くのを見守っていれば巻き込まれずに済んだかもしれないが、が最初に投げた短剣を拾われるとその持ち主は容易に知れるだろう。 城内で雇われることになった際に、と養父の装備一式は一度点検を受けている。 それでもパルス製の短剣ならばごまかすことができたかもしれないが、現在が使用していたのはミスル製のものだ。どうしても目立つ。 これで確実に、逃げるより他はなくなった。 「まあいいさ。さて問題はどうやって逃げるかだね。ちょっとした騒ぎになってくれれば、闇に紛れることもできるだろうが……」 茂みの陰から窺っていると、ダリューンが長剣を抜き放った時点でホディールの部下たちは明らかに怯んだ。 「弓箭兵――」 戦いにならないと踏んだホディールが振り返って指示を出すと、弦の切れる音と狼狽の声と悲鳴がそれに応えた。 とエラムの二人で細工を施した成果が発揮された様子に、養父は苦笑を漏らす。 「ふむ……騒ぎになりそうもないねえ……」 「ご、ごめんなさい」 ダリューンの豪勇を知りながら正面から戦いを挑む者もこの場にはいないだろう。 城主が口惜しさを噛み締めながらでも、表面上穏やかに王太子たちが城砦を後にすることになれば、紛れて共に逃げ出すというわけにはいかない。 このまま茂みに隠れておいて、城門近くから人が減った後に逃げ出す算段を立てる必要がある。 どうしようかねえと呟く養父にが恐縮している間にも、王太子一行と城主の武器を交えぬ言葉の攻防は続いている。 「よくやった、エラム」 ナルサスの誉め言葉に、少年は嬉しそうに笑った。 わざわざ口に出して少年を誉めたのは、もちろんそのままの意味も含んでいるが、これはエラムが一人で行ったことだとホディールに思い込ませるための小さな仕掛けでもある。 弓のすべてに細工が施されていたことで、エラムの言う通りジプシーの少女が王子を助けたいのだという気持ちが本物だと証明されたことになる。 ならば王子のためにも少女に咎が及ばぬようにしておく必要があると踏んだのだ。 「この……こ、狡猾な狐めっ!」 「何の、おぬしには敵わんよ」 ホディールがナルサスの言葉に乗ったことで、少女を疑惑から外すことが証明されて密かにほくそえんだ。 気がかりなのは王子を守ろうと茂みから飛んできた、恐らく少女のものであろう短剣だが、これは馬を降りてまで回収するわけにはいかない。 この場にいるのなら、後は自らの才覚で上手く逃げ出してくれることを願うしかない。 ……それにナルサスとしては、ジプシーの親子にこの件でもしものことがあったとしても、最終的にそれがアルスラーンの耳に届かなければいいのだ。 協力してくれた無辜の者が犠牲になることを善しとするわけではなくても、すべての味方を守ることなど不可能なのだから。 「さて、ホディール。よく考えることだ。こちらは数こそ少ないが、弓矢もあれば射手もいる。大人しく城門を開けば、すべて丸く収まると思うのだが」 ナルサスの説明を聞くまでも無く、ホディールの目には自分に向けられたギーヴとファランギースの矢が映っていた。 たとえそれをかわしたとしても、ダリューンの剣はすでに抜き放たれている。 歯軋りをしながらホディールが城門を開けるように命じかけたとき、中庭を照らしてた松明の火が、ふいに消えた。 「王太子を捕らえろ!」 暗闇の中から叫びが起こる。とたんに各所で喚声が上がり、月明かりだけの中庭で剣戟の音が鳴り響いた。 ホディールの部下が自分たちなりに考えて主君を助けようとしたことだが、これは城主にとっても不本意なものだった。 何しろ王太子一行は数が少ないために、闇の中で同士討ちに陥る可能性は極めて低い。 それまで味方がいた方向を攻撃しなければよいだけのことだ。 そうと気付いて舌打ちするかしないかの内にホディールの周囲を固めていた兵士が次々と打ち倒され、闇の中で黒衣がはためいた音が聞こえた。 ダリューンの接近に恐慌をきたした味方が武器を振り回し、ホディールはほうほうの態で逃げ出す。 怒号と悲鳴と刃音の中で安全な場所を求めて人の輪から抜け出したホディールは、城壁へ続く階段を目指した先で自分が雇ったジプシーの親子と鉢合わせになった。 闇の中で乱闘が始まり、養父はアルスラーンの安否を心配するの手を引いてこれ幸いと城門近くに移動を始める。 「父さん……アルが」 「大丈夫だろうて。ダリューン様は大陸に並ぶ者なき剛の者とまで謳われているお方だ。むざむざ王太子殿下を死なせはせんだろう。それよりも、芸といえば武芸などではなく、見世物芸しか能のないわしらの方が先に逃げ出さんとな」 騎馬と徒歩ということを考えても、養父の言うことはもっともだ。 剣戟の響く闇の中庭と、城門を見比べては首を振った。 が何もしなければ、この養父まで危険を冒して逃げ出す必要はなかったのだ。 アルスラーンには養父の言うとおり、ダリューンもナルサスもついている。闇の中での戦いは、多勢よりも少数の者の味方だということもある。 後ろ髪を引かれる思いで、だがまずは養父を安全に城外に出すことが先決だと振り切ったところで、重々しい甲冑が響く音とともに、抜き身の剣を握ったホディールが目の前に転がり出てきた。 「そなたたち、なぜここに……!?」 「ホディール様!」 養父も咄嗟の取り繕いが出来ずに上擦った声を上げる。 驚愕に目を見張ったホディールの脳裡にまるで天啓のように、誰もいないはずの茂みから飛んできた、あの短剣が思い浮かんだ。 「、そなたか!」 怒号とともに月明かりだけの薄闇の中で、ホディールの剣が閃く。既にホディールは抜き身で、の鞭はまだ腰にあった。 武器を抜いての応戦では間に合わなかっただろう。 だがを襲った痛みは剣で斬られたものではなく、突き飛ばされて地面に転がり身体を打ちつけたものだけだった。 「父さん!」 鮮血が飛び散り、の視界を染める。 伸ばした両手に崩れ落ちてきた養父の身体を受けとめて、共に地面に転がったところにホディールの罵声が轟いた。 「この恩知らずめが!」 傷付いた養父の身体を庇うように抱き締めて、続く二撃目を覚悟したが目を閉じたと同時に精悍な男の声が響く。 「それは貴様自身のことだホディール!長く王家の碌を食みながら殿下に刃を向けた罪、問罪天使の前にまかり出て、自ら告白するがいい!」 応戦しようと剣を翻したホディールが最期に見た光景は、闇を切り裂く銀の煌きだった。 「お前たちの主君は死んだ!これ以上の戦いは無益だ」 ナルサスが叫び、ダリューンがそれに合わせて城主の首を高く掲げると、中庭では剣や槍を捨てる音が続いた。 騒動の収まった一角で、は涙を堪えて懸命に養父の傷を手当てする。 肩口から切り下ろされたそれは腹部まで達していて、とてもではないが手の施しようが無い。 そうと判っていても、荷物を漁って布を取り出すと傷口に当て少しでも出血を押さえようと強く縛り付ける。 「……」 「喋っちゃだめだよ。まず血を止めなくちゃ。縫う道具はどこにしまったっけ?」 自分でまとめた荷物も把握できない状態の娘に、苦く笑って緩く首を振る。 「もういいよ……わしは、助からん……」 「いやだ!そんなはずないっ!今までだって、どんな危ない目に遭っても一緒に潜り抜けてきたのに、こんなところで諦めないでよっ」 「……いいかい、わしの死に捉われては、いけない……お前は、自分の幸せ……だけを」 「父さんは死なない!死なせないっ」 あっという間に赤く染まり上がる布に、は別の布をさらに上からあてがおうとして、後ろから近付いてくる足音に放り出していた鞭を手に鋭く振り返った。 「おっと待て。攻撃はするなよ」 両手を挙げてを押し留めると、ナルサスは地に倒れている男の横に膝をつく。 一瞥して助かる傷ではないと判った。 「こちらも事情があってしてやれることは皆無に等しいが、何か望みはあるか」 既に大量の血を失い、光を欠いた目がナルサスに向けられる。 「……娘を……この城砦、から……連れ出し……」 死に逝く男の願いは、ナルサスの予想を違うことはなかった。 このままこの娘が城砦にとどまり逃げる時期を逸すれば、主の仇としてみなされて報復の対象になるだろう。だが娘の様子では、自らは父親の側を離れそうにない。 ナルサスは最初、このまま主を失った城砦を上手く掌握して本拠地にすることはできないだろうかと思案を巡らせた。 それが叶えば、この男の亡骸を葬った後に安全に娘を城砦から送り出せばよかった。 だが、そういうわけにはいかないことになりそうなのだ。 後ろを振り返ると、こちらの様子には気付いていない王太子が先ほど述べたことを実行するために城砦の奥に行く後姿が見える。 後ろにはダリューンとギーヴとナルサスに命じられたエラムが従っているのでしくじることはないだろう。王子のことはダリューンたちに任せておけばいい。 「承知した。城砦から連れ出し、安全な場所までは連れて行こう」 ナルサスが頷くのを見て、男はほっと安堵に息を吐いた。 城砦の奥で起こるだろう出来事より先に娘を立たせようとして腕を掴む。 「行くぞ」 「いやだ!放してっ」 ナルサスの手を振り払うの膝を、震える指先がそっと掠めた。 「行きなさい……」 「い……やだ……わ……わたしの……わたしの、せいで……父さ……っ」 堪えていた涙が一粒溢れると、後は堰を切ったように後から滂沱に溢れ出す。 「置いて……行けなっ……」 「お前には、詫びねばならん……」 男の視界は急速に歪み、涙にくれる娘の姿が見えなくなる。同時に、すぐにでも気を失いそうだった痛みが薄れてきて、終わりが近いことが判った。 「……お前の……本当の親のことは、わしは知らん……だが……その証になる、銀の腕環が……だがそれを売ってしまっ……」 「そんなの……どうでもいいよ!」 自分を捨てた親になど興味は無い。今までを育ててくれたのは、エクバターナで共に過ごした最初のジプシーの夫妻と、その友人だった今の養父だ。 今更、何の告白の必要もない。 「生きてくのに銀を売ったからってなに!?父さんがいたから生きてこれたんだ、謝ることなんて何もないっ」 「ちが…う……わしは、お前を手放したく……なかった……本当の、親に見つからぬように、と……」 瞼を開けていることすら重く、もはや見たいものも写してくれない瞳に諦めて、そっと目を閉じた。 「行きなさい……幸せ、に……」 浅く短く繰り返される呼吸が止まり、静かになった男にファランギースが短く一節だけ祈りの言葉を口にした。 「……父さん……?」 は地面に投げ出されていた手を握り締めて、小さく呼びかける。 「父さん……いやだ……」 「……行くぞ、時間が無い」 ナルサスがその腕を掴んで引き上げようとするが、は養父の手を掴んで放さない。 「行くぞ!ここはもうすぐまた危険に見舞われる。無駄死にをして父親を嘆かせたいか!」 ここでを見捨てたとしても、ナルサスには影響は無い。 だがもしも、アルスラーンが後でそれを知れば苦悩することは目に見えていたし、エラムもこの少女を気にしていた。 それに何より、ナルサスとて見捨てずに済む命を、あえて打ち捨てるような真似がしたいわけではないのだ。 ここから連れ出て、麓まで連れて行けば充分に男の願いを叶えたことになる。それくらいの労力は惜しむほどのものではなく、だが死者への手向けにはなるだろう。 が握り締める男の手を、ファランギースがそっと外させる。 代わりに、男の懐から覗いていた笛を取って少女の手に握らせた。 「真に悼む気持ちがあれば、遠くからでも弔える。父を大切と思うなら、今はナルサス卿の言うとおりにいたせ」 ファランギースの緑色の瞳を見返して、は涙を拭うとナルサスに従って中庭に震える足を進めた。 「馬は乗れるな?」 ナルサスは中庭に戻ると主を失い戸惑いながら遠巻きにしている兵士たちの間から適当な馬を選んでの前に引くと、少女は頷いて馬上に上がった。 同時に城砦の奥から怒号が上がり、ナルサスとファランギースも弾かれたように自らの馬に跨った。 怒りの叫びに追われるように馬で駆けてきたアルスラーンたちの姿を確認すると、ナルサスが号令をかける。 「行くぞ!」 は一度だけ養父のほうを振り返り、強く唇を噛み締め目を閉じると、振り切るように馬の腹を強く蹴った。 |
悲しい別れです。 |