6.




滑り込むように城内の一角に与えられた部屋に戻ると、はほっと安堵の息をついた。
エラムと二人ですべての弓の弦に切り込みを入れ、力を入れるとすぐに切れるように細工を施すと、弓箭隊の詰め所の前でエラムとは別れた。
そこから誰にも見咎められずに部屋まで帰れたという自信はあるものの、それでも緊張で心臓は強く脈打ち、掌には汗が滲んでいる。
……?」
部屋で琵琶を磨いていた養父が、心配と苦悩を隠しきれない表情で振り返った。
養父の様子に一瞬ギクリと身体が硬直したが、すぐにその心配は違うところへ向いていると気が付く。
「あ……だ、大丈夫だったよ、父さん。アルは……殿下は、やっぱり優しい方だった」
身体に巻きつけたストールを外しながら、はにっこりと微笑んだ。
「殿下のことを知らないって言ったのは、嘘だって気付いてらしたけど……今でもわたしのことを友達だって……」
「そうか、それはよかった!ふふ……ホディール様の思惑は外れたということか。殿下はお前の言う通りのお方だったか。よかったよかった」
娘に伽の役目をさせてしまったと、ずっと塞ぎこんでいた養父はほっと息をついてようやく笑顔を零す。
「いや、しかし友達と仰られたということは、必ずしもホディール様が諦めるとは限らんか」
「ううん、殿下と知己だと悟られると、わたしが城主様から何を命じられるか判らないと臣下に注意されたと仰っていたから……」
大丈夫だろうと養父を安心させようとして、溜息をついた。
「ごめんなさい、父さん。……あのね、今夜騒ぎが起こるかもしれないって。もしもに備えて荷物をまとめておいたほうがいいと思う」
ここで養父を安心させても、エラムによると今夜にもことが起こるだろうという話だった。
弓箭隊の詰め所で細工したことに、が手を貸したことは恐らく判明しないはずだが、それ以外にもが王太子の機嫌を損ねたとホディールが判断するようなことがあれば、下手をすれば城を叩き出されるだけでは済まない。
「騒ぎ?騒ぎとは何の騒ぎだね?」
「判らないけど……殿下の従者の子が、弓箭隊の詰め所で弓に細工をしていたから」
「弓に細工!?待ちなさい、それはまた物騒な話じゃないか。それにどうしてお前がそんなことを知って………」
ぎゅっと唇を噛み締める義娘を見て養父は目を丸め、呆れたように溜息をつくとすぐに背中を見せて元より少ない荷物をまとめ始めた。
「お前が案内したのかね。まったく……」
「ごめんなさい……でも……アルが……殿下が危険な目に遭うのは嫌なの」
反省したように小さくなって言う娘に、そっと息を吐くと軽く首を振った。
「そんなところだろうと思ったよ。それでいい。お前のしたいようにすればいい。言ったろう、わしは老い先も短い。お前の後悔がないようにだけすれば、わしも嬉しいんだよ」
「父さん……」
は養父の丸まった背中に後ろから強く抱きつく。
「ごめんね……ありがとう」
「いいからお前も早く旅の準備を整えておきなさい。もしもの時は騒ぎに乗じて城から抜け出せるように、城門近くに隠れておくとしようじゃないか」
例え王太子一行が城から堂々と出て行くなり、逃げ出すなりしたとしても、たち親子まで逃げ出さなくてはならないような事態になるとは限らない。
できれば無関係だと判断してもらえるに越したことはない。なにしろ報酬がもらえなくなると、今後の旅が厳しくなる。だからあくまで、もしもに備えてのことだ。
「でも……こんなことになるなら、今日買い出しに出たのは偶然だけど運がよかったのかもしれないね」
「……やれやれ、お前は前向きでいいねえ」
すぐに気を取り直した娘に、呆れたように呟いた養父の声はそれでも明るいものだった。


出て行ったときと同じように、夜の闇に紛れるようにして窓から部屋に戻ってきたエラムは、部屋の屋根裏で見つけた包みを主に差し出した。
ナルサスは包みを開いて中身の匂いを嗅ぐと、低く笑って包みごと水がめに放り込んで蓋をする。
「黒蓮の茎を原料にした薬品だ。一定の時間がくれば無色無臭の煙を発して吸い込んだ者を眠りに誘う。やはりホディールは今夜中に決着をつけるつもりらしいな。エラム、弓に細工はしてきたな?」
「はい。ご命令通り、すべての弓を使えなくしてきました。……ただ」
言われたことは忠実にこなし、常に期待通りに動くエラムが珍しく後の言葉を濁したので、ナルサスは少し意外な思いで振り返った。
「ただ、どうした?何か問題があったのか?」
「……はい。実は弓箭隊の詰め所に向かう途中、あの、アルスラーン殿下の旧知だという娘に会いました。それで……詰め所まで案内してもらい、一緒に細工を……」
もくもくと剣を磨いていたダリューンと、ホディールの小細工に、騒動が起きそうだと楽しげに弓と剣を確認していたギーヴも顔を上げてこの主従に注目した。
「……共に行動した……となれば、お前はかのジプシーの娘を信じるに足りると判断したのだな?何があった」
「弓箭隊の詰め所を探して庭に出てたところで、人の気配がしたので隠れました。ところがあの娘にすぐに気付かれてしまって……その、少しだけ仕合になりました」
「あの娘がお前とか?」
まだ子供だとはいえ、身軽で目端の利くエラムは短剣と弓を使わせれば、それなりに腕が立つ。主であるナルサスはそれを知っているし、旧知のダリューンや、まだ知り合って短いながらも数度同じ戦場に立ったことのあるギーヴは、互いに視線を交して共通の驚きを相手の顔に見出した。
「とてもただの踊り子の身のこなしには、見えませんでした。本人は父親と二人だけで旅を続けているから、盗賊に備えて腕を鍛えていると。あの、でも、あの子はきっと密偵なんかじゃありません。アルスラーン殿下のことを本当に心配していました」
起こった出来事をできるだけ忠実に主に伝えようとしながら、エラムは思い出した少女の、王太子を案じた表情に思わず身を乗り出す。
「殿下のことを知らないふりをしたのは、殿下がジプシーと旧知であると判ると不愉快に思う者がいるだろうからと言っていました。少しでも殿下の力になりたいと……」
アルスラーンに危険があるかもしれないと知ったときの、あの不安に揺れた表情に嘘があるとは思えない。
エラム自身も、ナルサスの身に危険が迫るかもしれないと知れば、きっとあんな風に不安に陥るだろう。
そう思えばこその訴えで、信じられるかどうかも判らない少女に大事なことを漏らしたという言い訳ではない。
「……一緒に細工したということだったが、その娘が分担した弓も確認はしたのか?」
「はい。細工したふりなどはしていませんでした」
自身の侍童の少年を知るナルサスは、真剣に訴える様子に苦笑してその頭に手を置いた。
「そこまで見ていたなら、まあよかろう。娘が城主にそのことを告げたとしても、その場合にホディールが取ってくる策はまた読める。また、ホディールがそのままの策を押し通すなら何も知らないことになる。それにお前が信じたくらいなのだから、よほど娘は殿下のために必死だったのだろう」
主の苦笑に、エラムはほっと息をついて頷く。
迂闊なことを咎められなかったことに安心したのか、ジプシーの少女を信じてもらえたことが嬉しかったのか、自分でも判別がつけがたくて驚いた。
王太子を想い、まっすぐにエラムを見返してきた漆黒の瞳に、あるいは主に忠誠を誓う者として近しいものを感じたのだろうか。


夜半過ぎになって、部屋の外を足早に通る重い足音にアルスラーンは短く息を吐いた。
足音はひとつではなく、またどれも武装しているような金属の音が漏れ聞こえる。
まったく、ナルサスの言うとおりであったし、の忠告どおりだ。
どうやらホディールは、ダリューンとナルサスと共に手を携えるというつもりがないらしい。
それでも、アルスラーンはまだ判断を下すには早いと思った。同じくパルスを憂いているのなら、説得に応じてはくれないだろうかと。
樫の扉が叩かれる。
「殿下、ホディールでございます。まだ起きていらっしゃいますでしょうか」
「何事か、ホディール」
アルスラーンがほとんど間を空けずに扉を開いて、ホディールは虚を突かれたようだった。
さらに夜着に着替えることなく、まるでいつでも出立できるように剣まで佩いて整えられた王太子の姿に目を瞬く。
だがすぐに気を取り直して、ダリューン、ナルサスを始めとするこれまでのアルスラーンの仲間たちを排除すると説明を始めた。
「彼らは私によく尽くしてくれている。それを排除するとはどのような理由があってのことか」
「彼らはいずれ、わずかな手勢で殿下をお守りしたことを盾として奸臣となりましょう。殿下と国家に仇なす前に、これを掣肘せねばなりません。あのナルサスめは以前に、奴隷制度を廃止するとか、神殿の資産を没収するとか、貴族と自由民に同じ法を適用するとか、愚かな奏上をしてアンドラゴラス陛下のご不興をこうむった男です。殿下のお力にならんとしたのもおそらく法外な地位を要求するためのこと」
流れるように紡がれる誹謗中傷に、アルスラーンの負の感情が刺激される。貴族と自由民に同じ法を適用して、何が悪いというのだろう。
が言っていた王子とジプシーが友人では不愉快に思う諸侯というのは、確かに存在するということだ。あれはホディールのような者を指すのだろうと思うと溜息すら漏れる。
「ナルサスには私からささやかな地位を申し出ただけで、彼はそれを喜んで受けた。おぬしの心配するようなことは起こらない。おぬしが宰相の地位を望むなら、いずれ私が王位についたときは必ずおぬしを宰相にしよう。だから、ダリューンやナルサスたちと協力して私を助けてはくれないだろうか」
「殿下は人が良うございます。ナルサスめが受けたのは、今の功績をもとに納得した地位でございます。後に新たな手柄を理由にさらに上位の地位を求めて参りましょう。ダリューンも同じです。あやつはナルサスの親友であり、その友誼を元に殿下を傀儡となそうと目論むに違いありません。ファランギース、ギーヴなどの者たちに至っては、どこの馬の骨とも知れぬ輩です。そのような信用のおけないものを殿下のお側に置くわけには参りません。どうか私をご信頼あって、ダリューン、ナルサスの両名と他の者の始末を許可していただきたく……」
アルスラーンは湧き上がる不快感を押さえることができず、片手を上げておしゃべりな城主の訴えを中断させた。
「ホディール……なぜおぬしはそうも、将来おこるかもしれぬと『おぬしが判断した』だけのことを並べ立てる?」
「で、殿下……?」
アルスラーンの表情にも声色にも、不快を隠そうとする意思が少しもないだけに、ホディールにもそのまま伝わったのだろう。戸惑いで上擦った声を上げた。
「今ここで私がおぬしの言うとおりナルサスやダリューンを見捨てたとして、それではいつか私がおぬしを見捨てるときがくるかもしれぬと、なぜ考えない!?」
優しげな……悪く言えば気が弱そうとしか見えなかったアルスラーンの厳しい糾弾に、ホディールはわずかに喘いだだけで返答できない。
「世話になった。いずれ今日の食事の礼はさせてもらう。だが、もうおぬしに協力を求める気にはなれない」
そう言い捨てると、アルスラーンは真っ青な顔色で立ち尽くすホディールと、戸惑うその部下たちの間をすり抜けて、足音高く廊下を進んで臣下たちのいる部屋へ向かった。
「ダリューン!ナルサス!ギーヴ!ファランギース!エラム!起きてくれ!すぐにこの城を出立する!」
歩き去るアルスラーンを乱れた足音で慌てて追いかけてきていたホディールは、間を空けずに部屋から姿を現した五人に驚いて飛び上がった。
「あ……あ………」
「ご命令をお待ちしておりました。すぐに馬の用意をいたしましょう」
ダリューンが腰の剣を鳴らしながら一歩前に出ると、それを阻む者は誰もいなかった。
『戦士の中の戦士』と謳われる剣豪相手に、正面から敵対するような真似は自殺行為だ。
六人が城内から出て馬に鞍をおき、出立の準備を整えたところに、ホディールが煌びやかな甲冑を鳴らして小走りに駆け寄ってきた。
「お待ちくだされ殿下、お待ちくだされ!その者どもを信用なさってはいけません!」
「それはおぬしのほうだろう、ホディール。せめて並みの判断力があれば、底の浅い計略が失敗したと判明した時点で退くものだ。諦めるがよかろう」
ナルサスが冷然と突き放すと、ホディールの顔が怒りに引きつる。
ふと城を顧みたアルスラーンの心に、怒りや侮蔑よりも唐突に悲しみにも似た感情が湧き上がった。
はホディールのことを悪い方ではないと言った。恐らくはそれに間違いはないのだろう。
ホディールが並べ立てた誹謗中傷は、そのままホディールの内心を自ら暴き立てたことに他ならない。
突然舞い込んだ出世の好機に、急激に野心が膨らんでしまった。
あるいはそうではないだろうかと考えたのだ。
ホディールとのやり取りを思い出し、に疑いがかかるようなことを漏らしていないと確信してから馬上に上がる。
たった一夜だけの再会になってしまった。
それがこの上なく惜しく、だが未練を見せては余計に彼女に害が及ぶだろう。
振り切るように城から視線を外した王太子に、ホディールは引きつった笑みを浮かべた。
「……無用の疑いを招いたのは、我が身の不徳の致すところ。せめて殿下のご乗馬の轡を我が部下に取らせましょう」
これ以上は王太子を留め立てしないと宣言してホディールが合図をすると、ふたりの兵士がアルスラーンの乗った馬に近付く。
そのとき茂みの向こうからあっと小さく上がった少女の声を聞いたのは、耳に優れたギーヴとファランギースのふたりだった。
進み出たふたりの兵士のうちの片方のすぐ足元に、その茂みから鋭く光る短剣が投げつけられる。
思いも寄らないところから飛来した短剣に驚いた兵士が急に足を止め、その拍子に背後に隠し持っていた短剣が松明の明かりを反射して光った。
短剣をはっきりと確認する前から充分に注意していたギーヴとファランギースの剣が一瞬で閃き、ふたりの兵士を斬り伏せる。
赤く噴出した鮮血と共に、ふたりの死体と二本の短剣も地面に転がった。
「王太子殿下のお側へ上がるに、短剣を隠し持つとは何を意図してのことか!」
ファランギースが鋭く城主を見据えると、もはやホディールはアルスラーンを捕らえようとする意図を隠さず、周囲を囲む百を越す部下に武器を鞘走らせた。







城砦での乱闘が始まってしまいました。
彼女もすぐ側にいるようですが……。



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