5.




はアルスラーンの部屋を出ると、自分の腕にそっと手を当てた。逃げ帰ろうとしたとき、彼に強く掴まれた箇所だ。
「……ああ……」
小さく息をつく。
こんなにも幸福で、こんなにも胸が痛い。
優しく涙を拭ってくれた少年は、まるであの頃のままのように柔らかな微笑をくれた。
を大切な友だと。
それが嬉しいのに、少し寂しい。
肩から掛けて身体を覆うストールをぎゅっと握り締める。
「……しっかりしなくちゃ」
部屋を一歩出れば、どこに人目があるか判らない。アルスラーンと二人だけの時でなければ、ここにいるのはただのジプシーの娘だ。自覚しなくてはいけない。
大きく一度息を吸い込み、城砦内に与えられた部屋に戻ろうと足音も無く廊下を歩き出すと、進んだ先の曲がり角で見覚えのある男が立っていた。宴席で何度か見かけた、城主の気に入りの家臣だ。
「お、えらく早いな。殿下はどうなされた?」
首尾を城主に報告する為に、ここから窺っていたのか。
は羞恥に唇を噛み締めて、ストールの下で強く手を握り締める。
「そうそうに追い出されたわけか」
「殿下はお疲れのご様子でした。本日はもうお休みになると」
早口に告げるにプライドを刺激したのかと勘違いした男は顎を撫でてニヤニヤと笑う。
「俺は殿下のような方は、お前みたいな小娘より手馴れた女が手ほどきするほうがずっといいだろうと思うのだがなあ。生娘を存分に楽しめるのは俺のような手馴れた男だ。なあ、そうは思わんか?」
舐める様な視線にぞっとして、はストールを握り締めて一歩後ろへ下がった。
男は声を上げて笑う。
「そう警戒するな!殿下に脈が無いと判るまでは、お前に手を出すとホディール様のご不興を買う。俺はそこまで不自由はしておらんよ。また明日、せいぜい殿下に気に入っていただけるように努力するがいいさ」
手を振って歩き去る男の背中を見送って、はほっと息をついた。どうせ今日は不発だったと報告にいくのだろうが、そんなことはどうでもいい。
驚いたのは自分の行動だ。職業柄、あんな目で見られたり、金で買おうと言われたりすることはよくあった。
だがそれらは、上手く煙に巻いて誤魔化してきた。それをあんなあからさまに避けようとするなんて。
溜息をついて軽く頬を叩く。
「本当に……しっかりしなくちゃ」
人になめられることも、蔑まれることも、既に慣れたものだ。だがそれは、諦めるための慣れではない。それらを受け流し、こちらが相手を手玉に取る為に必要な慣れなのだ。
相手が踏みつけようとするのなら、寸前で上手くかわしてながらも視線を投げつけ魅了して離さない。
芸人は人を楽しませなくてはならない。だがそれは、自分の身を切り売りすることでない。
芸を見せるのだ。心を閉ざしてはよい踊りは出来ない。だが開きすぎても、それはただ心の動きのまま感情を吐き出すだけで、芸ではない。
最初にに踊りを教えた養母の言葉がの原点だ。
恋は踊りを豊かにしてくれる。アルスラーンへの恋心はきっとの踊りによい影響をもたらしてくれるだろう。そのためには、恋に溺れてはいけないのだ。
そう。
決して叶わぬ恋に、溺れてはいけない。
「身分違いも何も、その前にただの友人なんだもの」
そもそもの問題に立ち返って、自らを嘲うことで現実を頭に叩き込む。
「ただの自由民の子でも、それどころか同じジプシー同士でも結果は一緒よ」
どれほど恋焦がれても、アルスラーンにとっては単なる昔馴染みだ。その事実を自覚すれば、身分違いにはそれほど深い意味はない。
……ないはずだ。
今度こそ城砦の端にある部屋に帰ろうと廊下を歩いた。すり足に近い足音を立てない歩き方も、染みついてしまった習慣だ。
階段を降りたところで、針が落ちるほどの小さな音を聞いて顔を上げた。
降りたばかりの廊下の先にある裏庭には、誰もいないように見える。
一見すればただの気のせいだ。だがは様々な楽曲を叩き込まれた自分の耳に確固たる自信がある。
そしてその耳が不自然な音を捉えたのに、少しも動くものがないということは、誰かが故意に隠れているということに繋がる。ただの動物ならいい。だけどもし人なら?
は緊張を押し殺して、裏庭に隣接した廊下を歩き始める。
城主に近しい者なら、城主がを王太子に差し出そうとしていることを知ってるが、知らない者にとっては、旅芸人の娘は弄ぶ格好の的だろう。
ホディールはそのような真似を善しとする人物ではない。だがその臣下の全てが同じだということはない。ましてや、末端の兵士になれば。集まる人数が多ければ多いほど、色々な人間がいる。
仕事の宴席に向かう時もだが、今はアルスラーンの元へ侍りに行った帰りだ。武器は何も持ち合わせていない。
もう一度小さな音が聞こえて、唾を飲み込むことを押さえて溜息をついた。そうして、傍らの壁に掛けられていた松明を手に取る。
「……火遊びがしたいなら出てきたら?火傷しても知らないけどね!」
振り返り様、庭に向かって松明をかざした明かりの向こうで影が動いた。
想像よりもかなり俊敏で、素早く廊下に上がってきた影に、は咄嗟に空いている手で肩のストールを剥ぎ取って、相手の視界を覆うように斜め上に一端を放り投げる。
「うわっ」
松明をかざしたなら松明で応戦すると思うだろう。
それがまず最初にストールでの防御兼攻撃だったせいで驚いたらしく、はためいて広がるストールの向こうで相手が小さく悲鳴を上げた。
ところがその声に、今度はの方が驚いて一瞬動きが遅れる。
ストールで視界を上に向け、逆に体勢は限りなく低く落として水面回し蹴りをお見舞いするつもりだったのに、相手はストールを払いながら後ろに飛び下がった。
「きみ……」
声に違わず、ストールが落ちて遠くまで見通せるようになった廊下の先に立っていたのは、とさして変わらない年頃の子供だったのだ。
呆気に取られたに、顔を見られた少年はさっと素早く手を後ろに回した。
「怖い人だなあ。道に迷って困ってただけなのに、急に攻撃してくるんだから」
敵意はないというように手ぶらの両手を出して見せたが、背中に回した時に小さく金属音が聞こえた。抜いていた短剣を鞘に戻したのだ。
「宴席で見た顔だ。王太子様の従者の子だね……」
「王太子殿下じゃない。ナルサス様の従者だ」
そのナルサスは王太子の部下なのだから、より格上に呼んだことになるのに、少年は気に入らないというように訂正する。
が松明を構えたままなので、少年は困ったような表情で恐れて後ろに下がるふりをして、巧みに少しずつ場所を移動する。
埒が明かないとは松明を降ろした。
「道に迷ったって言ってたね。目的地に連れて行ってあげる」
「教えてくれればいいよ。ここからどう帰ればいいの?」
「だから目的地はどこよ」
少年は目を瞬いた。
「だから……」
「部屋に帰るときに迷っただけなら、誰何されても武器は出さないでしょう?」
はっと息を飲んだ少年が後ろに手を回したので、今度はの方が松明を持った手を上に上げた。
「わたしは何にもしない。きみの主は、王太子様にお仕えしてるんでしょう?王太子様のために動いてるなら、何もしない」
腰の後ろに手を回したまま、少年はまだ警戒を解いていないようでとの距離を測っている。
は溜息をついて、周囲を窺った。他に人の気配はない。
「わたしは今までのパルスがいい。盗賊夜盗の類がいても、ルシタニアが攻めてくる前はもっと安全に旅ができた。今までのパルスを取り戻すのに必要なのは……」
それでも、どこに耳があるから判らない。できるだけ、だが少年には聞こえる程度に声を潜めた。
「ホディール様じゃない。王太子様だ」
少年は恐る恐ると構えを解いたが、まだ手は腰の後ろに回ったままだ。
それを知りつつは松明を壁に戻す。
「そう言うなら、どうして殿下の知り合いじゃないふりをしたんだ。面倒だったからじゃないのか?」
「旅の楽士ってきみのこと?」
驚いたの言葉に、少年の方も目を開いた。
「どうしてギーヴ様のことを………お聞きしたのか」
がアルスラーンの友人でありながら、まるで知らないふりをしたと指摘したのはギーヴだ。
それを知っているのは部屋にいた五人だけで、あの中でこの少女と接触した可能性があるのは、アルスラーンだけになる。
たった一言の切り返しで気付いた少年に、は微笑んだ。
頭の回転の速い子だ。
ようやく少年から目を離して廊下に落ちていたストールを拾う。
「きみは自由民の子?それとも騎士階級の子かな?わたしは旅芸人。ねえ、王太子様がそんな者と親しく口を利いたら、きみは不愉快じゃない?」
既にのことを知っているなら、下手に嘘をつくよりは説得力があるだろう。
ストールを身体に巻きつけながら苦笑するに、少年はようやく短剣から手を離した。
「……殿下のため?」
「大切な友人だったから」
「……『だった』?」
「だって王太子様なんでしょ?」
もう決して友人などと名乗れないとが苦笑すると、少年は一歩ずつ警戒しながら近付いてきて、のすぐ前に立った。
じっと真っ直ぐに、目を見つめて見上げてくる。
「本当に、殿下が大切なんだな?」
「パルスが、エクバターナが好きなのは、あの方のお陰」
少年はそれでも少しの間迷い、空を見上げて月の位置を見て心を決めた。
「あまり時間がない。弓箭隊の詰め所にはどう行けばいい?どの道が見つかりにくいだろう」
「弓箭隊……」
どうしてそんなところに行く必要があるのか、そして時間がないとはどういう意味か。
不吉な予感には眉を下げた。
「王太子様が危険なの?」
「そうならないためにナルサス様が手を打っていらっしゃるんだ」
「……わかった。こっちよ」
先に立って歩き出したに、少年は驚いたように後を追ってくる。
「道を教えてくれればいいよ。足手まといだ」
「この城の弓兵が何人いるか知ってるの?」
「だけど……」
は頑として譲らず、少年を引き連れて庭に降りて歩き出す。
「弓に細工を施すつもりなら、たった一人でやるのは大変だよ」
植え込みと植え込みの間を通り抜ける時もストールを少しも引っ掛けることなく、歩く速度も落ちることはない。
廊下から明かりは届くが、少年はの夜目の利き具合に驚いた。
「……身のこなしがただの踊り子じゃないな……」
小さく口の中で呟いただけのつもりだったのに、は笑って答える。
「そりゃそうよ!わたしは父さんとずっと二人きりで旅を続けてるんだから、ただ踊れるだけじゃ、夜盗の餌食だよ。キャラバンに寄せてもらうこともあるけれど、それに頼っていると旅の自由が利かなくなる。鞭と投げナイフはそれなりの腕があるんだから」
飛び上がった少年に、声を立てて笑って振り返った。
「あのね、わたしは踊るだけじゃなくて笛も竪琴も琵琶も、大体の楽器を扱うの。小さな音も、ほんの少しの雑音も、聞き分けるのは得意だよ」
「迂闊なことも言えやしない」
手で口を塞いだ少年に、にっこり笑って再び歩き出した。
「そうだね、口に出したら聞こえるよ」
建物の端までついて回りこむと、庭園の端に小屋が見えた。
「あそこが弓箭隊の詰め所。明かりも漏れてない。きっと誰もいない」
「本当に……」
「……少しでも、力になりたいの」
一歩踏み出したは思い出したように振り返る。
「きみ、名前は?」
「……エラム」
「そう……わたしはだよ。エラム、どうか王太子様のお力になってあげてね」
エラムの返事を聞く前に、は詰め所に向かって歩き出した。
アルスラーンはたった五人だけを従えてこの城にやってきた。
そしてようやく入ったこの城の城主が油断ならないのだとしたら、結局信用に足るのはまだ五人しかいないことになる。
「……解放奴隷の子なんだ」
「え?」
「騎士階級でも、自由民でもない。解放奴隷の子だ。それなのに、殿下を頼むのか?」
「ああ、そうなんだ」
眉をひそめるかと思ったら、があっさりと頷いたので驚いた。
自分はジプシーだからと王太子に近付こうとしないのに、解放奴隷の子が王子の近くに仕えていても、気にしないのだろうか。
「解放奴隷は気にしないのか?自分はどうなんだよ」
「だって、友人と臣下じゃ違う。横に並ぶんじゃなくて、後ろに控えて跪くのなら、眉をひそめる人はぐっと減るよ。別にいいんじゃない?」
「……変な奴」
「失礼な子だなあ」
はふと笑みを収めて俯いた。
自分で言った言葉に、心が揺れたのだ。
臣下と割り切れば、側にいることも許されるのだろうか。
「馬鹿馬鹿しい……」
がそう願ったとしても、自分が王子の臣下になるために必要なだけの実力を持ち合わせているとは思えなかった。







エラムと一緒に弓箭隊の詰め所に。
そろそろカシャーン城砦から抜けられそうです。


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