4. 王太子と知己であることが負担になるとは、ナルサスに指摘されるまで考えもしなかった。 軍師として招いた大切な臣下の窘めを受けて、アルスラーンは部屋に戻る道すがら廊下で軽く自嘲を込めた息を吐く。 ただ懐かしかっただけで、ただ嬉しかっただけだ。 だけどそれは、相手にとっても同じだとは限らない。 嘘をついたわけではなかったが、はアルスラーンのことを自由民の子供だと思い込んでいたはずだ。実際には預けられた先も、自由民ではなく騎士階級の家であったのだが。 どちらにしても、子供の頃に街角で転げ回って遊んだ友人が、実はこの国の王太子だったなどと突然知って、困らないわけがないと気付くべきだった。 「どうして私はこうなんだろう……」 溜息を吐きながらアルスラーンのために用意された部屋の扉を開けて、人の気配に顔を上げる。城内で狼藉者もないだろう。寝台を整えに来た侍女だろうかと居間を横切り寝所へと移動して、驚きで足が止まった。 寝台の横に膝をつき、頭を垂れている少女がいる。 膝のすぐ前に揃えた指をつき、深々と頭を下げているので顔は見えないが、それが誰だかアルスラーンにもすぐにわかった。 「、どうして」 「殿下のご寝所の支度を整えに参りました」 彼女が城砦の侍女ならそれは当然の仕事だが、は旅の芸人だとホディールも言っていた。なのにどうして端女の仕事をがしているのだろう。 そろりと上げた顔には目元と唇にほんのりと赤い紅を差しているだけの薄化粧が施され、踊りに鍛えられた肢体を包む白い紗は、広間での舞踏衣装ほどの露出してはいないがうっすらと肌の色が透けて見える。 とてもではないが端女仕事をする服装ではなく、ようやく彼女がここにいる意図を察したアルスラーンはさっと顔を赤らめて視線を逸らした。 「は命じられればそういうこともするのか?」 幼い頃の思い出を共有した相手だったからこそ、強く負の感情を刺激される。 懐かしい思い出は、それだけに淡く優しいものだった。こんな即物的な……打算めいた生々しいものではない。 「……ご不快な所業でございましたか。申し訳ございません」 小さく息を飲む声が聞こえて、弱々しい声は僅かに震えてさえいる。 自分の態度が強硬で厳しいものだったと慌てて床に頭を垂れる少女を見ると、彼女はもう一度深々と頭を下げてから俯いたまま立ち上がった。 「ご寝所にまで失礼致しました。どうぞごゆるりと身体をお休め下さい」 「!」 そのまま脇を抜けて部屋を出ようとした少女の手を掴んで引き止める。 「すまない、あんな言い方をするつもりではなかった。ただ懐かしくて……は私の大切な友達だから、こんなことをさせたくなった」 俯いた横顔に、はっと驚いた表情が浮かんだ。 「、私の仲間には旅の楽士がいる。彼が言っていた。パルスを往く旅の芸人がエクバターナを訪れたことがないなど、ありえないと」 「……申し訳、ありません……」 「違う、責めているわけではないんだ。ナルサスに……私の軍師に怒られた。私の友であることをホディールに知られれば、は何を命じられるかわからないと。考えなしだったのは私の方だ。……現に、こんなことをさせられて……」 「いいえ!……いいえ、違います。主はわたしを殿下の知己と知り命じたのではなく……殿下の覚えがめでたいように見えたようで……殿下にはさぞご不快な所業でありましたでしょう。申し訳ありませんでした」 少女は逃げ帰ろうとしたのか、掴まれた手を振り払おうとする。 「待って、違う。怒っているわけではないんだ。お願いだ、。そんな寂しいことを言わないでほしい。私の大切な友達なのに……昔のようにアルと呼んで欲しいんだ」 「できません」 「どうして。私はと……」 「できません!王太子殿下の幼き頃の遊び相手にジプシーの娘がいたなどと、不愉快に思う諸侯もいます!絶対にできませんっ」 悲鳴のように紡がれた言葉に、驚いてつい手を離してしまった。 は弾かれたように寝所から飛び出す。 「待って!」 居間を抜けてそのまま廊下へ飛び出そうとした寸前に、の細い腕を捕まえる。 「私を知らない振りをしたのは、私のためだったのか」 扉に向かったままアルスラーンには背を向けて、少女は小さく首を振った。 ナルサスの考えは、半分は当たっていたのだ。 王子と知己であることが、ためにならないからとついた嘘だと。 ただそれは、本人のためではなく、アルスラーンのために。 まだ首を振って否定するの俯いた横顔に、掴んだ腕を強く引いて逃げられないように少女の小さな身体を腕の中に抱き締める。 息を飲み、硬直した身体を少しでも宥めようと背中を軽く掌で叩いた。 「どうか聞いて。私は私の友を蔑むような者なら、味方になってほしいとは思わない。街角のジプシーのはとても優しくて強い少女だった。街角のアルは弱くて泣き虫な少年だった。私にはあの日々は得がたく、とても大切な日々だったのだと、どうかわかってほしい。……せっかくもう一度会えたのに、そんな悲しい顔のままで帰らないで。ここには、ホディールも、その他の誰もいない」 戦慄く少女の手が、アルスラーンの服の裾を握り締める。 「…………ア……ル……」 「!」 思わず強く抱き締めてしまって、小さな悲鳴が聞こえて慌てて手を離した。 「すまない、とても嬉しくてつい……」 解放した少女は、もう逃げ出したりせずに俯いたまま震えていて、アルスラーンは指先でそっとその頬を伝う滴を拭う。 「泣かないで。もう一度会えたんだ。どうか、笑って」 は降ろした手で子供のように服の裾を握り締め、ゆっくりと顔を上げた。 頬を伝い落ちる滴はそのままに、だが確かに嬉しそうに少女はにこりと微笑む。 「まるであの頃と反対だ。いつも私を慰めて涙を拭ってくれたのはだったのに。嬉しいな、私があの頃から成長したという証のようだ」 アルスラーンも同じように微笑んで、もう一度の涙を拭った。 「会いたかった」 「わたしも」 は震える声で、頬の涙を拭ったアルスラーンの手を両手で握り締める。 「ずっと会いたかったの………」 震える声と、零れ落ちる涙の複雑な感情の本当の意味を、アルスラーンは知らない。 「その格好では寒いだろう?」 薄い紗を纏うだけのに、アルスラーンは今更ながら赤面する思いでその肩に自分の上着をかけた。 「大丈夫よ、踊りで薄い衣装には慣れてるの」 「でも今は踊っていないから、身体が冷えてしまう」 返された上着をもう一度肩に掛けようとすると、は一度寝所に戻って厚手のストールを持って戻ってくる。 「忘れていくところだったけど、これを掛けてきたの。この格好でさすがに廊下は歩けないもの」 大きな一枚布で身体を包むと、僅かに肌の色が透けて見えた身体の殆どが隠れてしまい、アルスラーンはほっと息をつく。 「それならいいんだ」 言われてみれば確かに廊下を歩くにはあまりにも刺激的な姿だ。少なくともアルスラーンにとっては。 もしもあのままを捕まえられずに逃がしてしまっていたら、あの格好のままで廊下を走り、城砦内の兵士たちがその姿を見たのだろうと思うと、むっと不快な気持ちが湧き上がる。 もうそんな格好をしてはいけないと言いそうになって、それはあまりにも勝手な押し付けだと口を噤んだ。 彼女には彼女の考えや立場があり、そんなことまで友人が口出しするものではない。 ふとよぎった考えに、アルスラーンは慌てて首を振ってそれを打ち払う。 彼女はこんな仕事をさせられたことが、今までにもあったのだろうかという疑問が浮かんだのだ。 はまだ十四歳だ。同時に、もう十四歳でもある。踊りには健康的な溌剌とした魅力に溢れていたが、優美な振りも確かにあった。 ギーヴに言わせればいま一歩、色気に欠ける舞いであっても、幼い頃を知っているアルスラーンにとってはその変貌だけでも充分な刺激である。 かっと赤面したアルスラーンに気付いてはしなやかな腕でその背中を寝所に向かって押した。 「顔が赤いわ。疲れが出たのかもしれない。もう休んだ方がいいと思うの」 「そ……そうではないのだけど……」 だからといって、今考えてしまったことを説明することもできない。幼馴染みの少女に色香を感じたことに、酷く自己嫌悪する。 「でも、せっかくと会えたのに」 「アルはもうこのお城にいるのでしょう?宴席があれば、また会えるから」 そう諭されて、ナルサスに旅装を解くなと言われたことを思い出す。ナルサスはホディールがことを起こすと言ったが、それがそのままこの城砦から出て行くことだとは言わなかった。 けれど。 「」 アルスラーンは幼馴染みの少女の手を握り締め、まっすぐにその漆黒の瞳を覗き込む。 「今このパルスは情勢が不安定だ。ルシタニアの軍勢が国土を荒らしている」 唐突な切り出しに驚いたは、だがアルスラーンの真摯な様子に、表情を引き締めて頷いた。 「ええ……アルは……ルシタニアと、戦うの……?」 「国土を奪還しなくてはいけない。父上と母上も虜囚となったままだ。だがパルスの屈強な兵はまだ国境やこの城砦のようにあちこちに点在している。私は彼らを纏め上げてルシタニアの横暴と戦うつもりだ。だからこの国は今しばらくは戦場になる。私はには安全な場所にいて欲しいと思っている」 「どうしても戦わなくてはならないの?アルが危ないことをするのは、わたしも嫌だよ」 今にも泣き出しそうな表情で訴えるに、ゆっくりと首を振った。 「私はこの国の王太子だから、責任があるんだ。父上と母上もお救いしなければならない。だけど、必ず成し遂げて見せるつもりだ。だからは、ルシタニアの軍勢がこのパルスから逃げ出して、戦場がなくなったらまたエクバターナに来て欲しい」 「え……」 「私が戦場に出れば、とはまた離れ離れになってしまうからね。だからきっと来て欲しい。また会いたいから。エクバターナの街角からあの笛の音が聞こえたら、私は必ずに会いに行く。だから君も、きっと平和になったエクバターナに来て」 まっすぐにその瞳を見詰めると、は俯きそっと息を吐いて頷いた。 「……ダリューン様は、頼りになる方なの……?」 俯いて床を見たままの呟くような唐突な問いに、今度はアルスラーンが驚いて目を瞬く。 「もちろんだ。ダリューンはあのアトロパテネの野の敗戦から私を守り抜いてくれた。それに素晴らしい知略を貸してくれるナルサスもいる。二人ともなくてはならない大切な仲間だよ。彼らがいてくれれば、きっとルシタニアにだって勝てる。だから心配は……」 「では、城主様に気をつけて」 「……?」 アルスラーンの両の二の腕を掴み、俯いたままは早口に告げる。 「城主様に気をつけて。悪い方ではないけれど、ダリューン様やナルサス様をよくは思っていらっしゃらない。アルとお二人を引き離そうとするかもしれない」 「……わかった、気をつける」 アルスラーンはが離した両腕で、もう一度その細い身体を抱き締めた。 にとって、ホディールは現在の雇い主だ。 をアルスラーンの寝所に侍らせようとするような……そんな依頼をする雇い主だが、彼女は悪い方ではないと言ったのだ。それでも雇い主に対する裏切りかもしれないような忠告をしてくれた。 それは彼女が仕事に対して不誠実なのではなく、友情に厚いからこそだろう。 だから顔を上げられないのだ。 友人を大切にしたくて、だが雇い主に対する裏切りでもあるから。 「ありがとう……」 抱き締めた少女は、小さく頷いただけで抱き返してはくれなかった。 |
彼にとっては旧友との友情の再確認。 彼女にとっては、恋心を抱く少年の力に少しでもなりたい一心。 認識のズレはあるものの、どちらも相手を大切にしたいわけですが…。 |