3.




短い宴席の時間、確かには幸福だった。
大好きだった、初恋の少年の側に。
優しかった少年は、その心の根のまま成長して目の前にいるのだ。もう過去の話だと思っていたのに、それでも側にあれることがこんなにも嬉しい。
このとき、この瞬間を覚えておこう。
ほんの少しの間なら、こうして何度か側に上がることができるかもしれない。
だが所詮、それも一時の夢だ。
王太子だとわかった少年に、かつてのように何の隔たりもなく側に寄り添うことなど、できはしない。
それは幸福と、そして悲しみの時間でもあった。


城砦にいる間に滞在することを許された部屋に戻ると、は力尽きたように床に膝をついた。
溢れそうになる涙が、果たして喜びによるものか、悲しみによるものか、自分でもわからなかった。
覚えていてくれたことが嬉しい。
嘘をついたことが苦しい。
そして、決して結ばれることがないと知ったことが、悲しい。
隣に城主がいなければ、きっと名前さえも偽っていただろう。
や」
楽器をそれぞれの布で包んで仕舞い、懐に入れていたのヴェールを畳んで衣装袋に入れると、養父が溜め息をついた。
「明日、この城砦をお暇しようか」
息を飲んで顔を上げたに、養父は苦い薬を飲んだかのように眉を寄せる。
「ホディール様は気前もよく、金離れがいいよい雇い主だった。だがわしは、お前が苦しむ姿を見たくはないんだよ」
「父さん!でも、でもわたし……」
「お前のアルは、もうどこにもいないんだ。忘れてしまいなさい……それとも」
つと脂肪にたるんだ顎をひと撫でした養父は、感心しない表情で義娘を見た。
「妾の座を狙うというのなら、話は別だが」
「そんな!」
そんなこと、考えてもいないと言い切ることはできなかった。たとえ側女としてでも、アルの傍にいることができるのなら。
そうしたら。
は緩く首を振る。
「無理だよ。アルは……王太子殿下は、そういうことをお考えになるような方じゃないもの。きっと、お妃様を娶られたら、その人だけを愛するような人だよ」
「今はまだ若い……というより子供だ。これから先はわからんよ」
「だって変わってなかったもの!」
はもう何も聞きたくないという様に、両手で耳を塞いで床にうずくまって首を振る。
「アルは変わってなかった!街角のを今でも覚えていて、ジプシーに親しく声を掛けようとしてくれる人のままだったよ!」
だからきっと、例え妃が政略結婚をした相手でも、蔑ろにはしないだろう。
床にうずくまるの背中を見て、養父は溜め息をつくと首を振った。
「もう今夜は眠ってしまいなさい。今のお前に何か考えることは酷だろう?」
背中を叩いてそう言うと、しばらくうずくまって嗚咽を堪えていたは、のろのろと立ち上がり、踊り子の衣装を脱ぎ始める。
楽な夜着に着替え、汲み置きしてある水で身体を拭いて汗を流したら眠ってしまおうという考えは、次の瞬間にやってきた訪問者によって遮られてしまった。


ホディールに用意された部屋で剣を磨きながら、ダリューンはいささか不機嫌だった。
護るべき王子と、部屋を隔てられてしまったからだ。
王太子が一人で部屋を使うのは当然として、その部屋の前で毛布を敷いて剣を抱き番をするつもりだったのに、城主によってそれを拒否された。
用意された部屋もアルスラーンの部屋とは離れている。
男四人は一室に、女性のファランギースはその隣に。
「落ち着けダリューン。同じ部屋でそう苛立たれては、こちらまで気が散る」
ナルサスが軽く肩を竦めると、黙々と剣の手入れをしていたダリューンが顔を上げる。
「苛立ってなどいない」
「苛立ってるだろうに」
窓枠に腰掛けたギーヴが笑いを堪えて軽く茶化すと、ダリューンはむっと黙り込み手入れの終わった剣を鞘に仕舞った。
「ホディールは娘を王妃にして、外戚として権力を握りたいのだろう。騎兵三千、歩兵三万五千の戦力は、できることなら手中に収めておきたかったが。……むこうがこちらを敵に回すつもりなら、穏当なことも言ってられんか……」
ノックの音に、考え込んでいたナルサスが口を閉ざす。エラムが短剣に手を掛けながら扉を開けると、立っていたのはアルスラーンだった。甲冑を脱いだだけの、宴席のときと同じ格好だ。
宴よりずっと信頼できる部下達と離されていたため、相談できなかったこと話に来たのだ。
「ホディールは二つの条件を出してきた。一つは奴隷を解放するというパルスの伝統を打ち壊す過激な改革を慎むこと……もう一つは、彼の娘を将来の王妃にすることだ」
二つ目の条件を言うときに、僅かにアルスラーンの表情に陰りが見えてギーヴは窓枠から足を下ろした。
「ホディールは何を考えているのだろう。すべてはまず軍勢を集めてルシタニア軍を撃退し、父上と母上を救い出してからのことだ。改革などはその先の話ではないか。それに、私はまだホディールの娘とやらに会ったこともないのに」
ダリューンとナルサスは、若い王子の言葉に苦笑の視線を交わした。
宴席でのアルスラーンの視線を見ていたギーヴは、膝に肘をついて頬杖をつく。
「では殿下は、会えば妃にすることもお考えで?」
「ギーヴ」
ダリューンが咳払いで嗜めて、言葉に詰まったアルスラーンをナルサスが苦笑で宥めた。
「それで殿下、なんとお答えになられたのです?」
「すぐには決められない。明日には返事をすると」
「結構です。どうやらホディールは堪え性がないらしい。今夜にも事を起こすでしょう。殿下もお疲れでしょうが、いつでもこの城砦を発てる準備を整えておいてください」
「わかった」
頷いて部屋を辞去しようと腰を浮かしたアルスラーンを、ギーヴが呼び止める。
「ところで殿下、あの踊り子の娘のことをご存知なのですか?」
ダリューンとナルサスとエラムは怪訝そうに旅の楽士を見たが、アルスラーンだけは驚いたように目を見開いて質問者を凝視した。
「……どうして、そう思う?」
「あの娘の顔を見たとき、玉杯を取り落とされたでしょう?」
今度は部屋の全員の視線が向いて、アルスラーンは軽く息を吐いた。
「知り合いだと思ったんだ。……だが、違うと言われた。今までエクバターナには行ったこともないと。私はエクバターナから出たことはほとんどないから、別人なんだろうな。髪も瞳の同じ色で、名前まで一緒だったのに……」
「エクバターナに行ったことがない?」
ギーヴは目を細めて顎を撫でた。
「それは殿下、娘は嘘をついておりますな」
「え、どうして?」
「パルスを往く旅芸人がエクバターナを訪れたことがないなど、ありえない。あの娘の踊りは十分に鍛えられたものです。まだ子供だが相当旅慣れていることでしょう。その上で未だにエクバターナを訪れていないと言ったのなら、間違いなくそれは嘘だ」
「どうしてそんな嘘を……」
質問でなく自問するように呟いたアルスラーンに、ギーヴは軽く肩を竦める。
「会った可能性を完全に否定したということは、逆に会ったことがあるからでしょう」
「……では」
やはり、アルスラーンの知るに違いないということになる。
「殿下、嘘をつく者には二種類の人種がいると覚えておいてください。意味のない嘘もつく者と、意味のある嘘しかつかない者です」
ナルサスが人差し指と中指を立てて、まず人差し指を摘む。
「意味のない嘘もつく者の言葉のすべてを真面目に取り合うと、ただ混乱するだけで無駄なことです。意味のない嘘には目的などないからです」
今度は中指の先を摘んだ。
「そして意味のある嘘をつく者。この者の嘘は、ことによっては分析する価値があります。嘘を暴けば、その目的をも測ることができるからです。今回の件では、殿下の知己の振りをする価値はあります。ですが知己でありながらそうでない振りをして、あの娘に儲けがあるとは思えません」
「では、意味のない嘘だと?」
それではただ嘘をつく性癖があるというのだろうか。アルスラーンの知るは、決してそんなことをする娘ではない。
幼い頃の王都の街中で過ごした日々の中で、共に過ごした友人は何人もいた。だが彼女ほど鮮明にアルスラーンの中で焼きついた者は、他にはいない。
誰よりも明るく、誰よりも利発で、そして誰よりもアルスラーンの孤独を理解してくれた。
アルスラーンを育ててくれた乳母夫婦は、王の子をぞんざいに扱うことなど決してなかったが、その則を越えることもなかった。アルスラーンは両親の暖かさというものを知らない。
共に学んだ騎士階級の子や時に遊んだ自由民の子らは両親の元で育っていたし、彼女のようなジプシーの子供たちは親のいない生活を苦にはしていなかった。生活することが先に立ち、それどころではなかったのかもしれない。
その点だけで言えば彼女も同じだった。本当の親はなく、まだ六歳だというのにジプシー の養父母の下で色々な楽曲を既に習得していた。
アルスラーンの心の動きにとても敏感だったのは彼女だけだ。
街角で遊んでいて友達との別れの時間が迫り、寂しさを覚えたアルスラーンの手を握って家まで送ってくれた。
寂しい夜、街頭から聞えてきた笛の音が彼女のものであることを、それまでに何度も演奏 を聞かせてもらったことのあるアルスラーンは聞き間違えたりしなかった。
彼女がエクバターナにいる間だけは、孤独を忘れることができたのだ。
だがそれも彼女が七歳になろうかとする頃、養父母を失い次の養父とふたりで旅に出てしまったことで終わりを告げた……。
「儲けはありません。ですが、別の意味なら可能性はあります」
懐かしい日々を追想していたアルスラーンは、臣下の話が続いていることに、はっと意識を浮上させる。
「別の意味?」
「判断の材料が少ないので、もしかするとまったく別の理由かもしれません。今の段階で私が思いつくことといえば……やっかいごとに巻き込まれたくないという意味です」
「ナルサス!」
ダリューンが鋭く名を呼んで立ち上がったが、ナルサスはまるで取り合おうとしない。
「よろしいですか、あの娘はホディールに雇われている身です。もし殿下と知己ということがわかり、城主に何事が命じられれば拒むことは難しいでしょう。そういった面倒な事態にならぬよう、予め嘘をついたという可能性なら、あります」
「いい加減しろ、ナルサス!」
「いや、よくわかった。確かに私が軽率だった」
アルスラーンはダリューンを制し、歳に似合わない苦い笑みを見せる。
「どうも私は自分の立場というものをまだ十分に理解していないときがあるようだ。ナルサス、これからも気付いたことがあれば教えて欲しい。ダリューンも、気遣いは無用だ」
「殿下……」
困ったように眉を下げたダリューンの横で、ナルサスは満足を覚えて頷いた。
聞きたくないような直言でも、こうして素直に聞き入れる度量を持つ限り、まだ歳若いこの主が成長していくことは間違いないだろう。
アルスラーンが今度こそ部屋を出て行くと、ナルサスは何事か言いた気な友人を完全に無視して、侍童の少年を呼び寄せた。
「お前は今からこの部屋の周りを探ってくるのだ。恐らくなにか我等を陥れるための仕掛けがあるだろう。それから、弓箭隊の詰め所に忍び込み弓の弦をすべて切断しておくのだ」
「わかりました」
身軽な少年は、開けた窓から日の落ちた闇に溶け込むように、部屋を後にした。


に王太子殿下のご機嫌伺いをさせたいのだ」
雇い主から呼び出しを受けて城主の部屋を訪れたと養父は、思いもよらない話に絶句した。
「お待ちください。娘は踊りと音楽だけを売り物にしていると、初めにホディール様もご承知くださったではありませんか」
慌てて前のめりになる初老の男に、ホディールも少しばつが悪いようで視線を逸らしながら顎鬚をしごいた。
「殿下がをお気に召しておられるのは明らかだろう。もし殿下の覚えめでたくなれば、おぬしたちにとっても悪い話ではあるまい」
「お話が違います!」
顔を真っ赤に染めて怒りに唇を振わせる男の剣幕に、ホディールは青褪めるだけで口を開かない娘に相手を変える。
「そなたはどうだ、。なに、ご機嫌伺いと言っても、殿下もこの城砦にお着きになられたばかりだ。すぐに夜伽をお命じなるとは限らんだろう、ん?」
「で、ですが」
まっすぐに睨みつけてくる男とは違い、床に視線を落とした少女の心が揺れていることを察してホディールは猫なで声で誘惑を囁く。
「そなたさえ上手くやれば、ゆくゆくは王の側室になれるやもしれんのだぞ?上等な絹の服を着て、飢える心配もなく良いものを食べて、優雅に暮らすこともできるかもしれんのだ」
そんなことはどうでもいい。
絹の上等な服でなくとも、纏う布があればそれでいい。
良いものでなくていいから、食うに困らぬ程度に稼げれば不満もない。
踊りも音楽も好きだ。流れて生きることに、時に苦痛を覚えることはあっても、己の境遇を酷く悲観したこともない。
そんなものは、すべて必要ない。
ただ、あの少年の側にいることができる可能性だけが、の心を強く揺さぶる。
「……殿下は、恐らくわたしごとき者に触れることもないだろうと思います」
「まだ若いのう。そなたのような者だからこそ、重くとらえず戯れることができるのだ」
恐らくまるで意識してないまま、義娘を蔑む発言をした城主に、思わず拳を握り締めた。
その養父に気付いて、は握った拳が見えないようにわずかに身体の位置をずらして恭しく頭を下げる。
「わたしで勤まることなのでしたら」
!」
「そうかそうか、引き受けてくれるか。上手くゆけば私からも礼をはずむ。よいな、殿下にこのホディールとカシャーン城砦が信頼たるものだと信じていただけるよう振舞うのだぞ。それから、私の娘をよく誉めてお伝えするように」
伽を命じておいて、他の女を誉めちぎれというのか。
怒りを燃え上がらせる養父に、は身体で後ろに押して抑えるようにと示す。
王太子の元に訪れる準備をするために、養父を後ろから押して部屋を辞去しようとしたの耳にホディールの呟きが聞こえた。
「あのナルサスやダリューンなどと言った忠義面した不逞の輩から殿下をお守りせねばならんからな……これで私もゆくゆくは宰相にだって……」
不吉な呟きに聞こえて、扉を閉めながら胸騒ぎを覚えた。







もう縁もなくなると思っていたのに、意外なことを命じられました。
ですが相手はあの王太子殿下ですから……。


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