2. 「父さん、従者っていうのは宴席に出るものかな」 「そりゃお前、出る従者と出れない従者がいるだろうね。身分が高くなくとも、酌をするために侍る従者もいるよ。そんなことはお前もよくわかっているだろう」 「……わかってるけど」 薄いヴェールを僅かに押し上げながら、は先の広間へ続く扉を憂鬱に見た。 アルに会えるかもしれないという期待と、会いたくないという思いと、そのくせ期待してしまう自分に対する嫌悪と、色々と交じり合った複雑な感情を持て余す。 成長したアルをこの目で見たい。 でも、もしもアルがに気付いてくれなければ悲しい。 気付かれない方がいい。王族に仕えるアルとたかが踊り子のでは、あまりにも身分が違いすぎる。 いっそ、養父が言ったように身分を鼻にかける、ジプシーを卑しむような、嫌な奴になっていれば、初恋の思い出は壊れても、身分違いにつらい思いをしなくていいのに。 「」 竪琴を抱えた養父が眉をひそめて振り返っていて、は慌ててヴェールを元に戻して顔を隠した。 「余興の時間だ。心の整理はつけたんだろうね。忘れてはいけないよ。我々は王太子殿下を歓待するための一役を預けていただいたのだから、お前の失敗は城主様の恥となるよ。気を引き締めなさい」 「はい」 は目を閉じて、一度大きく息を吸った。 一国の王の前で踊ったときだって、こんなに緊張したりはしなかったのに。 「………大丈夫。もう、終わったことだ」 言い聞かせるように呟きながら大きく開いた胸元に手を当てて、ゆっくりと目を開けた。 「やれやれ……よく動く舌だ……」 王太子に酌をしたり持て余すほどの料理を勧めながら、ひたすら王太子への賛辞やら援軍に駆けつけられなかった言い訳を繰り返すホディールに、赤紫色の髪の青年が呆れたように呟いて葡萄酒の玉杯を傾ける。 呆れながらも、同時に城主のお喋りに困惑する王太子を、やや面白がっていた。 アトロパテネの敗戦から、王太子に現在までつき従っていたのはたったの五人しかない。 万騎長のダリューンに、元ダイラムの領主ナルサス、その従者エラム、ミスラ神殿の女神官のファランギース、そして旅の楽士ギーヴ。 立派な城砦と兵を手にしていながら動けなかったなどと、笑い話にもならない。 「なるほど、ギーヴは同属が嫌いと見える。自らを省みるいい機会だろうにな」 水のように葡萄酒を飲み干す美貌の女神官の言葉にも、悪びれもせずに軽く肩をすくめるだけだ。 「それは誤解だ、ファランギース殿。俺の舌がよく動くのは、ファランギース殿のような絶世の美女を褒め称えるためのもの。いくら言葉を尽くしても、ファランギース殿を称える言葉は尽きぬゆえ……」 「当然じゃ」 市井の娘なら頬を染めて俯いてしまいそうな美貌の青年からの褒め言葉にも、まったく動じることなく肯定を与えると白く細い指を果実に伸ばす。 押しても軽く流してしまう美女を相手に、懲りずに声を掛けながら甲斐甲斐しく空になった玉杯に葡萄酒を注いでいるギーヴに、褐色の肌の少年は自分の主人の玉杯に酒を注ぎながら苦笑した。 「本当に、ファランギース様の仰るとおりですよね、ナルサス様」 「いいかエラム。人は自らの欠点すら、ときには美点に見えるものだ。美点を不当に真似されたと感じれば面白くもなかろう」 「なるほど、欠点が美点にな……」 隣で肉を咀嚼していたはずの黒髪の友人の呟きに、ナルサスは僅かに眉を上げる。 「なにか言いたいことでもあるのか、ダリューン」 「俺に言いたいことがあると思ったのは、何か心当たりがあるからか、ナルサス?」 目を細めて押し黙った主人に遠慮しながら、エラムはどうにか笑いをかみ殺した。 歓談の邪魔にならない程度の音量で流れていた音楽が終わる。次の曲が始まるだろうと思っていたエラムは、城主が手を叩いて開いた扉に目を動かした。 広間の入り口には、小太りの男と小柄な少女が立っている。少女はヴェールを被り俯いているので顔は見えないが、その衣装はなかなかに挑発的だった。 白い薄布は大きく胸元が開き、布の部分も僅かに肌の色が透けて見える。垂らした布は横が太腿まで大きく開いており、歩くたびにカモシカのような細い足が素肌をさらした。 靴は履かず、歩調に合わせて右足首の玉環についた小さな鈴が音を立てる。 広間の中央までくると、男と少女がそっと膝を折って頭を垂れた。 「現在、このカシャーン城砦で雇っている楽士です。旅の者ですが、なかなかに見ごたえのある踊りをいたしましてな。少しでも殿下の余興になれば幸いです。これ、始めよ」 中年の男が脇に下がり竪琴を構えると、ギーヴはやや興を覚えたように傾けていた玉杯を止めた。 同じく旅の楽士として、地方とはいえ城内に呼ばれるほどの腕前とやらはどれほどのものだろうかと思ったのだ。 残念ながら、踊り子の少女はまだギーヴの食指が動くには若すぎるようなので、少女の踊りに対する評価も客観的にできる自信がある。 「うーむ、あと少し育っていれば、あの衣装はもっと見栄えがするのだが……」 少女がそっとヴェールを上げて、伏せていた視線をまっすぐに王太子に向けた瞬間。 ガシャンと音を立てて、王太子が玉杯を取り落とした。 その場の全員の目が上座の主に向き、小さく聞こえた鈴の音に少女に目を戻したのはギーヴと竪琴を構えた男だけだった。 後の人間は、王太子の従者もカシャーン城砦の者も、果糖水の玉杯を取り落とした態勢のままで晴れ渡った夜空の色のような瞳を見開く王太子を見る。 「おお、殿下。お怪我はございませんか」 「あ、ああ、いや、すまないホディール。大丈夫だ……」 幸い取り落とした玉杯はすぐ下に寄せられていた果実の皿に落ちて中身を零したので、片付けるのは容易だった。 侍女が皿を下げて新しい玉杯に紅茶を用意すると、ホディールはもう一度楽士たちに芸を始めるように申し渡す。 改めて一礼をしてヴェールを取り去った少女の表情は、既に落ち着いたものだった。 歳若くありながら、一国の王太子を前にして、度胸はあるらしいと王太子の従者たちはまずその点に感心する。 王太子と初めて目を合わせたときに蒼白になった少女を見ていたのは、ギーヴと少女の旅の連れである男と、そしてじっと少女を見続けた王太子、アルスラーンだけであった。 男が爪弾いて竪琴が音を奏で始めると、少女はヴェールを掴んだ手をさっと振り上げた。 手の動きに合わせて薄い布が弧を描き、布の先に視線を合わせていた少女の白い喉が反ってさらされる。ゆっくりと立ち上がりながらヴェールの薄布を翻し、つま先を軽く丸めた足を前へと高く掲げた。鈴が鋭い音を鳴らす。 ヒラヒラと舞う白い薄布と、指先からつま先まで統制の取れた身のこなしは、少女の年齢に反して確かにかなりの実力を思わせた。 目の肥えたダリューンやナルサスですら、ホディールが自信を持って王太子の余興にと演じさせたことに納得する。 妖艶というには程遠いが、少女期特有の健康的な色気を充分に引き出すように、四肢が激しく空を裂き、時に優美に地を這う。 ギーヴには加えて、竪琴の音もつい張り合いたくなるくらいに耳に心地良いのものだった。 そうして、ちらりと上座のアルスラーンを横目で確認すると、紅茶の入った玉杯を手にしたまま、瞬きもせずにじっと少女の踊りを見物している。 否、踊る少女を見詰めていた。 葡萄を一房手に取りながら、ギーヴは興味本位で王太子と少女を見比べた。 あれほど動揺していたのに、踊りに影響を与えない少女もなかなかのものだが、一体あの少し風変わりな王子様とはどういう関係なのだろう。 うさん臭いと見てもいいはずの、身元もはっきりしない旅の楽士であるギーヴを大切な仲間だと言ってのける、その風変わりながところが気に入ってるのだが、ジプシーの少女と何か関わりがありそうとはますます面白い。 彼女が王宮に呼ばれたことがあるというのは、まずないだろう。奇遇を驚くにしては大袈裟だし、第一それならあの気さくな王太子は、きっと一言二言、声をかけているはずだ。 どこかの貴族を訪ねたときに見かけたということも、同じ理由でない。 少女の足の鈴と男のかき鳴らす竪琴の最後の一節が完全に重なって、優美で激しい踊りが終わった。息もぴったりだ。 アルスラーンのことをよく知らないホディールは、王太子の視線の意味をギーヴとは別の意味で捉えたようで、踊り子の少女に次の踊りを所望するよりも王太子の酌をするように申し付ける。 少女は恭しく礼をして、アルスラーンの斜め後ろに控えめに腰を落とした。 葡萄酒を手にとってアルスラーンに断られると、今度は果糖水を勧める。 ギーヴが男の方に目をやると、少女のヴェールを畳んで懐に入れて城に常駐する楽団の一番端に連なり、今度は琵琶をかき鳴らしている。だがその視線はときどき、何かを心配するように上座に向けられていた。 「……どうしたギーヴ、楽士としての腕前でも競ってみたくなったのか?」 まだ短い付き合いながらも、ギーヴがファランギースに、引いては女性にしか執心しないことは、もはや公然のことだ。そのギーヴがいくら子供とはいえ踊り子の少女より連れの男を気にしている風なのを見て、ダリューンがからかうように軽く笑う。 「ああ、いや。あの男が何を心配しているのやらと思ってなあ」 ギーヴが肩をすくめて葡萄酒に口をつけると、ダリューンと話を聞いていたらしいナルサスとファランギースも楽団の方に控えた男を見て、軽く息を吐いた。 「大方、娘の心配だろう。踊り子といえばそういうことを求められることもある。実の娘かもしれんな。……おいダリューン、あの男は殿下のご気性を知らんのだから、そう目くじらを立てるな」 「わかってはいるが……殿下が無体な真似を求めるはずがなかろうに」 わかってないじゃないかと、ダリューンの渋面に苦笑する部下たちの気楽な様子とは裏腹に、当のアルスラーンは緊張して娘から注いでもらった果糖水で唇を湿らせた。 「……名は、なんというのだろう?」 少女は僅かに逡巡して、ヒバリのような可愛らしい声で自らの名を口にする。 「と申します」 「やはり!私を覚えてるだろうか。もっともあの時、私は……」 少女の名前を聞いて表情を輝かせたアルスラーンとは対照的に、少女は黒い瞳に困惑の色を見せて僅かに首を傾げた。 「失礼ながら、きっとどなたかとお間違えだと思います。わたしは殿下にお目どおりの叶うような身でありませんので……」 「そんなことはない。私は幼い頃、街で暮らした時間も長い。エクバターナの街にいたことがあるだろう?」 「残念ですけれど、まだエクバターナを訪れたことはございません。など、よくある名前ですもの、きっと別の方です」 申し訳無さそうに、だがはっきりと否定されて、アルスラーンは笑顔を曇らせた。 「……本当に?私の知っているとよく似ているのだけど……」 「申し訳ありません……」 「あ、いや……そなたのせいではない。勘違いしたようで、私こそ申し訳ない」 「そんな、もったないお言葉です」 恐縮したように頭を下げて、は床を見詰めながら唇を噛み締めた。 覚えていてくれた。 が幼い頃に恋をした少年は、七年経った今でも、王太子として正式に王宮に上がった今でも、街角で遊んだだけのジプシーの娘を、覚えていてくれた。 その上、親しげに声をかけようともしてくれた。 けれどどうしても、あなたの知っているですとは言えなかった。 まさか幼い頃、街角で一緒に遊んだアルが、王太子殿下にお仕えしている従者などではなく、王太子自身だったなんて。 王太子の従者だとしても身分違いだと思っていたのに、これでは遥か雲の上の人だ。 かつての友だと名乗って、そのあまりにも大きな隔たりを余計に感じたくはない。 でも。 アルスラーンに顔を上げるように言われて、一度目を閉じると、そっと頭を上げた。 顔を上げたはもうその表情に苦渋を滲ませたりはしていない。 でも、アルに嘘をついてしまった。 それが苦しい。 城主様が聞いているから。 王太子ともあろうものが、ジプシーの娘と友人だったなんて諸侯であるホディールには、あまり良い印象を与えないだろう。 アルのためでもあるんだ。 はそう自分に言い訳をした。 再び目を合わせたアルスラーンが少し落胆した表情を見せたのが少し悲しくて、狂おしいほどに嬉しい。 もう、あの焦がれるような想いは過去のものだと思っていた。今更、幼い頃の淡い想いを抱いた初恋の少年に逢ったからといって、身を焦がすような苦しみを覚えるなんて、思わなかった。 ほんの少しほろ苦く感じる、そんな程度だと思っていたのに。 アルスラーンの手についた果汁を布巾と拭うと、そっと笑顔で礼を言ってくれる。たかが踊り子に、あの日の少年は今でも優しいままだ。 泣きたくなるような幸福と息苦しさに堪えながら、アルスラーンが所望したアーモンドと糖蜜をいれた柘榴のシャーベットを手渡す。 銀のさじを受け取ったアルスラーンが、冷たい氷菓を口に入れたとき、ふいにホディールが囁いた。 「殿下、私には娘がおります。歳は十三、父親の私から見ましても、そこのに劣ることはないと思います。もしも殿下のおそばにつかえさせていただけるのなら、娘にとってこれ以上の幸福はございませんが……」 あやうくシャーベットを吐き出しそうになって咳き込むアルスラーンに、は失礼しますと断りを入れてから、少しでも楽になるように背中を擦る。 羨ましい。 諸侯の娘に生まれれば、そうやって王子の側に上がることもできるかもしれないのに。 |
宴の席にて、驚きの再会。 咄嗟に嘘をついてしまいましたが……? |