1.



「ルシタニアの横暴は悲惨の極みらしいねえ」
隣を行く養父の呟きに、漆黒の髪をたなびかせて少女は眉をひそめる。
先ほど王都エクバターナから逃げてきたという商人から聞いた話を思い出したのだ。
「嫌だな、戦なんて。死が溢れるばかり。どうしてみんな国なんてものにこだわるんだろう。わたしたちみたいに自由に生きればいいのに」
可愛い義娘の呟きに中年の男は大きく前へ出た腹を揺すりながら苦笑した。
、それは無理な話だよ。なぜ我々がジプシーなどと嘲られるか。人は大地に根付こうとする。そうすることによって、己の寄って立つところを得ようとするものだ」
「だったら生まれて育った土地だけにしがみついていればいいのに。どうして人の物まで欲しがるのかな」
「人が欲深いからだよ」
「そんな生き方、つまらないね」
は溜息をついて振り返った。
その方角には王都エクバターナが存在する。養父はなにも言わずに先に歩いて行く。
義娘がなにを気にしているか、知っているのだ。
「……アル……まだ王都に住んでるのかな……?」



買い物を終えて現在の逗留場である城砦に帰ってくると、門番に呼び止められた。
「今から兵が出陣する。軍馬に蹴られたくなければここで待て」
「それはそれは……ここが戦場になるのですか?」
門番の脇へと避けながら養父は剣呑剣呑と呟いた。
「いや、このカシャーン城砦そのものが戦場になることはまずないだろうな。今は王太子殿下からのご使者が参ったので、殿下をお助けすべく兵を出すだけだ」
「おおそれは重畳。王太子殿下はご無事ですか」
養父もも出身こそはここパルス国ではあるが、が七歳になった頃から七年間、パルス国内や周辺の国々を旅して回っている。祖国とはいえそこまで愛着を持てるものでもない。
雇われている身としての態のいい言葉だろうとは聞き流したが、門番は重々しく頷く。
そこに城門が開き、数百騎の騎兵が駆け出してきた。
の目に先頭を駆け去った漆黒の馬に乗った漆黒の騎士が焼きつく。
視力に優れたには、馬上の騎士の横顔がはっきりと見えた。精悍で実直そうな美男子だった。まだ若そうなのに、今まで会った数多くの騎士の中でも数えるほどしか見たことのない風格が漂っていた。
「先頭の騎士様、お目にかかったことない。城主様の宴会にお出にならないのかな?」
たちにもう通ってよいと許可を出した門番は笑って振り返る。
「嬢ちゃん、そりゃダリューン様だろう。到着された殿下のご使者様だよ」
「ダリューン様?万騎長の」
「そうさ!戦士の中の戦士のダリューン様だ。アトロパテネの戦いの後、激戦の中で王太子殿下をお守りして包囲を突破なさったってわけさ。さすがだよなあ」
門番は腕を組んで何度も頷いた。養父はその門番に頭を下げて門をくぐって行く。
慌ててその後を追ったに、門番が後ろから声を掛けた。
「嬢ちゃん、城主様はきっと殿下がご到着になれば宴会を開かれるだろう。ダリューン様にもお目にかかれるかもな!」
「それより王太子様の御前に出る方が緊張するよ!」
漆黒の髪を風に乗せて振り返ったが大声で返すと、門番は声を上げて笑った。
「違いない!」
追いついた義娘に養父は溜め息をつく。
「お前が緊張するだって?」
「そう言ったほうがいいかなって。今まで色んな国のお偉いさんの前で踊ったのに、今更わたしと同じ歳の子供相手に緊張なんてするはずないよ」
「そうさな、ミスルのときはホサイン王に気に入られて、お前のおかげで逃げ出すはめになったんだった」
「酷いな父さん、わたしにそこいらの品のない踊り女たちみたいに伽をしろっていうの?やだよ。わたしは踊りが商売道具なんだから」
「お前にそんなことをしろとは言わんがね。気をつけなければその場で手打ちを申し渡されれば逃げ場もないんだからね」
「大丈夫だよ。父さんをそんな危険にさらしたりしない」
気軽に笑って請け負えば、養父は苦い顔をして首を振る。
「お前の身を案じているんだ。わしは老い先短い」
「父さんの竪琴や琵琶でなければ踊れない。そんな寂しいこと言わないで」
養父は小さく笑って頷いた。
「そうさな、先のことなど考えても仕方なかろう。まずは今のうちにゆっくり休むことが先決だ。夜になればきっと王太子様の歓待の余興に、わしらも呼ばれるだろうからね」


の一番懐かしい記憶は、エクバターナの街角で自由民の子や同じジプシーの子供たちと遊んでいたものだ。
さすがに騎士階級の子供が混じることはなかったが、子供同士の間では身分による隔絶はほとんどなかった。
それでも、暮らし向きの差がそのまま考え方や行動に影響するのは仕方が無い。
と同じジプシーの子供たちは親を持たないも多く、また親がいても暮らし向きは決して豊かではなかったために、たびたび仕事で遊ぶどころではなかった日も多い。
反対に自由民の子供は大抵親元で暮らし、豊かではないにしても食詰めるというほど貧しい者は少なく、彼らの言う親の愚痴にすら温かな家を感じて、憧れていた時期もある。
その中で、の心に深く強く鮮やかな印象を残しているのは、晴れ渡った夜空のような色の瞳を持った、アルという少年だった。
迷路のような街角で駆けずり回って遊んでいる姿は誰とも変わりはなかったが、自由民の子にしてはほとんど家族の話はしなかった。事情があって、他家に預けられていたのだという。
最初は自分と同じで親がいない親近感から興味を持った。
それから、にこりと微笑む綺麗な笑顔が見たくなって、そして夕暮れ時の別れ際、寂しそうな表情を見せるのがたまらなくつらくなった。
その度に別れ難くなり、手を繋いで家まで送っていった。それでも別れ際にまだ寂しそうな顔をしたときは、夜になってからアルの家の近くで養父母に叩き込まれた楽曲のうち、アルの好きな曲を吹いて、あるいは爪弾いてここにいるのだと示してみせた。
そうすると、次に会った時にアルはが大好きな笑顔でお礼を言うのだ。
ずっとそんな日が続くのだと思っていた。養父母が亡くなるまでは。
ジプシーにしては長くエクバターナに逗留し続けていた養父母はある日、また別の男にお前を預けると言って聞かせてきた。その男についてエクバターナを出るのだと。
捨てられるのかと思いながら、つらかったのは捨てられたことではなくて、エクバターナを出てしまえばアルに会えなくなることだけだった。
別の男……今の養父に預けられた翌日、前の養父母が事故死したという話を聞いた養父は、の手を引いてその足でエクバターナを出発した。
アルに、お別れを言うことさえできなかった。


、そんなところで寝るものじゃないよ」
声を掛けられて、意識が浮上する。窓にもたれて眠っていたらしい。
「夜に備えて眠るつもりなら、ちゃんとおし」
「うん………」
懐かしい夢を見たのは、エクバターナの惨状を聞かされたからだろうか。
幼い頃の、淡い初恋記憶が蘇ると、途端にあの寂しそうだった少年が心配になる。
城門が開く音が聞こえて、次いで馬の嘶きと武器や甲冑がうるさく鳴って兵士の到着を城の端の部屋にまで伝えてくる。
「出陣していた部隊のお帰りだ。王太子様もいるかな」
「これ、不躾に眺めていたら無礼打ちにされるかもしれないよ」
「大丈夫だよ。この距離だもん。どんな目で見てるかなんてわかりっこないって」
王太子を探すならさっきの黒衣の騎士を探すと早いだろう。
そうして、黒衣の騎士は簡単に見つかる。これだけ距離があっても、纏う雰囲気が違う男は見分けがつくものだ。
その側にはたちの雇い主の城主ホディールが、しきりに話しかけている少年がいた。少年はふと何かに気付いたように顔を上げる。
遠目でも、の目にわかった、その瞳の色は。
驚いて、思わず窓の下にしゃがみ込んで隠れてしまう。
「父さん!アルがいた!」
「なんだって?」
今日の宴で呼ばれるだろう義娘が着る衣装を吟味していた養父は胡散臭げな声で応じる。
「お前のアルは街角の自由民の子だろう。どうしてこんなところにいるかね」
「でもアルだったよ!わたしがアルを見間違えたりするはずない。まるで晴れ渡った夜の空のような色の瞳。あれはアルだったもん!きっと王太子様にお仕えしているんだよ!」
「自由民の子がね……それならどこかの騎士の養子にでもなったのかもしれないね。いいかい、例え今見つけた子がお前のアルでも、気軽に声を掛けたりしないようにな。王太子様の従者に声を掛けられる身分でないことを忘れるんじゃないよ」
「わかってるよ。無礼討ちにされたくないからね」
拗ねたように口を尖らせて、はどさりと寝台に座った。
「アルはそんなことしないに決まってるけど、王太子様のお立場があるもんね。きっとアルが困る」
「さてね、もう七年も前に別れたきり。いつまでも昔の気性のままとも思えんが」
「アルは優しかったよ。すごく優しかった。大好きだったんだから……」
「やれやれ、その話は四行詩にして語れそうなほど聞いた。いいか、わしも繰り返して言うが、お前は踊り子だ。ひとりの男に心を縛られたままではそれが踊りにも出ることを忘れてはいけないよ。本当に本人が目の前にいるとすれば、なおさらだ」
「……わかってる。アルを好きだったのはもう七年も前のことだもん、平気。わたしは父さんの音を汚したりしない」
けれども再会を夢見ていた気持ちに嘘はつけない。
寝台に寝そべって、枕に顔を押し付けながら強く目を閉じた。
「一晩の夢だ」
どうせ自分は流れ者だという意識が、今ほどつらいと感じたことはない。もう会えることはないと思っていた。あるいはエクバターナでなら再会できるかもしれないと。なのにこんなところで会えるなんて。
「アルは気付くかな」
「あまり夢は見んことだ」
「………うん」
気付かれないと寂しい。にとって、十四年生きてたったひとり心から好きになったのは、あの少年だけだ。ずっとこの気持ちを大事にしてきた。いつか別の誰かを好きになっても、初恋の思い出が消えることはないだろうと思っていた。
けれど気付かれるのも苦しい。
アルという少年に対する恋心は既に淡い思い出で、恋焦がれることなどなくなっている。
それでも、王太子の従者という立場になった少年には手が届かない。そうはっきりと自覚させられることはつらかった。
「………父さん、王太子様がいる間、ここに居続けられないかな?」
わかっていると言ったのに諦め悪くそう言ってしまう自分が恥ずかしくて、養父を見ることが出来ない。
義父は今夜のの衣装を選んだらしく、壁に衣装をかけながら振り返らずに首を振った。
「それはここの城主様がお決めになることだ。わしらは雇われているだけだからね」
「うん、そうだね」
どうせ叶わぬ想いなら、少しでも早く離れた方がいいのかもしれない。








アルスラーン戦記の長編、また捻くれた地点からスタートです(無謀)
もちろん思い出の少年はあの人で……。



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