この手に掴めるもの(4) それからが共に遊ぶ日は、必ず彼女が手を繋いでアルスラーンを家まで送ってくれた。 日が暮れて楽しい時間の終わりが近付くのはとても寂しいのに、と二人きりで歩く道はそんな寂しさを忘れさせ、いつしかそれが小さな楽しみにすらなった。 それだけに、家に近付くのはつらい。他の遊び友達たちとは違い、は楽士や踊り子としての修業が忙しく、次に共に過ごせる日がいつになるか判らないから、余計に寂しくなる。 今日も夕暮れの闇にアルスラーンの預けられている家の灯りが見えてきて、しっかりと繋いでいた手が離れた。 「じゃあね、アル。また遊んでね」 が笑顔で手を振って別れの挨拶をする。 離れてしまった手で冷たい空気を掴んで、アルスラーンは唇を噛み締め無理にでも笑顔を作って手を振り返す。 笑ったはずだったのに。 「アル?」 いつものように笑って駆け戻っていくはずのが、今日は心配そうに眉を寄せて距離を詰める。 「どうしたの、どこか痛い?」 そう言って伸ばされたの手が頬に触れて、初めて自分が泣いているのだと気が付いた。 「あ……れ?」 「頭が痛いの?それともお腹?」 「ち、違うよ、ごめんね。なんでもないんだ」 「でも……」 心配そうなに、涙を拭いてくれた濡れた指を手にとって、アルスラーンは今度こそ笑うことができた。 「とさよならするのが、もったいないと思っただけだよ」 そう口にして、アルスラーン本人も初めて自分の涙の意味を悟った。 そうか、寂しかったのだ。この温かい少女とのしばしの別れが。 は目を瞬いて、それからアルスラーンの手を握り返すと、微笑みながら軽くつま先立ちをして、まだ少し濡れたアルスラーンの頬に唇を当てた。 「また、すぐに会いに来るよ」 唇の触れた頬に手を当てて、真っ赤になってを見つめる。彼女はにこりと微笑んで、もう一度約束する。 「すぐよ、本当に」 「……うん」 励ましてくれている少女に素直に頷いて、それでも惜しみながら手を離す。 は今度こそ手を振って、現在常駐している店へと走って行ってしまった。 その背中が見えなくなるまで見送って、ゆっくりと手を降ろすと、重い足取りで乳母の家への残りの短い距離を歩いた。 「ただいま……」 小さく帰宅の声を掛けると、奥の部屋から乳母が出迎えに現れる。 「お帰りなさいませ、アルスラーン様。お夕食の支度はできておりますよ」 「はい」 乳母に促されるままに手を洗い、一人きりの食卓につく。 乳母夫婦と食卓を共にしたことはない。彼等はアルスラーンを躾けるために傍に控えてはいるものの、友人達から話に聞くような、叱られながら親と差し向かいで食事を取るということとは縁が無い。 上等な食材を使った家での食事よりも、外で遊び仲間で持ち寄ったお菓子を摘んでいるほうがずっと楽しくて、ずっと美味しい気がする。 アルスラーンはスープを口に運びながら、溜息ごと一緒に飲み込んだ。 食事が済むと湯を使い身体を清め、その日学んだことを復習して一日を終える。 今はまだ幼いのでこのくらいだが、もっと歳を重ねればそのぶん学ぶことも増えると乳母からは言われている。 家塾で教わった話を紙に書き付けていると、ふと微かな音色を耳が捕らえた。 この曲は、パルスの地方の子守歌だ。 アルスラーンはそれを知っている。だが、この子守歌を演奏する人がこの家の近辺にいるとは思えない。 椅子を蹴って取りついた窓を開くと、通りの向こうに子供が一人立っていた。薄暗くてよく見えない。だけど、それがであることは間違いない。 静かで緩やかな音に聞き入っていたアルスラーンは、最後の音が闇に消えるように解けるのと同時に、嬉しくなって大きく手を振る。 薄闇の通りの人影も手を振り返してきて、そして別れたときと同じように、また通りを急いで駆けて行く。 が滞在する店もそろそろ開いている時間だ。彼女はこれからこそ忙しい時間のはずなのに、別れ際に寂しがったアルスラーンのために、急いで往復して一曲奏でてくれたのだ。 小さくなっていく影は、やっぱり寂しい。 だけど今は、胸の奥がほんのりと温かい。 そんな気がした。 そんな風にして、楽しい季節が巡った。 はまだ幼いが、さまざまな町を巡業している。それだけ一所に長居することがないのだ。 エクバターナには今まででは破格の長さで滞在しているが、もう一年が過ぎようとしている。 きっと養父母はそろそろ出発も考えているはずだ。 そう思うとたまらなくなって、は空を見上げた。 今日も遊びに出た帰り、アルを家まで送っている。二人で夕暮れの町を話しながら通りを歩くのは楽しい。 旅から旅への空の下で生きて、あちらこちらで友達はできたけれど、彼等はみんなその場限りの友達だった。彼等にはずっと同じ町で暮らす友達もいるし、別の旅芸人の子供だってやってくる。 がいなくなれば、みんな自分のことなんて忘れてしまうだろう。少なくとも、また再び会う時でもなければ、思い出しもしないに違いない。 それはも同じで、うんと幼い頃にいたチュルクやシンドゥラで会った友達のことは、もう顔も思い出せない。 だけど。 夕暮れの赤い空を見上げて眩しさに目を細めながら、隣を歩く少年と繋いだ手に少し力を込める。 すると、隣の少年も繋いだ手に同じように少し力を込めてくれて、掌をぴたりと隙間無く重ねて指を絡める。 きっとアルは特別だ。忘れることなんてない。 赤い空から隣の大好きな少年に目を向けると、視線に気付いたアルもを見て、晴れ渡った夜空の色の瞳を眇めて少し寂しそうに笑う。寂しそうなのは、今日の別れの時間が近付いているからだ。 一度は寂しそうどころか涙を零したこともある。あのときは、そんなアルの様子が気になって、店に戻って笛を掴むと走った道を往復した。 客が増えて本格的に店が忙しくなり、客からの曲や踊りの注文が入るまでには帰り着くことができたが、その日は客が引けてから養母にこっぴどく怒られた。 それでもは懲りなかった。 その次に会ったときに、アルがとても嬉しそうな笑顔でお礼を言ってくれたから。 アルの笑顔が眩しくて、もっと見たくて、それからもはときどき、遊ぶ時間はなくても、日暮れ頃にアルの家まで駆けて行って笛を演奏した。 アルが笑うと、も嬉しい。もっとその笑顔が見たい。 の望みはそんな単純なものでしかなく、それはアルと会う度に必ず叶えられた。 ずっとエクバターナにいることができたらいいのに。 そう思うとはたまらない気持ちになって、だけどアルの寂しそうな顔を見ると、旅立ちが近いかもしれないということを、どうしても言えない。 養父母が旅に出ると言い出してからでも大丈夫だろう。 そう考えていた。 アルの家が見えてきて、今日もこれでさよならだと思うと、アルの寂しさが移ったようにも寂しくなる。もっと毎日会えたらいいのにとも思うし、笛も竪琴ももっと練習して上手くなってアルに聞かせたいとも思う。 だからいつもそんな寂しさを断ち切るように、アルを送り届けると走って店に帰るのだが、今日はそれが災いした。 後ろを振り返って走りながら手を振っていたせいで、通りの脇から出てきた人影に気付かなかったのだ。 「!」 見送っていたアルが気付いて声をかけたときはすでに遅く、人影と思い切りぶつかってしまい、は通りに転がった。 「いたた……ご、ごめんなさい!」 強かに打ちつけた腰を擦りながら顔を上げたは、同じく路地に尻餅をついている老女に気付いて青くなって這い寄った。 「大丈夫ですか?怪我はないですか?」 「ええ……大丈夫です」 初老のその女性も腰を擦りながら、寄ってきたを見て苦笑する。 「動く時は、きちんと前を見てお気をつけなさい」 そう言って、を立たせると服を叩いてくれた。地面を這い寄ったせいで泥だらけになっていたのだ。 「はい……これからは気をつけます。本当にごめんなさい」 「よいお返事です」 「!大丈夫!?……あ、あの、大丈夫ですか?」 駆け寄ってきたアルはまず友達を心配して、まだ地面に座り込んでいた老女に気付いて手を差し出す。 老女はそれを謝絶しながら地面に手をついて、ふと気付いたようにの足に手を掛けた。 「これは……」 いきなり足を掴まれて驚いたは、咄嗟に傍らにいたアルにしがみつく。 「これをどこで手に入れたのです?」 アルも驚いたように、庇うように抱き寄せてくれて、肩に置かれた手に勇気付けられた。 少し落ち着いて、老女の手が下衣の裾から覗く銀の足輪に掛かっていることに気付くと、ほっとする。 いきなり足を掴まれたから驚いたけれど、気になっている理由が判ったら少しは恐くない。 気軽に裾を捲ってそれを見せた。 「どこでって、母さんが持ってなさいって」 「母さん?あなたのお母様ですか?その方はどこでこれを手に入れたのかしら?あなたとは血を分けた親御さんなのかしら?それにこれは本来腕輪のように見えますけれど」 「あのっ」 初対面で明らかに不躾な質問が混じっていて、当のよりも傍にいたアルのほうが不愉快そうに遮った。はそんな質問をされたことより、アルが庇うように怒ってくれたことが嬉しい。 大丈夫だという意を込めて、肩を抱いてくれるアルの手を上からぎゅっと握り締めた。 「養い親です。足につけているのは、腕だと遊びに夢中になってどこかに落としたまま気付かないかもしれないからだって」 そうおどけるように言ったはまだ幼いこともあって、確かに腕が細く留め金を狭く閉めても腕輪が落ちてしまいかねない。 老女は服の埃を払い落としながら頷いて立ち上がる。 「言葉もはっきりしているし、礼儀も正しいようですね……あなたのお母様にお会いしてみたいのですけれど、案内していただけるかしら?」 意外な申し出には戸惑ったが、アルがますます肩を強く引いてくれるおかげで怯えることなくまっすぐに老女を見上げることができた。 二人の子供の不審そうな目に、老女は困ったように微笑を浮かべる。 「あなたのその銀の輪と同じような物の持ち主を、探しているのです。似た持ち物というのは目に留まりやすいもの。あなたのお母様が私の探し人でなくとも、似た銀の輪を持った者に心当たりがないかと尋ねてみたいのです」 は元より、隣でアルも戸惑っている。老女の態度は穏やかで、子供相手にでも丁寧な物腰を崩さない。 迷った挙句、は今すぐに案内はできないと首を振った。 「今からお店が始まるから、母さんは忙しくなるんです」 「そう……ではせめて、どこに行けば会えるかを教えてはもらえないかしら?私のことを訪ねていただけないかと伝えてもらえるだけでもいいのですけれど」 「伝えるだけなら……」 「ありがとう」 にこりと優しく微笑まれて戸惑う。 ここはアルの家のすぐ傍だから、が上手く逃げてもアルの元に変な人が行くかもしれないと思ったけれど、この人なら連れて行っても大丈夫かもしれないとも思う。 「私はフゼスターン地方のミスラ神殿に仕える者で……」 「ミスラ神殿!じゃあ母さんの知り合いかも」 安心したようにが手を叩くと、老女はしわを深くして笑みをたたえる。 「では、あなたのお母様はミスラ神の女神官だったのかしら?もしかするとルハーラ殿もまだご一緒で……」 「父さんを知ってるんですか?じゃあやっぱり母さんも知ってるんですね」 養い親たちの知り合いだと判ると、一気に気が抜けた。隣でずっと肩を抱いてくれていたアルを見上げて大丈夫だと頷くと、アルも相当緊張していたのかほっと息をつく。 「今から忙しいのは本当なので……朝か昼なら、西区のサルートというお店に泊まり込みで働いています。母さんから行くならどこに行けばいいですか?」 「いいえ、彼女だと判ったならやはり私のほうから訪ねます。あなた、というのね?」 名乗った覚えはなかったので驚いたけど、そういえば転んだときにアルが名前を呼んでいたと思い出して素直に頷く。 老女を微笑み、の頬に触れようとしわの刻まれた手を伸ばし……だが頬には触れずに右手を握った。 「元気にお育ちだこと……これからも健やかにお過しあるようミスラ神にお祈りいたしましょう」 老女はそう言い、の手を一度握り締めると日が落ちかけた町へ消えていった。 「……変な人じゃなくてよかったね」 「うん。ほっとしちゃった」 養い親の知り合いだったと判って安心して、アルを顧みたその顔に差す影にあっと声を上げて飛び上がった。 「大変!早く戻らないと怒られちゃう!」 時間を食ってしまったと慌ててアルと別れを告げると駆け出そうとして、気がついたように振り返る。 「さっき傍にいてくれてありがとう。アルがいてくれたら恐くなかったよ」 その頬に感謝を込めて口付けをして、真っ赤になったアルに笑いながら手を振って夕闇の町へと駆け出した。 |
ただ傍で過ごしたいというささやかな願いですが……。 |