この手に掴めるもの(5) はまだ楽士としても踊り子としても未熟で、けれど子供の芸妓を珍重して喜ぶ客も多く、望まれれば踊りも楽曲も披露した。 そうでないときは、忙しい店を縫うように走り回って注文を取り、料理の皿や酒を客の元まで運ぶ。 そんな仕事があるのに思わぬことで時間を取られて、が夕方の町を駆け抜けて店に戻ると、既に客がそれなりに入っていた。 迎えた養母の怒りの笑顔に震え上がって、慌てて手伝いに駆け込んだせいで、町で会った老女の話をするのを忘れてしまった。 泥のついた手を軽く水で濯いでいる時にそのことを思い出したが、どうせ店が忙しいからゆっくり話せるのは客がはけてからだ。 そう考えたはしかし、午前を稽古で、午後を遊びで、夜を仕事で力一杯動き回ったせいで、店仕舞いが終わると倒れるように眠ってしまい、老女のことを思い出したのは本人が訪ねて来たときだった。 「おはよう。お手伝いかしら?感心ね」 店の床の埃を外へ掃き出していたは、聞き覚えのある声に振り仰いであっと声を上げた。 「お、おはようございます!あ、あの母さんを起こしてきます!」 うっかり養母に話し忘れていたことを思い出して、客人を店の一角に座らせると慌てて二階の貸し与えられている一室まで駆け上がる。 「母さん母さん母さん!お客様!」 踊りを披露しながら、客の晩酌にも付き合う養母は深酒でまだ寝台に沈んでいて、その上に飛び乗るようにしてが揺らすと、手厳しい一喝が待っていた。 「重い!」 養母が勢いよく起き上がり、その反動で寝台から転がり落ちて強かに床に頭を打ちつけたは、痛みに涙を滲ませながら母の膝に取りすがった。 「あのね母さん、ごめん。昨日言付けされたの忘れてた。母さんの知り合いの人に会ったんだよ。それで、母さんに会いたいって言ってたの」 「知り合いー?誰、あんたの知らない人なの?」 欠伸をしながら目を覚まそうと大きく伸びをする養母は酒の余韻で機嫌が悪いらしく、は恐る恐ると反応をうかがいながら話そうとして、そう言えば昨日は自分が遮ってしまったせいで、客人の自己紹介をすべて聞いていなかったことに気付いた。 「えっと……ミスラ神殿に仕えてるって……たぶん女神官じゃないかなーと……」 の足りない説明を聞いた途端、養母から気だるげな様子が一瞬で消えた。 何かに気付いたようにを見下ろして、素早く伸びてきた手が強く両肩を掴む。 「ミスラ神の女神官!?一体どこで会ったの!どんな人だった?どうしてあんたのことが判ったの!?」 「痛い痛い痛い!」 娘の悲鳴にはっと手を放したが、養母の表情からは厳しい色が抜けない。むしろ、青褪めてすらいる。 「ごめん。それで、どうしてその人はあんたのことが判ったの!?」 「え、えっと、ぶつかって転んだときに足の銀環が見えたんだって。知り合いが持ってるものと似てるって……おばあさんだったよ。父さんのことも知ってるみたいだから店の名前を言ったんだけど……いけなかった?」 常にはない養母の鬼気迫る様子にがおずおずと伺うと、唇を噛み締めてうな垂れながら首を振る。 「いいや、あんたは悪くない。……やっぱりエクバターナへ来ちゃいけなかった。フゼスターンでないなら大丈夫だと思ったのが間違いだった……」 いつもは豪快な人の落ち込んだ様子に、は自分が間違いを犯したのだと悲しくなって俯いた養母を覗き込む。 「じゃあ、下の人は追い返したほうがいい?母さんは病気だとか言ってくるよ」 「いいよ、あの方ならあんたが信用したのも判るしね。悪いわけじゃ……追い返す?」 「うん、だからさっき店に来たんだよ。今、下で待ってもらってるけど……」 「それを早く言いなさい!」 養母はを押しのけて、寝台から飛び降りると一目散に駆け下りて行く。 「……最初にお客だって言ったのに……」 再び床に頭を打ちつけた痛みに涙を滲ませながら、養母を追って階下へと降りた。 「申し訳ございません……ご無沙汰しておりました……女神官長」 「あらあら、騒がしいこと……それにせっかくの神殿修業ももうすっかり抜けたのかしら」 寝起き姿のまま床に跪いていた養母は、苦笑する客の言葉に赤面しながら顔を上げた。 神殿では日が昇れば起き出して一日の勤めが始める……と話していた養母がまだ寝ていたことを笑っているようではあるが、客の老女からはやはり嫌な感じは受けない。 「元気そうで何よりです。……そなたには大変なことを申し付けたと言うのに、よくぞ無事でいてくれました。……それに……」 老女の視線が階下に下りてきたに向いて、驚いて背筋を伸ばすと、安心させるようににこりと優しく微笑んでくれた。 「母になったことのないそなたが、良い子を育ててくれました」 「もったいないお言葉です」 床に額をつけるほどひれ伏した養母に、驚いて目を瞬く。 芸を見せに要人の前に出た時もあのように礼をとることはあるが、そのときとは養母の様子が違う気がする。商売と割り切っている時とは違う、もっと自然と頭が下がったような。 「本人には何も?」 「はい。……、父さんはどこ?」 「え?裏で水を汲んでるよ」 急に声をかけられて、驚きで立ち尽くしていたは戸惑うように裏手に続く戸に目を走らせる。 「じゃああんたは父さんのところに行ってなさい」 「え、あ、はい」 振り返った養母の有無を言わせぬ強い視線に、急いで身を翻して店の裏に出る。 「おお、どうした、床掃除は終わったのか?」 少し離れた近所の店と共有の井戸にいた養父は、駆けて来た娘の頭を濡れた手で掻き回した。 「冷たい!掃除は終わったけど、お客さんで母さんが父さんのところに行ってなさいって」 「……すまんが一から説明してくれないか。さっぱり判らん」 娘の慌てた様子が可笑しかったのか、顎を撫でながらにやにやと笑って再度説明を求める養父に、今度は昨日のことから順序立てて説明する。 今、客と母が面談していると最後まで説明し終えると、いつの間にか養父から笑顔が消え、養母と同じように少し青褪めた顔色で急にの肩を掴んで引き寄せながら辺りを見回した。 「客はおばあさん一人か?後ろに他の人影は見えなかったか?」 「ええ?判らないよ。……あの、やっぱりだめなことだった?」 客の話を聞いたときの様子は、養父も養母の尋常ならざるものだった。客に丁寧に挨拶をする養母の姿に一度は納まっていた不安が頭をもたげると、そんな娘の様子に気付いたのか肩を掴んでいた手から力が抜ける。 「ああいや、そんなことはないさ。その人は大丈夫なんだよ。……店に戻ろうか」 「でも母さんは父さんのところに行きなさいって……」 「呼んで来いということだろう。父さんもその人とお話があるから、は部屋に戻って文字の勉強をしてきなさい」 「ええー!?」 普段は芸事以外の勉強には積極的でない養父の言いつけに、はあからさまに眉をひそめた。 だが笑いながらも強引な養父に引き摺るように店まで連れ戻されると、客人への挨拶もそこそこに部屋に押し込められてしまった。 間借りしている部屋の窓から、客人と養父母が連れ立って出て行くのを見たのは、酒場の店主の家族が起き出してくる頃だった。 今日は店から決して出るなとの厳命と共に、大量の課題を養母から出されてしまって、稽古でもなく、遊びにも行けない、つまらない一日の最大の驚愕は夕方にやってきた。 店の開店準備が始まる頃にようやく戻ってきた養父母は、朝出て行ったときとは違う客を連れていた。 脂肪が弛んだ顎、大きく前へ出た腹。 およそ芸人らしくは見えない初老の男は、も覚えている。 エクバターナへ着いたその日に会った、養父の芸の師匠という男だ。あれから何度か会ったけれど、相変わらず恰幅のいい体格は変わっていない。 「父さん、母さんも遅いよ!」 初めて自分が二人を叱れると嬉しそうに注意したが期待した反応は返ってこなかった。 養父が悪びれないように笑うでもなく、養母が開き直るわけでもなく、二人は真剣で、どこか青褪めた様子での前に膝をついて目線の高さ娘に合わせた。 「いい?、よく聞いて。今日からあなたはこの人についていくことになったから」 予想もしない言葉に声も出ず、養母の声が耳を素通りしたようだった。 「この人は父さんの師匠だ。人柄も、芸事も父さんより間違いなく優れている人だから安心しなさい」 油が切れて錆びた歯車のようにぎこちなく首を回すと、養父もいつものようなふざけた様子はまるでなく、真剣な表情で頷く。 「……いつまで?」 いつまで預けられるのだろうと、どうにかそれだけ呟くと、二人は眉を寄せてゆっくりと首を振った。 一時的に預けられるのではなく、この先ずっとこの男について行けということらしい。 捨てられる。 そう理解して俯いたは、足の裾から僅かに覗く銀の光にはっと息を飲んだ。 今日、あの老女が来てから二人の様子はおかしかった。なんでもないとは言っていたが、やはり連れて来てはいけない客だったに違いない。 自分は何か、取り返しのつかないことをやったのだろう。だから捨てられるんだ。 はゆっくりとしゃがみ込み、足の銀環を外すと養母に差し出した。 「それじゃあ、これは母さんに返すね」 は生まれてすぐに捨てられた。生まれただけで、実の親からも捨てられたのだ。何か、取り返しのつかないことをしでかしたなら、養父母に放り出されても仕方がない。 そう思って銀環を差し出すと、一言も駄々をこねないことに驚いたのか、養母は大きく目を見開いて、それからの手をそっと押し返そうとする。 「いいえ、それはあなたが持ってなさ……」 そう言いかけたのに、急に何か別のことを思ったのか常には見られないほど優しく微笑みながらの手にあった銀環を受け取った。 「そうね、これは母さんが預かる。けどきっと、いつかあなたの手元に還る日がくるから……」 そう言って、受け取った銀環を懐から取り出した布に包む。 「……では支度をしてきなさい。すぐにエクバターナを出ることになるから、そのつもりで持てるものは全て持って行くんだ」 「エクバターナを出るの!?」 養父母に捨てられるだけでなく、この町からも出て行かなければならないのかと驚いて声が裏返った。そろそろ出発するだろうと思っていたけれど、こんなに急になるとは考えてもみなかった。 あの、寂しい瞳の少年に、温かな笑顔をくれた少年に、まだ何も告げていない。 「行きなさい。行かなくちゃいけないから」 養父に再び促されて、はあまりにも忙しすぎる状況の変化についていけず、半ば呆然としたまま二階に上がり支度をしてからまた一階に戻り、やはり呆然としたままのことを頼んでいる養父母の背中を見ていた。 新しい養父は、捨てられる娘を哀れんでか、とても優しく声をかけてくれたけれたけれど、何と言っているのか、には上手く聞き取れなかった。 半ば雲を踏むような心地で、大きな肉厚のある掌に手を引かれて店を出る。 夕暮れを、一緒に走った男の子とはあまりに違う掌。と変わらないくらいの大きさで、細くて、でもとても温かかった小さな掌とは違う。 振り返って最後に見た養父母の顔は、夜が来る前の夕闇でよく見ることは叶わなかった。 「アルに……お別れ、を……」 「お友達かい?そうだね、明日言っておいで」 新しい養父は、やはり優しくそう許してくれたのに、結局それも叶うことはなかった。 翌日、午後になってアルが遊びに来るのをいつもの遊び場で待っていたは、蒼白になって駆けつけた新しい養父に手を引かれて、その足でエクバターナを出ることになったからだ。 アルにまだお別れも言ってないのに。 あの寂しそうな目の男の子をまた一人にするのかと、自分の寂しさか、それとも大切な男の子の寂しさを思ってか、エクバターナを出てからも涙が止まらなかった。 繋いだ手が、やはりあの小さな男の子のものとはまるで違うことが悲しかったのかもしれない。 その日の朝、エクバターナの一角で起こったという馬車の事故で養父母が還らぬ人となったのだと知ったのは、しばらく時が経ってからのことだった。 が遊びに来ない。 忙しい彼女のことだからと、寂しく思いながらもずっと待っていたアルスラーンは、遊べない日でも時々は来てくれた街頭での演奏すらなくなって半月が経ち、意を決して再び彼女が逗留しているはずの店を訪れた。 だが期待に胸膨らませて駆けて来たアルスラーンを待っていたのは、冷たい現実だった。 「ああ、なら、別の旅芸人に預けられて町を出て行ってしまったよ。あんまりにも急な話で、こっちも驚いた。あの一家は人気があったのに……人手は足りなくなるし、あれから客足は衰えたし、踏んだり蹴ったりだ」 不機嫌そうな店主の言葉の後半は、もうあまりよく聞いていなかった。 は旅芸人だ。いつか旅に出ることは判っていたじゃないか。 でも、別れの言葉すらないのか。 水がもらえず萎れた花のようにうな垂れて、消え入りそうな礼を言って店を出たアルスラーンは、とぼとぼと重い足を引き摺るように通りを歩きながら、自分の掌をじっと見つめる。 あの温かい手は、もう失われた。 最後に会った夜に彼女を守るように掴んだ肩は小さくて薄かった。 目の前の老女を警戒しながら、いつもは頼りになる彼女がまだ自分と同じ子供なんだと感じて、自分がいたから恐くなかったと言ってくれたことが誇らしくすらあったのに。 こんなに弱い身でも、彼女のためになれたのかと。 見つめていた右手を、そっと頬に当てた。 お礼だと、彼女がくれた口付け。 「…………」 寂しいと涙を零しても、もう拭ってくれる手はない。 彼女の奏でる曲は、繋いだ手はあんなにも温かかったのに。 失われたものの大きさは、失って初めて気付くのだ。 あの手を、ずっと繋いでいたかったのに。 今はただ冷たい涙が頬を伝い、手の甲を濡らすだけだ。 ……それでも、優しい音で奏でられた子守歌はまだアルスラーンの中に残っている。 |
突然の別れに、子供の頃は無力さを思い知って寂しく涙することしかできませんでした。 再会したときもまだ14歳と子供ですが、今度は二人とももう自分では何もできないほど、 小さすぎる子供でもありません。 果たしてどんな運命を掴み取ることができるでしょうか。 |