この手に掴めるもの(3)


それからしばらく、アルスラーンがと遊ぶ機会はなかった。
に限らず商人や旅芸人の子供は家の手伝いや一座の下働きで遊ぶ時間がないことはよくある。
アルスラーンも今までの経験上それは判っていることで、他の友達と遊んでいる間はそれを気にすることはない。
だが日が暮れて家に戻る時間になると、初めてと会った日の、繋いだ手の暖かさを思い出してしまう。
あの日、はアルスラーンを家のすぐ前まで送って、きっとまた遊んでねと強く手を握ってから帰って行った。
「じゃあ、またなアル!」
他の友達とはたいてい、街角で日が暮れるとその場で解散となって別れてしまう。
日が暮れるまで遊び回り、空きっ腹を抱えていそいそと家路へつく友達に手を振り返し一人になると、灯りの漏れる家の前まで送ってくれた少女の笑顔を思い出して夕闇に染まりつつある空を見上げた。


その日、アルスラーンは午前を決められた通りに家塾で学問を学び、午後の自由の時間はいつもの遊び友達たちとの集合場所へは行かず、の様子を見に行くことにした。
表通りの商店街を抜け、あの日のように路地を一本ずれて入ると、そこは閑散としてほとんど人通りがない。
先日来たときの雰囲気を思い出して緊張していたのにと、通りの様子に拍子抜けする。
昼間に妖しく燃えるかがり火がないのは当たり前だとしても、あんなに騒がしかった通りは、日の元では人の往来もなく酒気の欠片もない。
表通りが騒がしい時は静かで、日が落ちると騒がしくなるこの通りの感覚は、まるで昼夜が逆転しているかのようだ。
すっかり違う様子に戸惑い、風景まで変わってしまったようでの滞在する店への道がこれで正しいのだろうかと不安を覚えながら小走りに駆け抜ける。
記憶を頼りに一気に駆け抜けた先に、見覚えのある看板を見つけたときはほっと息が漏れたほどだった。
喜び勇んで店先までたどり着き、今度はそこで困惑に立ち止まる。
どうやら店はまだ営業していないようで、中に入ってもよいのか判らなかったのだ。
「……どうしよう」
先日ここへ来たときは店に入らずそのまま送ってきたはずの少女に手を握られて、あべこべに家まで送ってもらった。
目の前のノブに手を伸ばし、すぐに気後れして手を引く。
「どうしよう……」
「ふむ、それで、君はどうしたいんだ?」
真後ろから聞こえた声に驚き飛び上がりそうになって振り返ると、若い男が興味深げな表情で顎に手を当て、アルスラーンを見ていた。
「あ、あの……」
「その歳で酒場に来るとはなかなか将来有望な少年だ。だが店が開くのは日が暮れてからだぞ」
「えっと……」
この店に用事があるわけではなくて、この店にいるかもしれない少女を探しに来たのだと、どう言えば上手く説明できるだろう。
「それで、君はどうしたいんだい?」
説明に困るアルスラーンに男は繰り返す。
「あの、女の子に会いに来たんです」
「ほほお、女の子に会いにか。これまた有望な答えだな」
男が楽しそうに笑う意味が判らずに困惑していると、大きな手が伸びてきてアルスラーンの頭を誉めるように撫でる。どうして誉められるのかさっぱり判らない。
「しかしなあ少年、酒場のお姉様方もこの時間はいないぞ」
「そうじゃなくて、あの、ぼくと同じくらいの歳の子で……ここにいるはずなんです……」
「アル!」
男の後ろで黒髪の少女が丸めた目を瞬いている姿を見つけて、アルスラーンはやっと息を
つけた思いで男の脇を抜けて新しく出来たばかりだった友達に駆け寄る。
!会えてよかった」
「どうしたの、こんなところに。ここはあんまり子供は来ちゃダメなんだよ」
「来ちゃだめって……はいるのに」
純粋な疑問だったようだが、同い年のに言われても納得がいかない。アルスラーンの不満そうな言い方が面白かったのか、後ろで男が吹き出した声が聞こえた。
「これは一本取られたな、
「そこで働かせてる父さんが言うことじゃないよ!」
「わははっ今度は父さんが一本取られた!」
「父さん?」
首を傾げたアルスラーンの肩を男の手が叩く。
「夜空のような深い藍の色の瞳だと聞いていたからすぐに判った。から話は聞いているよ」
「えっと……あの……?」
「この間、この子をここまで送ってくれたろう?話を聞いたときから将来有望だと思っていたんだ。そうだよな、男はそういう甲斐性がなくちゃな!」
「ひょっとして、父さんにからかわれた?」
がアルスラーンの手をぎゅっと握ってきた。もう片方の手には竪琴を提げていて、心配そうに覗き込んでくる。
「からかう?」
「父さんはいっつもそうなの。気にしないで」
からかわれたのかどうかもよく判らないアルスラーンが困って首を傾げると、男は腕を組んで顎を撫でた。
「ほほう娘よ、そういうことを言うか?せっかく友達が迎えに来てくれたから、母さんに今日の午後は休みをあげて欲しいと言ってやろうと思ったのに」
「ホント!?」
が目を輝かせると、彼女の養父らしい男は鷹揚に頷く。
「今日の午後は文字の勉強だろう。母さんの言うように文字の読み書きができれば助かることは助かるが、巡業して回るだけなら無理に覚えなければならないものでもないよな」
「やったー!アル、行こっ」
養父の気が変わらないうちに思ったのか、それともどうやら厳しいらしい養母が現れる前にと思ったのか、はアルスラーンの手を握ったまま駆け出した。
「え、あの、
戸惑いながらアルスラーンが振り返ると、あの日の夕方のように今度は養父の男が手を振って見送っていた。


店から離れることを急ぐあまり、竪琴を片手に下げたままだったことにが気付いたのはもう随分と走ってからのことだった。
「しまった、これじゃ思う存分遊べないかも」
「じゃあ、今日はお話しようよ。旅の話はまだいっぱいあるんだよね?」
少し息を弾ませながら提案してみると、は嫌がる様子もなくすぐに頷いた。
「うん、じゃあ今度はチュルクに行ったときの話をしようか。あのね、チュルクはとても涼しいんだよ。うんと小さいときにしばらくいたことがあるの」
「先生に聞いたことある。チュルクの国は一年の半分くらいは雪に埋もれてるんだって」
「冬はそうだって。わたしたちがいたのは春の短い間だけだったから、そんなすごい吹雪には遭わなかったんだけど」
二人で手を繋ぎながら歩いて通りを抜け、空き地を見つけてそこで一休みすることにする。
話をしていると、どうやらがチュルクにいたのは旅の巡業の中でも一番古い記憶らしいことが判ってきた。南の国の話をしているときは、も何かしらの役目を負って巡業に望んでいたのに、チュルクにいた頃は何もしていないようだったからだ。
はチュルクの生まれなの?」
「ううん。父さんたちが言うには、生まれたのはパルスだって」
「そうなの?それじゃはそんな小さい頃からチュルクなんて遠くまで旅をしていたんだ。凄いな……」
「小さな頃はそんなに自分で歩けなかったけどね。チュルクからシンドゥラに抜けて、そこから船でマルヤムに行ったりしてね。実はパルスは今回初めて来たんだ」
「パルスで生まれたのに?」
それではにとってパルスも他の国もさほど変わらない。それどころか、生まれた国と言っても見慣れない国でしかないんじゃないかと目を丸めると、は傍らに置いていた竪琴を膝に抱えて、軽く爪弾き始める。
「うん、あのね、今回の旅も母さんは反対してたの。パルスには大陸行路があるから巡業もしやすいけど、そのぶん他の一座も多いから、儲けにならないって。エクバターナなんて、それこそ絶対ダメだって言ってたんだけど」
はふっと呆れたように溜息をついた。
音階を確かめていたようなとつとつとした音が少しずつ繋がり始め、一つの曲を奏でるようへと変わっていく。
「父さんがね、また適当なこと言い出して、いつの間にか母さんを言いくるめちゃってたの。
ものは足元のほうが見えにくいもんだとか、訳のわからないこと言って」
はエクバターナが嫌い?」
の様子を見ていると、母親のほうに賛成だったのだろうかと心配になって訊ねると、竪琴の音が急に高く跳ねた。
「どうして!?そんなことないよ。新しい街に来て、その日に友達ができたことなんて滅多にないんだよ。アルが一緒に行こうって言ってくれてすごく嬉しかったんだから」
声を裏返したはアルスラーンの不安に心底驚いたらしく、エクバターナを嫌ってはいないようでほっとする。
アルスラーンにとってエクバターナは生まれて育った場所で、とはちょうどまったく逆に、この街の事しか知らない。それなのに、街を友達に嫌いだと言われたら、自分も否定されたようで悲しい。
「そう……それなら、ぼくも嬉しい」
アルスラーンがにっこりと微笑むと、も嬉しそうに笑う。
「それならあれから遊びに来なかったのは、なにか嫌なことがあったんじゃなくて、やっぱり忙しかったから?」
「そう!母さんが……エクバターナに来てからますます厳しくなったの。パルスのお客は教養が高い人も多いからとかなんとか言い出して……でもそんな偉そうな人には、お邸にお呼ばれしないと会わないのにね」
は肩を竦めて竪琴を爪弾き続ける。
それはあまり聞き覚えのない旋律で、どうやら異国の曲らしかった。
はそういう、偉い人のお邸に行ったこともあるの?」
「あるよ。父さんのお師匠さんが有名な楽士だったんだって。修行時代について回ってた頃の伝手があるって」
「へえ……」
アルスラーンは酒場の前で会った、気安くふざけていた男を思い出して、意外な思いで首を傾げる。
「どちらかというと、お母さんのほうが……」
怖そうだったけど、と後半の言葉を口の中でこねると、は声を立てて笑う。
「怖かったでしょ?母さんはね、本当に厳しいの。昔は神殿で女神官の見習い修行していた頃もあるんだって」
「神官見習いだったの!?」
妙な迫力の美女を思い出しすと、納得するような、意外なような。
「どうして辞めちゃったんだろう」
「深い意味はないんじゃない?女神官見習いは花嫁修業で辞めちゃう人も多いから珍しいものでもないって。でも母さんの場合は、花嫁修業より武者修行をしてたんじゃないかなーって思うよ」
「武者修行って……」
先日会った美女が武者修行と言われるほどの猛者だというイメージが結びつかない。確かに迫力はあったものの……だが思い返せば、に武術を教えているのは父親ではなく、母親という話だった。
そして、楽器は父親に学んでいると。
「それ、お父さんに教えてもらった曲?」
先ほどから緩やかに爪弾いている曲を訊ねてみると、は手を止めて頷く。
「うん。できるだけ多くの国の曲を、できるだけ多く覚えなさいって。どこに行っても、どんな曲を望まれても、ちゃんと弾けるようになったら、どんなところでも生きていけるからねって……でもパルスの曲はほとんど覚えてないの。変だよねー」
は笑って曲を変えた。
それはアルスラーンが知らない音律で、だが曲の調子は馴染みのあるものだ。
「それは、パルスの曲だよね?」
確信を持てないままに訊ねると、は肯定に頷いた。
「西のほうの子守唄の曲だって。これとか、あといくつかしかパルスの曲は知らないの」
「でもぼく、この曲は好きだよ。優しい音だね」
「子守唄だから」
緩やかに流れる音を聞きながらアルスラーンは隣の少女を覗き込むようにして首を振る。
「ううん、きっとが優しい気持ちで弾いてるからだよ」
は目を瞬いて、それから嬉しそうに笑う。
「ありがとう……嬉しいな」
それから何曲も、が知っているという曲を弾いてもらった。の技術はまだまだ拙いものだったはずだが、それが自分に向けてだけ爪弾かれたものだと思うと、どんな名手の演奏よりも貴重に聞える。
その中でも、アルスラーンにはパルスの地方の子守唄だという曲が一番耳に残っていた。







殿下は天然でサラリと気障なことをいう少年ですが、彼女もまだ子供なので
やっぱりサラリと受け取れる様子です。


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