この手に掴めるもの(2) 中天に輝いていた太陽が西に傾き夕日に変わる頃、最初にそろそろ帰ると言い出したのは誰だったか、のエクバターナ到着一日目の遊びの時間は終わった。 「はまた明日も遊べる?」 旅の空の話を一番熱心に聞いてたアルが小首を傾げて覗き込んできて、も軽く首を傾げた。 「うーん……きっと明日は無理だと思う。今日は稽古がお休みだったから母さんが竪琴とか琵琶の特訓だとか言いそうだし……踊りの稽古もあるし」 「そう……」 「でもエクバターナには長くいるつもりだって父さんたちが言ってたから、また遊んでね」 にっこりと笑って家路につく遊び友達に手を振ったは、ふと思い出して慌てて子供達を引きとめた。 「ねえ、西区のサルートってお店がどこにあるか知ってる?」 「うーん……知らない」 茶色の髪を揺らして一人が首を振って振り返れば、みんな横に首を振る。 養父が示した店は酒場だから、の年頃の子供が知らないのも当然だ。 「それならいいの。じゃあみんな、また今度ね」 西区の商業区域に行ってから聞けばいいとが手を振ると、みんな手を振り返して今度こそ家路へと着く。 そんな中、と同じくらいの大きさの手がきゅっと腕を掴んだ。 「お店は知らないけど、西区まで案内してあげる」 そう微笑んだアルに、は目を瞬く。 「アルは帰らなくていいの?」 「まだ日が落ちてないから大丈夫」 「……ありがとう」 本当は少し心細かった。 うっかり遊びに夢中になっているときは欠片も頭になかったけれど、行ったことのない店を初めて訪れた街で探すということに少し不安があった。アルの申し出はとてもありがたい。 夕日に照らされた街角を、アルとふたりで手を繋いで小走りに駆け出した。 「はいつも三人だけで旅をしているの?」 旅の話の途中、の口から聞けるのは母親と父親の二人しかいなかった。今まで遊んだことのある旅芸人の子供たちは、一座にいて色々な大人が登場することが多かったのにと、西区への道すがらのアルの疑問には大きく頷く。 「そうだよ。父さんが楽器の扱い方を、母さんが踊りと戦い方を教えてくれるの」 「戦い方?」 「そうだよ。あのね、旅を続けてると盗賊に襲われたりするの。だから最低限の護身は覚えなさいって。父さんも強いけど、剣術は自分でめちゃくちゃに覚えたんだって。だから母さんが教えてくれる。母さんは短剣と鞭が得意なの」 驚いたように聞き返したアルに、は鞭を振るうように手首を返す。 「それに鞭を使いこなすために手首を鍛えれば、踊りにも役立つんだって」 「楽しそうだね」 「楽しそうだなんて!大変なんだよ」 「ごめんごめん、違うよ。教わることがじゃなくて、お父さんやお母さんと一緒にいるのが楽しそうに聞こえたんだ」 アルはくすくすと笑いながら、膨れ面をしたを宥めようとする。 「はお父さんとお母さんが好きなんだなと思って」 「それは……ずっと一緒にいるんだもん。嫌いだったら大変だよ」 「いいな……」 聞こえた小さな呟きに、何がと聞き返す前に細い路地裏を抜けて大通りに出た。 日の落ちかけた露店街は多くの店が既に仕舞いになっていて、人の通りもあれほど賑やかだった昼間と違ってまばらになっている。 大通りに出れば大人に道を聞けばいいと簡単に考えていたは、驚いて思わずアルと繋いでいた手に力を込めてしまった。 「西区の商店通りはこっちだよ」 昼間とはまるで違う街並みは、この街で暮らすアルには慣れたものなのだろう。特に気に留めた様子もなく、立ち止まったの手を引いて歩き出す。 笑顔が似合う柔和な少年だと思っていたのに、心細くなったには半歩前を行くその背中がとても心強かった。 自分達が知らない店なら、自分達が普段は行かないところに行けばいんだと言うアルに引かれるままに歩いて大通りを下って行くと、次第にかがり火も華やかな通りに出た。 まだ完全に日は落ちていないがすでに通りには酒の匂いが漂い始め、店の呼び込みが街頭に出てきている。 少し大きな街で滞在した時に馴染みのある夜の街の風景に、はほっと息をついた。 見慣れた様子に近い光景に安心すると、今度はがアルの手を引いて街に立つ大人に声を掛けて店の場所を尋ねて回る。 それほど時間をかけることなく、店の場所はわかった。 教えられた通りに大人達の間をすり抜けて歩き、目的の店の看板が見えるとは喜んで振り返る。 「お店が見つかったよ!ありがとう、アル!」 「う、ううん……ぼくは別に」 「!」 養母の怒声には思わず飛び上がった。 今日友達になったばかりの少女は、ようやく目的地を見つけてにこにこと笑顔だったのに、怒ったような女性の声に飛び上がってぎゅっとアルスラーンの手を握り締めてくる。 「日が落ちる前に帰って来なさいって言ったでしょう!?」 「ま、まだ日は落ちてないよ!」 はそう反論して、すぐに青褪めてアルスラーンの手をぱっと放すと両手で口を塞いだ。 さっきまでしっかりと握っていた手が離れて、アルスラーンは繋いでいた右手を見下ろす。 温かかったものが無くなってしまった。 「はーん?口答えするのはどの口かね?」 店から出てきた女性は、口を塞ぐの頬をつねり上げる。 「いひゃいっ」 「初めて来た街で遊ぶには遅すぎるよっ」 「ご……ごめんなひゃい」 の口からようやく反省の言葉が出ると、よしと頷いてつねり上げていた頬を放した。 その女性の視線が、隣に立っていたアルスラーンのほうに向けられて、思わず背筋を伸ばしてしまう。 目尻と薄い唇に紅を引き、吊り気味の切れ長の目に迫力を感じる美女に上から見下ろされて、アルスラーンは気後れして挨拶が一瞬遅れた。 「あんたがこの子を連れてきてくれたの?」 「そうだよ、アルが西区まで連れてきてくれたの」 「アル?」 つねられた頬を擦りながらがそう告げると、白銀の髪の美女が首を傾げる。 「母さん、アルを送ってきていい?」 「え!?で、でも」 送ってきたアルスラーンが送られることになるなんてあべこべだと驚くが、の養母は当たり前のように頷いた。 「行っておいで。身なりのいい子が歩くには物騒な時間になってきてるからね」 アルスラーンが戸惑っている間に、少し冷たくなりかけていた右手を、またに掴まれる。 「行こ。アルのおうちはどっち?」 はアルスラーンの戸惑いなど意にも介さず元来た道を歩き出す。 「で、でも……」 「大丈夫だよ。お店の場所は判ったもん。帰りは迷わないから」 本当にいいのだろうかと振り返ると、の養母は戸惑うアルスラーンににっこりと微笑んで手を振ってくれた。 遊びの時間が終わってみんなと別れるとき、誰もが行く店を知らないと言うと少し心細そうに見えた。だからこそ、送って行こうと思ったのだ。 だけど、昼間とは雰囲気からして違う、夜の街に出るとは物怖じすることなく積極的に大人に声を掛けていて、その度胸に驚いた。 同じ歳頃の女の子よりも気後れしてばかりだと、アルスラーンの頬がうっすらと赤く染まる。 恥ずかしい。 「アルのおうちはどっち?」 「あ……こ、こっちだよ」 もう一度尋ねられて、アルスラーンは慌てての手を引いて半歩前に出た。 「……ねえ……はいくつになるの?」 「わたし?もう六つになるんだよ。アルは?」 「ぼくも……」 同じ歳だというのに、自分はこんなにしっかりとしているだろうか。 知らない街に一人で遊びに出かけ、道が判らなければ見知らぬ大人に声をかけ、酒気の漂う街角を平然と歩いている。 の手を引きながら、アルスラーンは自分を育てる乳母夫婦の言葉を思い出していた。 立派におなりになることを心から願っている、と。 の手の大きさはアルスラーンとそれほど違いはないのに、その掌は他の遊び友達よりも固い。 鞭と短剣の使い方も教わっているという話だった。 アルスラーンも最近、剣術を習い始めて短剣を握ることがあるが、あの冷たい鉄の感触はあまり好きになれない。 「は、武器を扱う訓練は好き?」 半歩後ろを歩く少女を振り返れずに訊ねると、考える間は一瞬のものだった。 「んー……嫌いじゃないよ」 「どうして?」 あれは人を傷つけるものだ。 必要だと言われ、アルスラーン自身も必要だと思うから学ぶことに異論はないが、好きかと問われれば嫌いに近い。 「だって今は盗賊に襲われたら、同行している隊商の女の人たちとまとめて後ろに隠されちゃうの。父さんと母さんは危ないことしてるのにね。隣で戦えたらなって思うよ。父さんや母さんだけが怪我をするのは、やっぱり嫌だよ」 「………そうか、は護るための力が欲しいんだね」 人を傷つけるためのものではなくて、人を守るための力を。 アルスラーンはただ鋼の輝きに冷たいものを覚えるだけで、そんな風に考えたことはなかった。 アルスラーンの解釈の意味がよく判らなかったのか、は軽く首を傾げている。 「はお父さんとお母さんが好きなんだね」 「アルはお父さんとお母さんが好きじゃないの?」 「ううん、好きだよ。優しい人たちだから……うん、きっと優しいんだと思う」 「きっと?」 「ぼく、今は人に預けられているんだ。自分達は乳母だって言ってる」 「アルも?アルも本当のお父さんとお母さんじゃないんだ?じゃあ一緒だね」 「一緒?さっきのお母さんは、の本当のお母さんじゃないの!?」 アルスラーンと乳母夫婦はよそよそしいとまでは言わないが、あんなに遠慮もなく怒鳴りつけたりつねったりなんてされたことはない。まるで本当の親と暮らしている他の友達の家庭のようだったのに。 「違うよー。わたし、拾われたんだって。生まれてすぐに一人にされたんだから、この先も一人でも生きていけるようになりなさいって言われてる。父さんも母さんもいるのに、よく判んないけど」 「それは……強い子になりなさいってことじゃないのかな?」 けれどの言うとおり彼女の養父母はまだ年も若かった。養女が成人するまでを充分一緒に過ごせそうなのに、随分と厳しい育て方に思える。 繋いでいた手をぎゅっと握られて、驚いて斜め後ろを振り返ると、は目を輝かせて弾むような足取りで半歩の距離を縮めた。 「すごーい!アルは頭がいいんだね!そっか、そういうことだったんだ」 尊敬するような眼差しを向けられて、アルスラーンはうっすらと頬を染める。 「そ、そんなことないよ」 「そんなことあるよ!わたしは難しいことはよく判らないもの」 「でもはたくさんのことを知ってるじゃないか。ぼくはエクバターナから出たこともないけれど、海とか砂漠とか」 「だってそんなの旅をしてるからってだけだよ」 「それがすごいんだよ。羨ましいな」 「……そうかな?そうなのかな?」 アルスラーンが頷くと、は嬉しそうに笑った。 「じゃあ、じゃあね、いつかアルも旅に行くといいよ。大変なこともたくさんあるけど、楽しいことも一杯あるよ」 「うん……旅か……いいな……」 「それまでにわたしはもっともっと旅をしてるはずだから、アルを案内してあげる。海でも砂漠でもきっと護って案内するよ」 「そう……できたらいいな。じゃあそのためにぼくも剣を頑張って学ばないといけないね。ぼくだってを護ってあげたいな」 夕日に照らされ石畳に伸びる手を繋いだ影を引き連れて、二人で未来の旅の予定を考えながら街路を駆けて行った。 |
子供の夢物語です。この時点ではアルスラーンに王族の自覚はまだないでしょうけれど、 自由が利かない身であることは感じているのではないかと。 それにしもて随分利発な王子様です(^^;) |