ゴーグル越しに見える世界は、最悪だった。
見上げる空は、分厚い雲に覆われた重苦しい鈍色と降りしきる雪の白。
見渡す周囲は、雪が横殴りに叩きつける白と灰色。
そして雪の中を歩くの心の中は真っ黒。
一時の感情でとんでもない事態になってしまった。おまけにヤンを巻き込んで。
まったく人が通らない場所に積もった雪は深く、気をつけておかないと一歩ごとに足が埋まってすぐに身動きが取れなくなる。ただでさえ重い荷物を背負っているのでなおさらだ。
「食料と水はあるから、今すぐどうこうというわけじゃない。だけど寒さは大問題だ。せめて風と雪を避けないとすぐに凍死……だ!?」
膝まで埋まりながら歩いていたヤンは、言ってる端からずぶりと太股まで埋まった。
は慌てて腕を引っ張って、ヤンがそれ以上沈まないうちに引っ張り出す。
「ど、どう考えてもあまり歩き回れませんね」
「うん……そうだね……」
僅かな距離を進んだだけですでに肩で息をしていた二人は、雪の上で汗を拭いながら左右を見回す。
「……この際、贅沢は言ってられないね」
ヤンが指差した方向に目を向けると、崖の岩肌に大きく窪んだ穴があった。



眠れない夜の話(4)



「この大きさなら二人くらいは余裕で入れるし、下手に歩き回って落下現場から離れすぎたり、更に避難場所が見つからないなんてなるよりは、ここでいいんじゃないかな」
洞穴というほどでもない、入るまでもなく奥が見える窪地をヤンが覗き込んだ。ヤンの胸辺りまでの高さの穴は、横幅も二メートルはないだろう。それでも座って並べば、荷物を入れても二人揃って避難はできる。
「防水防寒のシートを岩肌の隙間に挟んで穴の入り口を塞げば、かなりの保温ができそうだと……」
岩肌を探りながら提案していたヤンは、雪が詰まって凍っている隙間を見て溜息をついた。
「そうか……この気候だしなあ」
骨が折れそうだと溜息をつくヤンの横で、はすぐに背負っていた荷物を降ろして、小さく圧縮されていた防寒シートを広げながら腰の軍用ナイフを抜いた。
「判りました。じゃあ先輩は穴の中に」
「あ、いや、私もするよ」
後輩の準備の早さに、ヤンも慌てて荷物を降ろしてナイフを抜く。
シートを挟むのに良いだろう隙間のあたりを先につけてから、二人は左右から黙々とナイフの先を使って凍った雪を削り始めた。
四苦八苦しながら雪の上を歩いていたときとは違い、雪が背中に吹き付ける中で立ち止まっての細かい作業に段々と体温が下がってくる。汗をかいていたために、それはますます顕著だった。
隙間ができたところからシートの端を詰める作業を繰り返していたヤンは、ゴーグルを上げてを返り見る。
、先にうろに入って固形燃料を使って……」
このままでは作業が終わったあとに凍えてしまうと指示を出そうとしたヤンは、お互いの作業の進み具合を見て咳払いした。
ヤンの二倍くらい、のほうが作業が速い。
「……えー……うろの中を暖めておくよ」
「お願いします」
先輩が言葉に詰まったことには気づかずに、もゴーグルを上げて頷いた。
ヤンが窪地の表面にかけていたシートの端を持ち上げ荷物を引きずって中に入ると、はゴーグルを下げて作業を再開する。
からしてみれば、先輩と後輩、巻き込んだ者と巻き込まれた者、どちらの観点からいってもが外で作業をすることが正しい。それに機械いじりとは勝手が違うとはいえ、実働作業においてはヤンよりのほうが早いのだから、まさに適材適所だ。
「せめて、これくらい、は、役に、立たない、と!」
できた隙間にシートの端を詰めると、上から雪をつけて一緒に挟む。こうすることで後でシートごと隙間で凍ってくれるので、ちょっとやそっとの風ではシートが飛んでいかない。
ヤンの指示通りに大体の作業が終わった頃に、シートの一端が開いた。
、交代するよ」
「あ、大丈夫です。ここで終わりですから」
できるだけ風が入らないようにと、ヤンが開けたのと逆のシートの一端を、窪地の下の方まで岩に挟み込んで、はナイフをしまった。
「そ、そうか……じゃあもうすぐスープができるから、温まるといいよ」
「わあ!ありがとうございます」
指先まで冷え切っていたは、先を見越した先輩のありがたい配慮に、軍服の雪を払ってからシートをくぐった。
そこまで広い窪地ではないとはえ、熱源は携帯用の固形燃料で雪の吹き付けるシートが目の前にある。恐らく十分な温度が確保されているわけではないに違いないが、それでも風と雪が遮られ、地面には防寒シートが敷かれ、さらに火があって随分と暖かく感じる。
入り口にしてあるシートの一端に荷物を置いてこちらも風で簡単にめくれないようにしていると、スープを入れたカップをヤンが差し出してくれた。
「ご苦労様。ほとんどの作業をさせて悪かったね」
「そんな!元はといえばわたしのせいなんだから当然です!」
渡されたカップを受け取りながらが慌てて首を振ると、自分の分のスープを注ぎながらヤンは苦笑する。
「それもどうかなあ……突き詰めればあれは私のために怒ったのだから、私が原因と言えなくもないと思うけど」
「まさか!先輩は大人の反応で受け流していたのに、勝手に怒って勝手にわめいて、勝手に落ちたんですから……」
ヤンに非はないと断固として主張したは、その途端に自分の短気さを強調してしまってカップを片手に地面に手をついてうなだれる。
「本当に……先輩まで巻き込んでしまってすみません……」
「そう卑屈にならなくても。さっきも言ったけど、は私のために怒ったんだから。それは嬉しかったんだよ」
「でもあれは、今になって思えば火に油を注いだだけのような気が……」
「例えそうだとしても。は自分が理不尽に責められても、なにくそと跳ね返していたから、私のことであそこまで怒ってくれるとは思わなかった。私は別に大人の対応で黙っていたわけじゃなくて、腹は立ったけど争うのが面倒だっただけでね」
ヤンはおどけた様子で肩をすくめると、うなだれるの頭を撫でた。
「さあ、反省はもういいからスープを飲んで少しでも温まろう。風邪でも引いて熱が出たら大変だ」
「はい」
シートの上で並んで座ってスープをすすりながら、は火の向こうをぼんやりと眺めた。
色々と腹は立ったし、嫌いなことは嫌いだが、ワイドボーンの言ったことがひとつ正しかったことは証明された。
荷物は兵士の生命線。まったくだ。転がり落ちたときに荷物がどこかへいってしまっていたら、防寒シートも固形燃料も食料もなく、着用していた軍用ナイフと腰の水筒、それにいくつかの小物だけで彷徨うことになっていた。それでは間違いなく助からない。
助からなかった。
ふと浮かんだ言葉に、急に心臓が跳ね上がる。
荷物があるからとりあえず当座は凌げる。けれどそれもよくもって三日がいいところだろう。食料と水はまだしも、固形燃料が完全に尽きればどうなるのか。
心臓はどくどくと激しく脈打っているのに、体温は急に下がったような錯覚を覚える。
カップを握る手に力が篭って、スープの水面が波立った。自分が小さく震えているのだと気づいたとき、肩に重量が掛かった。
決して軽くはないシートを掛けられ、その下で肩に置かれた手に引き寄せられて、ヤンにもたれかかる格好になる。
「せ、先輩!?」
「残念ながら残る防寒シートは一枚しかないから、私と同居という形になるけど我慢してくれ」
「へ?あ、はいっ!こ、こちらこそとんでもないことですっ」
慌てて身体を起こして距離を縮めるように座り直して頷くに、ヤンは軽く吹き出した。
「なんというか、あれだね、は驚くとときどきおかしいね」
「先輩……」
こんな深刻な状況なだけに、笑ってもらえてよかったと思うべきかも知れないけれど、は顔を赤らめて息を吐いた。
震えていたことにヤンが気づいていたのか、気づいていたとしてひょっとしたら寒いだけだと思ったのかは判らないけれど、絶妙のタイミングだったことは確かだ。
二人で寄り添ってスープを飲んで温まると、湧き上がってきた弱気が影をひそめたのだから。


窪地の中がある程度は暖まり、スープを飲んで二人で防寒用のシートに包まって、だいぶ体温をあげてから、ヤンは固形燃料を一旦消した。
「最初のうちは節約しておこう。シートで保温性は高いし、また寒くなってから点けるということで」
そう言って窪地を覆ったシートを叩いて、積もっている雪を落としてから元の位置に戻ってと再びシートにくるまった。
「定期的にシートを払って雪を落とさないと。それにときどきは入り口が雪で埋もれていないか確認の必要もあるな」
夜を徹する作業になるのは間違いないが、それ以前に凍死の危険があるので眠るわけにはいかない。もし眠るとしたら、火を点けた状態で交互に起きておく必要があるだろう。
ヤンの指示に頷きながら、考えてはいけないと思いつつ、心の中で呟かずにはいられない。
「先輩がいてくれてよかった……」
「そう言ってもらえると光栄だね」
心の中で呟いたはずの言葉に返事が返ってきて、は目を瞬いた。
「………今、口に出してました?」
「うん。はっきりと」
「す、すみませんっ!」
は蒼白になってヤンに頭を下げる。
「こ、こんなことに巻き込んでおいてよかっただなんてーっ!」
「いや、別にそれは謝ることではないよ。この状況に一人で置かれたら、心理的にも追い詰められるだろうからね。一人より二人、心強いのは当然さ。独り言ではなく会話ができるというのも大きいと思うしね」
巻き込んだのにと激しく落ち込むに、ヤンは軽く苦笑した。
「どうせなら、私よりも頼りになる者のほうがよかったかもしれないが……」
「そんなことないです。こんなに早く避難場所を作れたのも先輩が指示してくれたからだし、避難場所を作ってからも埋もれないようにという配慮だって、わたし一人じゃ頭が回っていたかどうか」
部隊から一人はぐれて雪の上で呆然と立ち尽くす図が脳裏に浮かんで、は拳を握って力説する。
「それを言えば、私が一人だったら避難場所を作るのに三倍は時間がかかっているね。その間にどんどん凍えていただろう。下手をすれば中途半端に放り出して、シートに包まって凌ぐしかなかったかもしれない」
ヤンは笑って、の拳に手を重ねた。
「だから、二人でよかったんだ」
不覚にも泣き出しそうになって、は口を引き結ぶと拳に重ねられたヤンの手を、更に上から握り締めて、その甲に額をぶつける。
!?」
「すみません、少しだけ」
ヤンの仮定は無意味だ。もしも一人ではぐれることがあるとすれば、それはだけであってヤンだったはずはない。崖から落ちたのはで、ヤンは巻き込まれただけだ。
けれど、こう言ってくれるヤンの優しさは決して無意味ではない。
「……先輩」
「なんだい?」
上から掛けられた声は、優しい。
これ以上謝るのは、助かってからにしよう。ヤンだって何度も謝られても困るだけだ。
優しい人だから、許すしかない人に謝っても、楽になるのは自分だけだ。
俯いていた顔を上げ、拳と掌で挟んで拘束していたヤンの手を離す。
「力仕事と手先の仕事は任せてください。得意ですから!」
力強く宣言すると、驚いたように目を瞬いたヤンは、すぐに笑って頷く。
「それでこそだね。元気でいたほうがいいよ。気分が落ち込んでいたら、どんどんマイナス思考になっていくから。でも力仕事は分担だよ。手先のことは、私は不器用だから任せるしかないけど」
ヤンが笑って頷いてくれて、この答えで間違っていなかったのだと思うと、こんな状況なのに胸が詰まって涙が滲みそうになる。
けれど泣くのも謝るのも、すべては生還してからのことだ。はそう心に決めた。



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