事の起こりはヤン・ウェンリーとマルコム・ワイドボーンが二年次だった去年のこと。
その頃ヤンは戦史研究科のごく普通の学生で、ワイドボーンは戦略研究科所属の学年主席という、まるで接点のない関係だった。
十年来の秀才と教官たちに期待されていたワイドボーンは、その所属科専門教科の実技であるコンピューターを使った戦略戦術シミュレーションで、それまで負けなし、圧倒的勝利を収め続けていたという。
それが去年の前期試験で、ヤンに敗北を喫した。
ヤンは全兵力を一点に集中して、まずワイドボーンの補給線を断った。その後は防戦一方に徹し、ワイドボーンの様々な戦略を受け流して陣営深くまで撤退を繰り返した。
最終的に補給を受けられなくなったワイドボーンが物資不足に陥り退却すると言う形で、シミュレーションは終わった。
結果はコンピューター、教官、どちらの判定もヤンの勝利となり、矜持を傷つけられたワイドボーンは対戦相手を指差して罵った。
「まともに戦っていれば俺が勝ったのに、お前は逃げ回っていただけじゃないかっ!」
ヤンは反論しなかった。だが負けて逆上した上での言いがかりが、教官の心象を悪くしたのは確かだ。
ワイドボーンは総合成績の学年主席の座は守ったものの、そのときの戦略シミュレーションの成績はそれまでより順位を大幅に落とした。
そして翌年、戦史研究科の廃止にともない、ヤンは秀才ワイドボーンを打ち破った能力を買われて戦略研究科へ転属することとなった。



眠れない夜の話(3)



「……え、それだけ?」
そこから更に話が続くのかと待っていたは、これが先輩たちから聞いた話だと言って溜息をついた戦略研究科の同級生に、思わず聞き返してしまった。
「それだけって……主席だぞ?それまで負け無しだったのに、ぱっとしない科のぱっとしない平凡な相手に得意分野で負けたとなると、そりゃプライドも傷つくよ」
多少、他学科を下に見た発言が混じっていたものの、そこはも聞き流した。戦略研究科はいわば未来の提督候補を育てる科であり、士官学校の中でも特にエリートコースだ。入学卒業ともに一番難しい科であるだけに、教官たちの厳しさも期待度も段違いに高いのだから、そこの所属していればプライドだって高くもなるだろう。
だが……。
「だってそれじゃ単なる逆恨みじゃないの」
「うっわー……ってきついなー……」
「こっちは巻き込まれてるのよ」
「まあなあ、の立場だったら余計にそう思うよな」
は溜息をついて乗り出していた身体を引くと、空を見上げた。
「なんとも馬鹿馬鹿しいっていうか……迷惑っていうか……」
って、ヤン先輩や、ヤン先輩と同じで戦史研究科から転属してきたっていうラップ先輩と仲がいいんだろ?アッテンボローも戦略戦術は成績いいし、も良さそうだよな」
それはどちらかといえば羨望の言葉ではあったが、どこか卑屈めいた響きが混じっていて、は肩をすくめて軽く笑う。有名人と友達だからといって、同じ能力を有していると思われてはたまらない。確かに、教えてもらえることだってあるものの、人には向き不向きというものが存在することを忘れないでもらいたい。
「わたしの戦略戦術の成績は、初めて飛行訓練に挑んで失敗しかけた雛鳥のごとくよ」
「お前それ、墜落の危機じゃないか」
どっと笑いが起こった輪の外から、強く手を叩いた音が聞こえて、全員で一斉に立ち上がる。叩いた手を降ろして腕を組むと、ワイドボーンは軽く顎を上げて下級生を見回した。
「体力が有り余っているようで結構なことだ。余裕があるようだし、小屋で泊まるとは決めずに行けるところまで登るということでいいな?」
「だけどワイドボーン」
「いや、現時点では泊まると決めないだけで、実際現場に着く頃に限界だとみればそこで今日は行軍休止ということにしよう。それでどうだ」
反論しようとした同級生に折衷案を出すと、相手もそれで引いた。今後の方針が決定したところで、ワイドボーンが号令をかける。
「休憩は終わりだ。さあ進むぞ」
手を叩いて下級生に荷物を背負えと追い立てる。
……」
「え、わたしのせい!?」
体力の限界まで進むという決定に、同級生から一斉に目を向けられて、は驚いて自分を指差す。
「そうは言わないけど、お前が笑かさなきゃどうなるか判らなかったのに」
「言いがかりだ……」
地面に降ろしていた背嚢を背負って立ち上がるの肩を、同級生たちは軽く叩いて歩き出す。
本気でのせいだとは思っていないのはそれで判ったが、それでも叩かれる度に段々と右へ傾いてよろめいたを、出発の準備を整えたヤンが横について軽く手を添えた。
「どうしたんだい?出発だよ」
「あ、はい。行きます」
声を掛けられて気がつけば、最後になっていた。
ヤンは指名されて最後尾を任されているが、はそうではない。なのになぜか後ろから二番目が定着しているような気がする。
「いや、別に不満ってわけじゃーないけどさあ……」
たとえ仲のよい先輩や友達が近くにいたからといって、行軍訓練の何が変わるわけでもないので中ほどを歩いていっそ紛れてしまいたい。ワイドボーンが恨んでいるのはヤンであって、のことはそのついでにすぎない。
だが同級生より、下級生ののほうが当たりやすいのだろう。ここまでより多く何度も注意されたのはのほうだ。
「……こうなったら言いがかりもつけられないような完璧な演習にしてやる」
めげずに気合いを入れて踏み出したは、その独り言がヤンに聞こえて微笑を誘ったことに気づいていなかった。


実戦においての補給地点という設定で設置されている小屋が見えた頃には、ちらほらと降っていた雪が激しさを増し始めていた。ゴーグルを掛けていれば遠くまでも見えるが、雪に加えて風も強くなってきている。
ここで再び意見が分かれることになった。もっと吹雪いていれば先へ進もうという意見は出なかっただろう。あるいは、降雪量が少なければ先へ行くという結論でまとまっていたに違いない。
「これ以上進んで、吹雪が酷くなれば野営の準備も困難になる!」
「これぐらいの雪で野営できなくてどうする!」
「野営するより、小屋で一晩過ごしたほうが体力だって回復するだろう!?」
「ここは補給地点という設定なだけで、燃料も食料も置いてない。一緒さ」
「テントで寝るのと小屋で寝るのが一緒なわけないだろう!」
「じゃあ野営準備の訓練を一年にさせないままでいいと思っているのか!」
吹雪に負けないように大声で言い争う上級生たちに、下級生たちは小屋に手をついたり、足踏みをして寒さを凌ごうとしたり、とにかく背負った荷物を一旦降ろしたい衝動を堪えながら結論を待っていた。休憩との指示をされていない以上、背負った荷物を降ろすわけにはいかなかったからだ。
この際どっちの結論に達してもいいから、せめて小屋の中で話し合ってくれないものか。
小屋に入ればここで今日の行軍は終わりになるだろうことが予想できているためか、ワイドボーンたち行軍続行派はその場での話し合いに固執していて、たち口を挟む権利のない下級生はうんざりとして強くなりつつある吹雪を眺めるだけだった。
「この吹雪、絶対に酷くなるよな」
「ああー、ここで休みたい休みたい」
ぶつぶつと小声で願い続ける下級生の気持ちを代表するように、一度目の話し合いでは終始黙って話の成り行きに任せていたヤンが手を上げた。
「このまま吹雪が酷くなれば、我々はともかく一年次生たちの足は確実に鈍る。それにこうしている今でも酷くなりつつあるのだから、天候が今日中に回復することはないだろう。どうせそんなに先に進めないのなら、今日はここで終わるべきじゃないかな」
それまでの行軍続行反対意見と大きな違いがあったわけではない。だが意見したのがヤンだったことが気に食わなかったのか、それともヤンが休息を主張したことで反対意見が過半数に達したことがまずかったのか、ワイドボーンはカッとしてヤンを怒鳴りつけた。
「体力もない、要領も悪いヤンは黙ってろ!卓上の計算しかできないくせに、自分が休みたいからといって、一年に責任を被せた理論を振りかざすとは卑劣だと思わないのか!?」
「ワイドボーン!言い過ぎだっ」
他の同級生が二人の間に割って入ったが、ワイドボーンはヤンを馬鹿にして鼻で笑った。
「ああ、ヤンは卑劣という定義が俺とは違うんだったな」
キレるなと幼馴染みに忠告された。士官学校で上級生は絶対の存在だ。軍に正式に所属すれば、上官に対しての服従度は士官学校での上級生への比ではない。
だが自分が言いがかりをつけて怒鳴られていたときとは、一段違う怒りが湧き上がった。
は思わず吹雪の中に踏み出して上級生の輪へ歩み寄り、ワイドボーンの正面に回る。
「では班長の仰る卑劣の定義を教えてください!班を取り仕切る権限の元に、個人を誹謗することですか?それとも論点をすり替えて他者を貶めることですか!?」
!」
小屋のほうから蒼白になった同級生たちの声が聞こえたが、は鼻息も荒く目の前の上級生を睨みつける。
一瞬、ぽかんと口を開けたワイドボーンは、すぐにカッと赤面すると力を込めての肩を突き飛ばした。
「一年次のくせに、先輩に楯突くつもりか!」
「そうやって権力を嵩に着て……っ」
突き飛ばされて後ろによろめきながら反論しようとしたは、しかし足が止まらなかった。背嚢の重さにのけぞりながら一歩下がったら、そのまま重心を後ろに引っ張られて一歩、また一歩と後ろに下がってしまう。
「お、お、おおっと……」
軍靴は雪でも滑らないのだが、何しろこれはバランスの問題だ。総重量二十キログラムの背嚢がを後ろに引っ張り続け、慌てたように一番近くにいたヤンが追いかけてきて、の手を掴む。
!止まるんだ!」
「と、止まりたいのはやまやまなんですが……っ」
ヤンに引っ張られて、この一歩で止まれそうだと息をつきかけたその瞬間、踏みしめた雪の塊が崩れた。
「げっ……」
ヤンが百キロの荷物だろうと軽々と運べるような力の持ち主なら、どうにかなったのかもしれない。だが現実は無情だ。
腕を掴んで止めようとしてくれた先輩ごと、は雪の斜面に激しく叩きつけられるように落下して、そのまま雪煙を上げながら更に斜面の底へと滑り落ちてしまった。


大きな穴の開いた雪の塊から手が突き出して、周囲の雪を更に崩しながらどうにか赤茶色の髪が白い雪から這い出してきた。
「し、死ぬかと………」
降り積もっていた新雪の山から這い出したは、振り返ってまだ雪に埋もれているヤンの腕を掴んで引っ張る。
「先……輩……っ」
踏みしめた足が雪に埋もれていく。一旦背負っていた荷物を放り出してから、もう一度ヤンの腕を引っ張ってどうにか先輩の救出に成功することができた。
「ぷはっ!く、苦しかった……」
雪に埋もれて息が出来なかったらしいヤンが胸を押さえて深呼吸を繰り返し、首を振って黒髪を白く彩る雪を払い落とす。
その動作がまるで犬みたいで可愛い……と平時のなら思ったに違いない。
だが今は、斜面を転がり落ちて班からはぐれてしまった非常時だ。おまけにヤンまで巻き込んで。
「キレるなよ」
と最後に聞いた幼馴染みの忠告が頭の中で再生される。
「ダスティの忠告は正しかった……」
雪の上に座り込んでがっくりとうなだれるに、ヤンは斜面を見上げると吹雪でまったく上空が見えない状態に溜息をついて、の雪まみれのまま髪から雪を払った。
「怪我はないかい?」
最初の言葉が、迂闊なを責めるものではなくて、逆に気遣う内容にははっと顔を上げる。
ヤンは困ってはいたが、怒ってはいない様子で訊ねるように首をかしげた。
情けないやら申し訳ないやら、泣きたくなったは、慌てて目に力を入れて涙を堪えた。代わりに返事はおかしなものになる。
「は、はい……まったくもって健康です」
の返答に、ヤンは激しくむせるように吹き出して、咳をしながら笑う合間に雪に手を突っ込んで、残されていた軍帽を引っ張り出した。
「それはよかった。私もどうやら怪我ひとつしていない。よほど上手く滑り落ちたらしい。それに新雪の山に落ちたことが幸いしたかな」
軍帽の雪を払っての頭に被せると、ヤンも自分の軍帽の雪を払って辺りを見回す。
「さて、吹雪が酷くなってきた。滑り落ちた距離からいっても恐らく吹雪が止んでも、上に残っている学生だけで私たちの引き上げは困難だろう」
転がり落ちている間、死ぬかもしれないということだけで頭が一杯だったはどれだけ転がりおちたのかまったく判っていなかったが、ヤンに言われて慌てて斜面を見上げる。
斜面というよりほとんど崖のそれは、吹雪で五、六メーター先くらいまでしか見えないが、おそらくもっと高く上まで続いているはずだ。
蒼白になったは、まずそのまま雪に額を打ち付けてヤンに土下座した。
「すみません……!先輩まで巻き込んでしまいましたっ」
「うん、まあ……こんな崖の近くに休憩地点を作るほうもどうかしていると思うよ」
フォローのつもりなのか、慰めているのか、微妙に判り辛いことを言いながら、ヤンは土下座したの肩を軽く叩く。
「とにかく移動しよう。無線は上だし、地図も持っていないし、下手に動き回ると体力を消耗するだけだし……近くに吹雪を避けられる場所がないかだけでも探そう」




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