包帯すらも赤く染まった左手。 大切な、彼の左手が。 「ハインツ……?」 これは現実なのかと自問すると、答えは夢に決まっていると返ってくる。 こんなのは夢だ。 悪い夢だ。 だけど。 「……」 少女の声に反応したように、茫洋と天井を眺めていた視線がゆっくりと動く。 もうあまり見えてもいないという彼の虚ろな目に、青白い少女の顔が映る。 「―――――」 確かに彼の唇が動いたとわかったのに、紡がれた言葉は聞えなかった。 アンダンテ(1) 「やぁれ、やれ、やっと今日の仕事が終わったよ」 「お疲れ様でしたユーリ。夕食まで少し時間がありますが、どうしますか?」 凝った肩を解すように大きく回しながら部屋に戻った有利は、棚に置いてあるグローブに目を止めた。 出てくる答えはひとつだったはずなのに。 「んー……じゃ、メシの前にひとっ風呂浴びてくるわ」 口から出たのは違うセリフだった。 確かに現代日本人的有利はもともと毎日の入浴は欠かさないが、こうもことあるごとに風呂に入る習慣はもっていなかった。 日本でも、ここ眞魔国でも。 まるでシズカちゃんだと思いながら、有利は自己嫌悪に陥る。 シズカちゃんなら風呂好きで通るが、有利は風呂が好きなわけではない。 風呂に、期待してしまうだけのことで。 落ち込む有利にとてもよくしてくれている名付け親に、それでも日本に帰りたいのだと言っているのと同じだ。 だがコンラッドは心得たように頷くだけ。 「では湯殿までお送りします」 そんな優しさが、嬉しくもあり心苦しくもあった。 日本に帰れなくなって、ひと月が過ぎた。 魔笛も取り戻したし、不幸な境遇にあった女性たちも一緒に眞魔国までやってきて、万事が上手くいったはずなのに。 今までのように問題をクリアしたのに、日本に帰れない。 どうやったら帰れるのだろう。 自称婚約者のヴォルフラムは諦めろの一点張りで、周囲ほぼ公認本人否定の摂政グウェンダルは仕事をしろと言うばかり。王佐のギュンターは有利がずっと血盟城にいるという今まであまりなかった事態に舞い上がり続けている。 コンラッドだけが、なにも言わなかった。 むしろ、眞王廟に原因を問い合わせてくれたり、日本に戻りたいと癇癪を起こしても頷いて話を聞いてくれたり、有利の心情を慮ってくれる。 コンラッドの存在は、有利にとって救いでもあり、一面では一番後ろ暗くもあった。 こんなにも大切にしてくれているのに、それでも日本に帰りたいと言い続けることはひどいんじゃないか? コンラッドが外で控え、ひとりきりの脱衣所で学ランを脱ぎ捨てながら溜息が漏れた。 身体を洗うためのタオルと一緒に、今回日本から着てきた服の一式も掴んで浴室へ向かう。 いつ引き込まれてもいいように、湯船では端に入り服に手をかけているのだ。 ドアを開けて、いつでも暖かく湯気の立っている浴室へと足を踏み入れた。 自分専用だとわかっていても、かけ湯をしてから湯船に入ろうとして、硬直した。 湯船に人が。 ただ入っているならいい。魔王専用バスルームだと言われているが、こんな広くて綺麗な風呂を独り占めっていいのだろうかと考えてしまう小市民だから、そんなことくらいで咎める有利ではない。 だが、人が浮いているとなれば別だ。 服を着たまま。 なにかのケースをぎゅっと抱き締めて。 黒く長い髪が花弁のように湯船に広がっていた。 「コ、ココ、コンラッド!コンラッドぉーー!!」 思わず尻餅をついてしまった有利は、悲鳴のような声で絶対的守護者の名を呼んで助けを求める。 脱衣所に繋がる扉が開いて、その頼りになる姿が現れるまで五秒とかからない。 「どうなさいました!ご無事ですか!?」 「お、おれおれ、おれじゃなくて!お、女の子、女の子が!!」 有利が戦慄く指で湯船に浮かぶ黒髪の少女を指差すと、コンラッドは驚いたように目を見開く。 「黒髪、ですね」 「そうだけど!そうだけどさ!驚く箇所が違うだろ!?お、女の子が、し、しし……」 「死んで?まさかユーリ、近付いて確かめたんですか?」 「こ、怖いこと言うなよ!おれが死体に近づけるわけないっしょ!?」 「では死んでいるとは限らないのでは?」 コンラッドの冷静な指摘に目を瞬いた。 確かに、ここから少女までは三メートルと離れていないが、なにしろ湯気の立つ浴室でのことだ。呼吸しているかどうか、わからない。 「生きてるなら早く助けないと!」 今度は途端に少女に向かって駆け出そうとした有利を、コンラッドが慌てて引きとめた。 「俺が行きますから、ユーリはここにいて」 「だってコンラッド服が濡れるぞ?」 「服くらい着替えれば終わりですよ。それより正体不明の人物にユーリを近づける方が問題だ」 護衛の立場から言えば当たり前のことだろう。 有利の返事を待たずにコンラッドは服のまま湯船に足を踏み入れた。 有利が固唾を呑んで見守る中、少女を覗き込んで確認する。 「生きてますよ。ちゃんと呼吸もしています」 そう言って、少女を軽々と抱き上げて有利の元まで戻ってきた。 コンラッドの腕の中の少女は、確かに薄く呼吸を繰り返している。真っ黒な喪服のようなワンピースは濡れて身体に張り付いていた。 肝心な部分は抱えたケースで見えないとはいえ、身体のラインがそのまま出ていることに気がついて、有利は慌てて視線を少女の顔に戻す。 目を閉じているのではっきりとはしないが、多分日本人だろうと思う。少なくとも東洋系であることに間違いはない。有利と同じ年頃の少女。 暖かい湯船に浸かっていたはずなのに頬は血の気が引いたように青白く、その表情は決して安らかとはいえない。 むしろ、なにか苦痛に耐えているような。 「なにか言ってる?」 唇がわずかに震えているのを見て、耳をぎりぎりまで近づけてみたけれど、はっきりとした言葉を聞き取ることはできなかった。 「さあユーリ、あんまり近寄らないで。この子が何者かまだわからないからね」 コンラッドは有利から少女を遠ざけるように一歩退いた。 「だってその子日本人だろ?こっちで黒髪なんておれくらいのもんなんだからさ。スタツアしちゃったんだよ、きっと。日本人がおれになにかするはずないじゃん。逆におれが保護してあげないと」 「黒髪だから、こちらの人間ではないことは確かなんだろうけどね…それでも用心に越した事はないから。それでユーリ、そのまま裸でいると風邪を引くから、入浴の続きか服を着るか選んで欲しいんだけど」 そう言われてようやく自分が素っ裸にタオルと着替えを持っているだけだったことを思い出して、有利は奇声を上げながら慌てて脱衣所へと駆け出した。 「ああ、ユーリ!走ったらこけますよ!」 いくら血盟城内とはいえ、何者かわからない黒髪の少女を連れて歩くわけにはいかなかったので、コンラッドはとりあえず湯殿から近い空き部屋に運び込んだ。有利は自分の寝室を使えばいいと主張したが、それはコンラッドが許さなかった。 空き部屋のソファに少女の身体を降ろす。 「とりあえず、着替えですね。このままじゃ風邪を引いてしまう」 「あ、そっか。じゃあこの子はおれが見てるから、着替えてこいよ」 湯船に入り、しかも濡れた少女を抱きかかえたせいでずぶ濡れになったコンラッドを見て有利は気軽に請け負ったが、ものすごく呆れた顔をされた。 「俺のことじゃなくて。それに、ユーリと正体不明の女の子をふたりきりにするはずがないでしょう」 「ああ、そうか。この子も着替えないと……ってぇ!!お、お、おれはその、まだ彼女とかいなくって!お、女の子の服をぬが、ぬがぬがぬが脱がせたことなんて……!」 「ユーリにそんなことさせません。着替えは俺がさせますよ」 「ぎゃー!コンラッド、ハレンチ!それってハレンチだぞ!セクハラだ!」 「……わかりました。侍女を呼んできましょう。と、その前に」 コンラッドは少女ががっちりと抱え込んでいる布張りのケースに手を掛ける。 「これじゃ着替えさせられないでしょうからね……随分しっかり抱えているな」 意識がないはずなのに、コンラッドの力でも少女の手からケースを引き剥がすのに苦労した。 「大事なものなのかな……?バイオリンケースっぽいけど」 「多分そうだと思いますよ。一応中身は検めておきましょう。武器が入っているといけない」 「だからさ、なんで日本人がバイオリンケースに武器なんて入れて持ち歩くんだよ!」 床に降ろしたケースの蓋にコンラッドが手を掛ける。 「……どしたの?」 手を掛けたまま、蓋を開けようとしないので有利が首を傾げると、コンラッドは難しい顔でケースから手を離した。 「鍵がついているようには見えないけど、開かないんです。なにか細工を施している箱ですね……」 「……そんな細工してあるもんなのか、楽器のケースって?」 コンラッドの眉間に、彼の兄と同じような皺が寄る。 「……ユーリ、やはりこの子が何者かはっきりするまで、離れていてください」 「え!?ひょっとしてそれだけで危険人物扱い!?そりゃちょっと短絡すぎるだろ!」 「ん……」 有利の声に反応したように、ソファの少女がぴくりと震えた。 身を乗り出そうとした有利と対照的に、コンラッドはできるだけ有利を少女から遠ざけようと腕を上げて前に出ないように制する。 「おいコンラッド!」 「だめです」 軽くもめている間に、少女の睫毛震えてゆっくりとその瞼が開いた。 「……黒だ」 有利がぽつりと呟く。 少女の瞳は、間違いなく黒だった。 「双黒か……」 コンラッドの声に深刻さが増す。 まだ焦点の定まらない瞳は、呆然とする有利と厳しい表情のコンラッドをただ映しているだけのようだった。 少女の手が動く。 コンラッドが更に有利を遠ざけようとした瞬間、少女がソファから飛び起きた。 「Geige!」(バイオリン!) 驚く間もない。 有利は目の前のコンラッドの手が剣の柄を握ったのを見て、慌ててその腕に抱きつく。 「ま、待て待て待て待て!」 そんな有利もコンラッドも目に入っていない様子で、少女はコンラッドの足元のケースに目を止めた。 さっと顔から血の気が引いたように青くなり、ソファから転がり落ちるようにして、剣を手にしているコンラッドの直ぐ前に駆け寄る。 その手がケースに掛かった途端、コンラッドはケースを蹴り飛ばそうとした。 「わー!ちょっと!」 さすがに腕を掴みながら蹴りまで阻止することはできない。 コンラッドの爪先がケースを蹴り飛ばして少女の手から遠ざける前に、それに気付いた少女がケースを庇うように抱え込む。 「危な……っ」 有利の警告は間に合わなかった。 コンラッドの足はケースではなくて少女の脇腹を強かに蹴り上げる。 有利よりも小柄だった少女は、その一撃でケースを抱えたままソファまで転がった。 警告もなしに少女自身には攻撃を加えるつもりではなかったコンラッドも、さすがに驚いたように一瞬動きを止めた。 「だ、大丈夫か!?」 それでも、有利が無防備に少女を心配して駆け寄ろうとすると、慌てて腕をつかんで引き寄せる。 「だめです、ユーリ」 「あんたな!あんなか弱そうな女の子を蹴るなんて!まして腹だぞ!?女の子の腹を蹴るなんて最低だ!」 「俺もあの子自身を蹴るつもりじゃ……」 苦い顔をしたコンラッドは少女の動きに気付いて有利を庇うように、自分の後ろの強引に引き摺った。 引き摺られながら有利に見えたのは、ケースを開けた少女の姿だった。 恐らく痛みにだろう。少女は顔をしかめながら、そこからバイオリンを取り出す。 「……やっぱり楽器じゃん」 強引に引き寄せられて転びそうになりながらコンラッドの腕にしがみつくと、ほっと息を吐いた。 「ほらみろコンラッド、ただの楽器じゃないか。それなのにあんたときたら、斬りつけようとするわ、女の子の腹を蹴るわ」 「俺は陛下の護衛ですからね。少しでも危険の可能性があれば、すべて排除しますよ」 言いながら、コンラッドはまだ油断なく少女を観察している。 楽器の型をした武器の可能性でも考えているのか、と有利が呆れて言う前に、少女が小さくなにかを呟いた。 「え、なに……?」 そのまま震える手でバイオリンをケースに戻して蓋をすると、糸が切れたマリオネットのように、ケースに静かに倒れこんだ。 |
眞魔国へ到着…とはいえ気絶してばっかりなので、トリップした自覚はまだないですね。 途中にある英字はドイツ語で、単語の後ろを反転で日本語が出ます。 ちなみにGeigeは「バイオリン」。 ドイツ語の単語はこれからもちょろっと出てきますが、信用しないでください。 和独辞書に頼っているだけですので(^^;) |