「お兄様」 鳥の囀りよりも美しい声でそう呼ばれると、心が弾んだ。 多くの侮蔑や嫌悪に晒される身で、綻ぶような笑顔に曇りない愛情を向けてくる存在を愛しく思わないはずがない。 白金の髪を風に弄らせ力いっぱいに駆けて来る、その小さな身体を抱き留める瞬間がなによりも好きだった。 その笑顔を護れるのなら、どんなことにでも耐えよう。 俺の可愛い、誰よりも愛しい……妹のために。 「」 柔らかい声で名前を呼ばれることが幸せだった。 その声を聞くと胸に温かい何かが灯るようで、くすぐったくてだけど気持ちがいい。 生まれたときから傍にいて、誰よりも優しく、そして深く愛してくれたその人を、愛しく思わないなんてことがあるでしょうか。 太陽の下にいる姿を見つけて駆けて行くと、しっかりと抱き締めてくれた。 見上げる茶色の瞳には優しい銀色の光が混じっている。 その笑顔を見続けることができるなら、どんなことでもいたしましょう。 わたしの愛しい、大切なお兄様。 沈黙の花(1) 渋谷有利はほとほと嫌気が差していた。 今日からあなたは魔王です、なんて言われて不運に頭を痛めて悩ませて、更には長時間の乗馬で人に言えないところに襲ってくる痛みに堪えながら王都についたら暴走馬に振り落とされた。 どこまでついていないんだと意外に痛くなかった腰を擦りつつ起き上がると、柔らかな花の匂いを鼻腔に感じた。そして、華奢な指にそっと手を取られる。 「お怪我はありませんか、陛下?」 地面に座り込む有利に合わせて膝をついて覗き込んできたのは、今までの長くない人生の中では見たこともないほどの美少女だった。 零れ落ちるんじゃないかと思うくらい大きな青い瞳に、形のよい通った鼻筋、赤い唇に小さな口、透けるような白い肌。肩からは白金色の柔らかそうな髪が流れ落ちる。 「ええええ!?だ、ダイジョウブですっ!」 至近距離で心配そうに首を傾げる少女に、有利は慌てて立ち上がる。 「!そいつから離れろっ!」 少年らしいアルトの怒鳴り声に少女の肩越しに後ろを見ると、ゴッドファーザー愛のテーマが似合いそうな迫力の男と、ウィーン少年合唱団のOBに見えそうなこれまた美少年が不審と怒りを込めた視線で有利を睨みつけていた。 「そんな知性も威厳も欠片もないような、薄汚い人間もどきに触るな!」 「お兄様!陛下に対してそんな言葉、失礼です!」 いきなりの展開についていけずにただ呆然とする有利の前で、キャンキャンと咆える美少年を、少女がぴしゃりと叱りつけた。なるほど、少年のほうは明るい色のハニーブロンドだが兄妹なのかと、美しい兄妹に感心する。 「の言うとおりです!ヴォルフラム、陛下に対する暴言は許しませんよ!」 暴走馬においていかれた王佐がようやく追いついて美少女の……むしろ有利の味方をして、馬を降りた護衛の男が泥のついた有利の尻をはたく。 「大丈夫ですか陛下。お怪我は?」 「ヘーキ、ヘーキ」 有利が軽く手を振って無事を示していると、後ろで少年が足を踏み鳴らした。 「!そんな奴らの傍に寄るな!兄上もを叱ってください」 「ヴォルフラム!陛下への暴言は慎みなさいと言っているでしょう!それにコンラートをそんな奴などと悪し様に言うのもおよしなさい。仮にもあなたの兄上ですよ!」 王佐の言葉に、有利は振っていた手を止めた。 「……兄上?」 少年を振り返り、目の前の爽やかな茶髪の男を見上げて、また振り返る。その少年の横には迫力の黒に近い灰色の髪の男。 「ええ、俺とこのとあちらの金髪のヴォルフラムと不機嫌そうな男のグウェンダルは兄妹です」 にこにこと少女の肩を抱き寄せて言われた説明に、四人を順番に見比べて、思わず指差しながら絶叫した。 「に、似てねぇー!?」 ヴォルフラムという少年は最後まで妹を呼び続けていたが、彼女がまったく言うことを聞かないどころか自分を完全に無視している状態に腹を立てて、ほとんど無言のまま立ち去った兄と一緒に姿を消した。 王佐のギュンターもこれからのことでなにやら準備があるとかで先に城内に消え、残ったのは護衛であるというウェラー・コンラートと初対面の美少女。 少女は膝を下げ腰を曲げて、有利に向かって頭を垂れる。 「陛下、ご挨拶が遅れました。わたくし、フォンビーレフェルト・と申します」 「ご、ご丁寧にどうも……え、えっと顔を上げてよ。おれは有利。渋谷有利です」 同年代の少女にこんな挨拶なんてされたことのない有利が慌てて頼むと、曲げていた腰を伸ばしてにこりと柔らかく微笑む。その笑顔に顔を赤くする有利に、身体を下げて道を開けた。 「お目にかかれて光栄です。さあ陛下、どうぞ城内へ。血盟城は陛下の城ですけれど、初めてでいらっしゃいますから、僭越ながらわたくしがご案内いたします」 「ど、どうも」 「じゃあ、後は任せた。俺はノーカンティーを繋いでくるよ」 「はい、お兄様」 「ま、待った!」 馬の手綱を引いてどこかへ行ってしまおうとしたコンラートの服を慌てて掴んで引っ張る。 「こ、こんな美少女といきなり二人にされたら困るよ!緊張するよ!」 本人には聞こえないようコンラートの肩を引いて耳打ちすると、少女の兄は嫌味のない笑顔で頷いた。 「ええ、可愛いでしょう?自慢の妹です」 「いや……だからそういうことじゃなくてさ……そんな可愛い妹をいきなり野郎と二人っきりにして心配はないのか、お兄さん?」 切り口を変えて攻めてみるが、コンラートは顔色ひとつ変えない。 「大丈夫です。ももう七十五歳ですから分別を弁えていますよ。いきなり陛下を襲ったりしないから安心してください」 「そりゃ心配が逆だろ!?普通は妹が襲われるほうを心配するもんだろ!いくら七十五歳でも………え、な……七十五ぉ!?」 驚いて仰け反りながら叫ぶと、最後の数字だけは聞こえていた少女は笑顔で首を傾げている。有利の視線と自分の年齢の数字で、話題が自分のことだとは判っているのだろう。 「魔族はだいたい見た目に掛ける五倍の年齢だと思ってください。さっき騒いでいたヴォルフラムも八十二歳ですよ」 「はち……っ」 同年代に見えた少女と少年のとんだ実年齢に、有利は目眩を覚えて頭を抱える。 「年齢まで見た目の五倍ときたもんだ!これで夢じゃないなんて……夢じゃないなんて……」 その場でしゃがみ込んで膝を抱えそうな勢いでぶつぶつと独り言を漏らす有利に、コンラートは額を押さえた。 「判りました、俺も同行しますから落ち着いて」 「そ、そういう問題じゃなかったんだけど……お願いします」 は話の過程はともかく、兄も一緒に行くということは判ったらしく、嬉しそうに顔を綻ばせて案内に立った。 弟と違って妹のほうは、お兄ちゃんが大好きらしいと案内する少女について歩きながら、ここに勝利がいたら泣いて羨ましがりそうな状況だと後ろの男を振り返る。 こちらもやっぱり可愛い妹を愛しそうな目で見ていたが、有利の視線に気付いてすぐに卒のない笑顔に戻った。 「どうかしましたか?」 「いや……別に」 妹を見る目が、夢見がちな自分の兄の熱望するようなものとは違うような気がして、その違和感に首を傾げただけだ。 だがそれも実物の妹がいる身と、妹という存在に夢見ている身の差だろうと深く考えず、王の部屋だとだだっ広い二間続きの部屋へ案内され、それからまず旅の疲れを癒してくださいと湯殿にまで連れて行かれた。 脱衣所に入る扉の前まで美少女に送られて、深々と頭を下げるという見送りをされるなんて経験、もちろんあるはずもない。 二人ほど既に有利に対して大いなる反感を持っていそうな人物とも遭遇したが、頼りになる男と可愛い美少女は自分を歓迎してくれているらしい。 味方側に可愛い女の子がいることに浮かれながら制服の学ランを脱ぎ捨てたところで、有利は着替えを持ってきていないことに気がついた。 「おっと、着替えを貸してもらわないと」 自分の城だと言われても、いまいち実感の湧かない有利はあくまで城のものを貸してもらうという考えが自然に出てくる。 廊下に続く扉に手を掛け、薄く開いたところでコンラートに掛ける声を飲み込んでしまった。 「ご無事のお帰りでよかった……」 「は心配性だな。俺はただ陛下を迎えに行っただけなのに」 なんてことはない、ただの仲のいい兄妹の会話に聞こえる。 言葉は確かにそうなのに、だけど何か立ち入ってはならない雰囲気を感じたのは何故だろう。 少女は両手を揃えて軽く握り合わせ、幸せそうな笑みで兄を見上げている。 男は腰に軽く片手を当てて楽な姿勢で、柔らかな光を湛えた目で妹を見下ろしている。 それだけだ。それだけなのに。 「わたしはいつでも心配なんです。いつかみたいに、旅に出たままずっと帰ってきてくださらないんじゃないかって」 横に下ろしたままだったコンラートの手がぴくりと震えて、ゆっくりと持ち上がる。 妹を見下ろしていた柔らかな笑みが消えて、はそろりと近づいてい来る兄の手に気づくと、表情を変えた。 赤い唇をきゅっと横に引き、兄を見上げる瞳に熱が篭る。 ゆっくりと大きく武骨な手が少女の髪を掠め、その頬に触れようとして、寸前で止まった。 何かを期待するような目の少女に、苦い笑みを浮かべる。 「もう、そんなことをするはずがないだろう?ようやく陛下がお帰りくださったのに、城を空けるはずがない」 少女は一度顔を伏せると目を閉じて唇を噛み、そして再び兄を見上げたときにはまた微笑を浮かべていた。だけどそれは、先ほどまでの幸せが溢れたようなものではなく、見ている有利の胸までがぎゅっと掴まれたように切ない。 「ええ、そうですね。陛下のご帰還をずっと楽しみにしていたお兄様ですもの」 握り合わせた手が微かに震えていると有利が気付いた時、二人の向こうに人影が見えた。 コンラートは廊下の向こうに現れたメイドを見て、すぐに踵を返した。 「それじゃあ俺は汚れた服を着替えてくるから。陛下の御前でいつまでも薄汚れているわけにもいかない。ここは頼んだよ、」 「はい、お兄様。お任せください」 が兄を見送ると、コンラートとすれ違ったメイドが黒い服を手にすぐ傍までやってきた。 「陛下のお召し替えの衣装です」 「ご苦労様」 なるほど、着替えは取ってこなくても持ってきてもらえたのかと感心した有利は、慌てて脱衣所の中ほどに駆け戻る。 ただの兄妹の会話を聞いてしまっただけなのに、なぜこんなに後ろめたいのだろうと首を捻りながら。 |
この時点では、有利にとってコンラートもまだそれほど近くない存在です。 だからこそ兄妹間の関係に微妙な違和感を覚えることも。 |