開いた扉に有利が顔を上げると、しばらく出しっ放しにしていた資料を書庫に戻しに行ったコンラッドが部屋に入ってきたところだった。 「お帰りー。お疲れさん」 「遅くなりました」 「あー、いいって。結構量があったもんな」 「いえ、それが書庫でに会ったので、部屋まで送ってきたところなんです」 「と?」 有利は首を傾げて目を瞬き、ソファーでお菓子を食べてくつろいでいた村田の振り返った視線には気づいていたが、コンラッドはそれらに反応は返さず、自分が不在の間に戻ってきていた王佐を見て呆れたような溜息をつく。 「ギュンター。に課題を出すのはいいが、課題のための参考資料を間違っているのはどうかと思うぞ」 「は?課題というと、なるべく実地で歴史を学ぶためとお出しした年表作成のことですか?」 「そう。子供向けの演出過多の伝記は歴史を学ぶことには役立たないと思うが」 この国の歴史に興味を持ってもらうためならともかく、とに渡した本のタイトルを告げられたギュンターは思ってもみない話だったようで、自分の失敗に悲鳴を上げる。 「い、今すぐ正しい書物を殿下にお届けしなくてはっ!」 「それは俺がやったから、行かなくていい」 コンラッドは執務室を飛び出そうとしたギュンターの襟首を掴んで引きとめた。 林檎に魅せられし者は(5) の制止を、まるで無視するつもりではなかったのだが、結果的にはそうなってしまった。 罪悪感がまるでないといえば嘘になるが、それでもついほっと息をついたところで、抱き上げていた恋人に名前を呼ばれた。 「……コンラッド」 解放後の余韻に浸っていたコンラッドが恐る恐るその様子を伺うと、涙目で睨みつけられる。 「いや、だから俺も必ず避妊具を持ち歩いてるわけじゃないから……」 書庫で偶然会ったに求められたのは、コンラッドにとっても予想外のことだったのだ。 ここではあっさりと振舞うことで、後でにより自分のことを求めてもらえればと思っていただけで。 転がり込んできた幸運を見逃せずに、つい本当に手を出してしまったわけなのだが。 頬にキスを落としながらそう言うと、思い切り耳を引っ張られる。 「キスで誤魔化さないの!」 「いたたっ、誤魔化してるわけじゃないよ」 「こないだ有利に怒られたばっかりなのに!」 「うん、でもあれで確信を持ったこともあって」 ゆっくりと降ろされて床に足をつけたは、膝が震えてよろめきながら後ろの書棚にもたれかかった。転ばないようにとコンラッドが手を伸ばすと、自分の腕の中へと引き寄せる。 「もしも子供ができたとしたら、それはものすごくお叱りを受けるとは思うけど」 「そうなったら今度こそすごいことになりそうな気が……」 「けど、の子供の父親なら、国外追放なんてことにはならないとの確信は持てた」 だったらお叱りくらいはなんてことないよ、と撫でた髪にキスをされて、は唖然として恋人を見上げた。 「結果有利が許すなら、わたしの意志は無視ですか」 が頬を膨らませてぼやくと、コンラッドは乱れた服装を整えながら苦笑する。 「そんなつもりはないよ」 「じゃあどんなつもり?……それは……ここでって誘ったのはわたしだけど……」 不平を漏らしながら、自分で言ったことを思い出したのかは顔を赤くして拗ねたようにコンラッドを突っぱねて他所を向く。 「持ってないって最初に判ってたら、我慢したのに……」 「俺としては我慢して欲しくなかったというか」 「な・に・か?」 じろりと睨みつけられて、コンラッドは両手を上げて降参の仕草をする。 「いや、申し訳ないとは思うよ。思うけど……やっぱりとの子供が欲しいなって」 「だ、だからそれには時期ってものが!」 「うん……ごめん……俺の勝手だ」 眉を下げて、本当に申し訳なさそうな顔をされると、しらばっくれて笑って誤魔化されるより、ある意味では始末が悪い。 「……わ、わたしだって最初に確認しなかったのが悪いんだけど……」 こういう態度がよくないのだと知りながら、つい矛先を下げてしまう。こういう問題は、毅然として挑まなくてはいけないのが鉄則だと、徹底できないならそれこそ結婚かあるいは自分で問題ないと思える時期までは自粛するべきだと、そう判っているのに。 バツが悪く、顔を逸らしながら背中を見せて書棚の間から抜けようと歩き出すと、すぐに後ろからそっと抱き締められる。 「子供が出来たら、その子が産まれるまではがずっと傍にいてくれるんじゃないかとか、があちらにいるときでもその子が俺の傍にいてくれるとか……色々と考えてしまって」 後ろから抱き締めてきたコンラッドの手に、自分の手を添えようとしていたは、思ってもみなかったコンラッドの本心に驚いて大口を開ける。 それはつまり、子供ができたらそのときはそのとき……というより、できて欲しいと思っていたことになるのではないだろうか。 「……前々から密かに思ってたけど……」 は後ろから抱き締めてきたコンラッドの手を上から握って、軽く溜息をつく。 「コンラッドって、結構怖い人だよね」 「う………ごめん……」 軽く首を巡らせて後ろを振り返ると、言葉に詰まった様子のコンラッドは眉と口の端を下げて落ち込んでいた。の都合をまったく考えない身勝手さを責められたと思って反省しているのだろう。 ある意味では間違ってはいないが。 これでコンラッドが犬だったら、耳と尻尾が垂れ下がっていそうだと、日本の自宅で待つ二匹のお座敷犬を思い出しながら、は抱き締めてきたコンラッドの手を軽く叩いて払う。 「離れてる間に寂しいのはコンラッドだけじゃないのに」 「え?」 「赤ちゃんが産まれたら、日本に戻ってる間のわたしの寂しさは二倍になるって言ったの!」 「それは……」 何か言おうとして、結局なんの弁解の言葉も出てこなかったようで、コンラッドはガクリとの肩に額を落とした。 「ごめん……そうだね……そうなったら、母親ののほうがよりつらいか……」 は顔のすぐ横に置かれたコンラッドの近すぎる横顔をちらりと見て、天井を見上げる。 コンラッドを戒めるために口にした話は、今まではまだまだ先のことだし、あまり考えないようにはしていた。だがかなり重要な問題だ。 二つの世界を跨いで暮らしているは、コンラッドとも定期的に離れなくてはいけない。 今はそれが寂しくても、お互いにただ寂しいことを我慢するだけでいい。 けれど結婚して夫婦になって、さらに子供が産まれた後もあちらとこちらの往復をしなければならないとなれば、我慢だけの話では済まない。 夫と子供を置いて妻だけ里帰りなんてこと、子供がある程度成長してからならいいけれど、まだ幼いうちはできることなら繰り返したいことではない。 「妊娠と出産だって大問題だけど、こっちはさらにずーっと続く話だしね……」 「?」 再び溜息をついたは、呟きを聞いて顔を上げたコンラッドの鼻を軽く摘んだ。 「まだ時期尚早だって言ったんです!」 「ハイ……」 から離れると摘み上げられた鼻を押さえて粛々と頭を下げたコンラッドに、は腰に両手を当ててよしと頷く。 なんとしてでも、いつか世界の移動を自分の意志でできるようにすること。 これがまだコンラッドには内緒の、にとっての大きな課題なのだ。 「……待っててね」 「え?」 小さな呟きに顔を上げたコンラッドに微笑んで、はくるりと背を向ける。 「なんでもない」 もしこれが、どうにもできない問題だったとしても、コンラッドと別れる気なんてにはサラサラない。きっとコンラッドもそうだと思っていた。思いたかった。 有利に二人の関係の進展度を知られたときにも言っていたけれど、子供ができたらが不在の間は自分が育てると、コンラッドは迷いなく当たり前のように、がこちらにいない間のことも折込み済みで結婚すると、ずっと傍にいるのだと、言ってくれる。 異世界との往復に、怖い兄もいて、それでもそんなことは問題ではないと。 多少理不尽なことを言われても、それだけで満たされてしまう。 「……コンラッドって怖いよね」 「ごめん」 そう謝ったコンラッドは、が言った怖いという本当の理由は判っていないだろう。 何があっても、少々無理を言われても、つい愛しくなってしまう、そんな愛情深いところが怖いだなんて。 踵に体重を乗せてくるりと振り返ったは、頭を下げていたコンラッドの腕に甘えるように頬擦りして抱きつく。 「ごめんね、意地悪して。わたしだって最初に確認しなかったんだから、コンラッドばっかり責めてちゃだめなのにね」 「そんな……そんなことはないよ」 有利に言われたことではないけれど、を諭すのだって年上のコンラッドがすべきことだ。 そこを逆に誘惑しているのだから、怒られる理由はあると思う。が自分こそが上手く誘惑されたのだということに気づいていないだけで。 そう言いながらも、コンラッドは嬉しそうに頬を緩めて腕に抱きついたの背中に、もう一方の空いていた腕を回して、その細い身体を抱き締めた。 書庫の蔵書の中から、ギュンターの課題に役立ちそうなものを選んで棚から抜き出したコンラッドは、その数冊を片手に書庫の扉に手を掛けた。 「部屋まで送るよ」 「大丈夫だよ。結局、本選びまで一緒にしてもらって十分遅くなっちゃったし、早く戻らないといけないんでしょ?」 が廊下に出ながら本を受け取ろうと手を差し出すと、無人になる壁のランプの明かりを消して書庫の扉を閉めたコンラッドは、手にした本がには届かないように軽く上に上げて笑う。 「それは大丈夫。素直に、に役立つための本を選んでましたと説明するから」 「……素直に、ね……」 確かに本も選んでいたから、嘘にはならない。ならないけれど。 「有利と顔を合わせるのが、また恥ずかしくなってきた……」 足音の響く地下の廊下を歩きながら両手を頬に当てて呟くに、コンラッドは苦笑して軽くその背中を叩いた。 「陛下はまだお仕事だし、もギュンターの課題があるだろう?顔を合わせるまでにはまだ時間があるから」 「……コンラッドはこの後すぐ有利と会うんだよね」 コンラッドまで動揺しているようなら、今回の騒動がなくてもとっくの昔に有利に知られていたような気もする。けれどだからといって、どこまで進んでいるかを有利が知っていると判っている状態でも、涼しい顔で戻れるところがには信じがたい。 「恥ずかしいとか、またバレちゃったらどうしようとか、そういうのは考えないの?」 「恥ずかしいとは思わないなあ。それにもし陛下にもう一度気づかれたら……」 コンラッドは階段を登りながら、の肩を抱き寄せて軽く笑って首を振る。 「また謝るしかないね」 「爽やかに笑って言ってることが酷いよ、コンラッド!」 思わず恋人に突っ込んだだったが、すぐに小さく咳払いして呟く。 「……まあ、わたしだって同罪なんだけど」 呟きながら、有利に対して罪悪感が僅かに膨らんだ。 「有利が心配してくれてるのは判ってるんだけどな……」 頬に軽く手を添えて溜息をつくに、コンラッドは肩を抱いた手に力を込める。 「まあまあ。ほら、いけないと思っていることのほうが人には魅力的だって、よく言うじゃないか」 「ええ……そうね、すごく自己弁護くさいけど」 「誘惑に打ち勝つのも確かに価値はあるけど、たまにはそれに素直に乗るのも悪くないと思うよ」 「……たまには……ですか」 階段を登りきると、日の光が差し込む明るい廊下に出た。 見上げた恋人の笑顔も、やっぱりには眩しいくらいで、なんとなく抱き寄せられていることが急に恥ずかしくなる。 とにかく明るい場所に出たからと、肩を抱いた大きな手を丁寧に下ろした。 「たしかに、いけないと思ってても魅力には勝てないんだよねー……」 の独白の意味が判らなかったようで、コンラッドは笑顔のままで首を傾げる。 「コンラッドって、天然で美香蘭をつけてるんじゃないかしら」 口の中で小さく呟きながら、次こそ自分の欲に流されないぞと決意を固めて手を差し出した。 「やっぱりここで……」 「さあ、行こうか」 本を渡してもらってここで別れようと手を差し出したの言葉を無視して、コンラッドは有利の執務室とは反対方向に歩き出した。 「殿下の……殿下の勉学については私の領分ですのに……コンラート、余計なことを」 に渡した本が間違っていたとの指摘を受けて慌てていたはずのギュンターは、しかしフォローされたという話には、自分の仕事をコンラッドに取られたと恨めしそうにハンカチを噛み締める。 「お前が間違えたのが悪い」 あっさりと一刀両断に切り捨てられて、ますます金切り声を上げるギュンターに、有利が手を振って宥めるように肩を叩く。 「ちょっとくらい譲ってやれよ。このところコンラッドも忙しくしててあんまりと一緒にいないんだから」 「へえ、ユーリ。随分珍しいことを言うんだな」 とコンラッドの付き合いには、今回のこともあって目を光らせそうな有利の発言に、ヴォルフラムが首を巡らせる。 「そりゃおれだって、一緒にいることまでキーキー言ったりしねーよ。それにのやつ、この間はおれがコンラッドを独占してるなんて言いがかりをつけてきたし……」 前回もめたときに、昼間は有利がコンラッドを独占しているんだからと拗ねられたことを有利は忘れていない。妹に妹の恋人のことで嫉妬されるくらいなら、勉強のための教材選びを一緒にしていちゃいちゃすることくらい寛容になろうというものだ。 「ふーん、だってさ。よかったね、ウェラー卿。渋谷の態度がだいぶ軟化してるみたいだ」 村田が爪を磨くように指先で擦りながら無感動に言うと、ソファーの背もたれに頭を倒すようにして振り返る。 「そろそろ時間を作れそうだねー?」 「猊下……」 わざわざ有利を刺激しないで欲しいとヴォルフラムが額に手を当てて溜息をついたが、当の有利が村田の言った意味を理解していなかった。 「そうだよな。コンラッド、ここ三日連続で夜勤してるだろ。寝不足だと……おれみたいなことするぞ」 コンラッドの怪我の元になった有利が木から落ちた事件は、寝不足からくる体力の低下を自覚していなかったことから端を発している。 半月の前のことを思い出して、どんよりと重い空気を背負った有利に、コンラッドはその雲を晴らすかのような笑顔で頷いた。 「大丈夫ですよ陛下。ちゃんと調整はしてますから。ゆっくりと休みをいただいて、怪我もしっかり治してきましたからご心配なく」 を抱えてもびくともしないくらいには、骨も万全に治った……とは説明しないままに強く保証するコンラッドに、有利にも笑顔が戻る。 「そっか。それならいいんだけどさ」 黙っているだけで騙しているわけではない……というコンラッドの論理を有利が知る日がくれば、また荒れそうな血盟城の、ある日の午後の話。 |
そういうわけで、Punishその後の二人の話でした。 誘惑されたら素直に乗るコンラッドと、そもそも自分のほうが上手く誘われたことに 気づかないまま、自分が誘ったと信じているその恋人。 |
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