「なんだい渋谷、せっかく僕が遊びに来たっていうのにその暗さ。じめじめしてて、今にもキノコが栽培できそうだよ」
一日の仕事を終えて自室に戻っていた魔王陛下は、遊びに来た大賢者を呆れさせるほどに落ち込んでいた。
ソファーで膝を抱え、その上に乗せたクッションに顔を埋めて何も言い返してこない。
事情を簡単に説明したのは、この部屋のもう一人の住人と言っても過言ではないほど入り浸っている婚約者だった。
「こいつは、コンラートを負傷させたことに落ち込んでいるんです」
「あれ、ウェラー卿が怪我したの?でも彼は渋谷の護衛なんだから、しょうがないんじゃないかなあ」
「しょうがなくねえよ!」
激しく言い返した有利だったが、その後が続かない。ヴォルフラムが溜息をついた。
「執務室から脱走しようとした結果ですから」
「どういうこと?」
コンラッドがついていて、脱走中にヘマをしたということだろうかと首を傾げる村田に、クッションから顔を上げた有利がとつとつと事情を語り始めた。


Punish(1)


主催する草野球チームが練習試合で快勝したこともあって、有利はその日とても機嫌がよかった。
家に帰ってきてまず風呂に直行して、そのままスターツアーズしてしまっても、まあいいかと思えるくらいには機嫌がよかった。
着いた先が地球と同じ時間帯だったなら、その機嫌も続いたに違いない。
眞魔国はちょうど朝を迎えた頃で、久々に帰還した王は早速溜まりに溜まった公務に駆り出されることになったのだ。
……地球では、もう一日も終わりだったというのに。
力いっぱい試合でプレイして、くたくただというのに。
それでも午前中は頑張った。頑張れたのは謁見を申し出ていた貴族たちとの会話だったお陰である。相変わらずギュンターのフォローなしでは微妙に焦りが出てしまう有利は、眠くなる暇がなかった。
だが午後は、昼食を取って満腹でおまけに暖かな日差しの中で書類と向き合い、読んではサイン、読んではサイン。
これがピッチャーに出すサインなら、おれはまだやれるぜ……などと呟いても限界だった。
眠すぎる。
久々の王との仕事に補佐のギュンターは絶好調で、こんな日に限って有利を救い出してくれるコンラッドは任務で王都を離れているという。
今日中に帰ってくるらしいけど、今ここにいてくれ。
虚ろな意識の中で心底呟いて、そのまま船をこいで机に額を打ち付けたところで、執務室の扉が開いた。
「陛下、眞王廟からの連絡で殿下がもうすぐこちらにご到着されるとのことですが」
ダカスコスの言葉にギュンターが大喜びで席を立つ。
「ああ!なんと喜ばしいことでしょう!陛下のご帰還に続き殿下もお出ましになられるとはまさしく吉兆!陛下!コンラートが不在ですので申し訳ございませんが私が……」
「ああ、行ってきてやって!」
そうして、王佐を快く送り出した有利は、逃走を図った。
ドアの外には兵士がいるので、窓から。
運動神経には自信があったし、なにしろここはたかが二階だ。近くの木に飛び移って、と計画を立てていた魔王陛下は、自分が徹夜明けに似た状態でいつもの魔王スケジュールをこなしていたことをすっかり失念していたのだ。
ベランダに出て欄干に足を掛けて身を乗り出したのに、身体がいつもより重かった。
それでもと欄干を蹴って木に飛びつく。
だが、取り付いた枝から足を滑らせて、地面に向けて真っ逆さまに転落してしまった。
そこで有利が大怪我をせずにすんだのは、偶然にも予定より早く帰還できたウェラー卿コンラートがベランダから近くの木に飛び移ろうとする魔王陛下を発見したからだ。
彼はスタートダッシュからして人間、もとい魔族の限界を超えたスピードで駆け出して、木から転落した敬愛する王をキャッチすることに成功した。
ただし、十分な体勢を整えるだけの余裕はもちろんなく、魔王陛下を抱えたまま地面に転がった。とにかく主君の身の安全だけを考えた転倒の仕方を心がけたために、彼自身がどんな体勢だったのかは、記憶にない。
「ご、ごめん!ごめん!コンラッド!け、けけ怪我は!?」
腕の中の主の無事を確認して安堵を得ると同時に叱り付けようとしたコンラッドは、それを上回る勢いで謝り倒されて、タイミングを逃してしまう。
溜め息をついて天を仰ぎ、それからしかめ面を作って泣き出しそうな有利の顔を覗き込む。
「陛下。お願いですからこんな危険な真似はもうしないと約束してください」
「する。約束するよ。おれ、こんな、コンラッドを、こんな」
「俺のことじゃなくて、あなたの身を大事にしてくださいと申し上げているんです」
「うん……ご、ごめん……」
自己嫌悪と罪悪感で涙を滲ませた有利に、コンラッドはそれ以上強く言うことが出来ず、そういえば彼の妹もこうやって木から落ちたことがあったな、などと思いながら慰めるように黒い髪を柔らかく撫でた。
「約束しましたからね?……まったく、本当によく似た兄妹ですね」
呆れたように言いながら、顔は苦笑とはいえ笑っていたから、有利はますます申し訳ない気分で浮かびかけた涙を拭う。
こうして陛下と殿下のご帰還当日、コンラッドは名誉の負傷で右足首を亀裂骨折したのだった。


「なるほど、そういうわけか。それは落ち込みもするかな」
「おれが真面目に仕事してれば、コンラッドがあんな怪我することもなかったんだよ」
「骨のひとつやふたつ、そんなに大騒ぎするほどでもないだろう」
被害者の弟はむしろ辛辣に言い放ったが、加害者は頭を掻き毟ってソファーから立ち上がる。
「大騒ぎするほどのことだろ!?骨折だぞ骨折!もすごい心配してただろ!」
「ギーゼラが治療したのだから、すぐに良くなる」
ギーゼラから骨折の認定を受けた当の本人は、診断結果に悲鳴でも上げそうな顔をした主に、大丈夫ですよと笑って言ってのけた。
だがそんな不養生を鬼の軍曹が許してくれるはずもなく、治療を受けて骨を繋いでもらったあとは、絶対安静を言い渡されて私室に連行されてしまった。
眞魔国に来た途端に婚約者の大怪我を知ったも、付添いで一緒に部屋に引きこもっている、と聞いて村田はヴォルフラムに同意する。
「そりゃ渋谷が悪いけどさ、が身の回りの世話をしてくれるなら、ウェラー卿はもう全然気にしてないと思うよ。というか、最初から君が危険だということだけが問題で、自分が怪我したことは気にしてなさそうだけど」
「うん……コンラッドも気にするなって言うんだ。けどさ、おれ普段からコンラッドには世話になってるのに、怪我までさせてさ、それも仕事をザボろうとしてだろ?もう情けなくて情けなくて……」
落ち込む友人の姿に、村田はやれやれと呟きながら息を吐く。
「そんなに気になるなら、その渋谷の言う日頃の世話をし返してあげるのはどうさ?」
「日頃の世話の返し?でも護衛なんておれにはできないし」
「それはウェラー卿が嫌がるに決まってる」
村田が軽く手を振ると、ヴォルフラムも深く頷く。
「大体、普段コンラートがやっているのは臣下として当然のことばかりだ。ユーリからの返礼もなにも必要ないと思うぞ」
「まあまあ、フォンビーレフェルト卿。そこはほら、渋谷の気持ちの問題だから。だからさ、もっと日常的な軽いことで」
「軽いことって、お茶入れたりとかはがやっちゃうし、キャッチボールだとやっぱりおれのためのことになっちゃうし……そうだ!コンラッドにヒルドヤード行き旅行をプレゼントするっていうのはどうだろう。治療と慰安を兼ねた旅行。ただ部屋で安静にしてるよりはいいと思うんだけど」
「それは……」
「いいんじゃないか?周囲にも褒賞代わりということにできるし」
それもウェラー卿は喜ばないと思うな、という村田の意見に被せるように、今まで興味もない様子だったヴォルフラムが勢い込んで身を乗り出す。
「だろ?ヒルドヤードの温泉は怪我にいいってコンラッド自身が言ってたことだしさ。温泉に浸かって怪我を癒しながら、ゆっくり美味いものでも食って」
「悪くない。きっとあいつも喜ぶだろう」
「だからー……」
ウェラー卿は喜ばないと思う。彼は有利の傍で護衛をする時間をとても大切にしている。
それができなくて落ち込んでも、血盟城にいればと日中から二人きりになれるから、まだ幸せかもしれない。だが一人で慰安旅行に出されてもつまらないどころか困惑するだろう。
村田はそう言いかけて、やめることにした。
村田にとってはコンラッドの困惑より、有利が方法を見つけてすっきりするほうが重要だったからだ。
主がこれだと思って嬉しそうに提案してくれた(それも自分を思っての)旅行を、果たして主を落ち込ませずに彼がスマートに断れるかどうか。
ヴォルフラムは、有利が怪我をさせた負い目でコンラッドにべったりになることを警戒していたらしい。それとは正反対の有利の提案に喜んですぐさまヒルドヤード行きのチケットと宿を手配してくると部屋を出て行こうとしたところで、有利がそれを止めた。
「待ってくれ、ヴォルフラム」
「なんだ、やっぱりやめるのか?だがコンラートはどうせ静養しているしかないんだぞ」
「うん、だからそうじゃなくて、一人で旅行って面白くないんじゃないかと思って」
「あいつは一人でフラフラして回っていた時期があるから、その心配はない」
「そ、そう?もう一人分用意してもらおうと思ったんだけどなあ」
「なに!?ユーリ!お前までついていく気か!?」
「ち、違う、違う!おれじゃなくて!怪我してるのに一人じゃいろいろ大変だし、身の回りの世話もしてくれる人がいたほうがいいだろ!?」
有利の発案に、コンラッドの困惑を思って笑いを噛み殺していた村田は驚いて目を瞬いた。
「え、ウェラー卿との旅行を許可するのかい!?」
恋人と二人きりでの旅行となれば、コンラッドは喜ぶだろう。それでは面白くない。
妹と名付け親の交際には常に目を光らせている有利らしくない発言に驚いて止めようとすると、驚かれた本人はそれこそ意外だったように首を捻る。
「うん。だって一人だと暇を持て余すかもしれないからさ。今ちょうど血盟城にいるし、ヨザックにもおれのおごりでゆっくりしてもらおうかと思ったんだけど」
腹がよじれるほど笑った大賢者は、フォンビーレフェルト卿に二人分の旅行の手配をするようにと申し付けた。


コンラッドの部屋に一人で向かいながら、有利は腕を組んで首を捻る。我ながらいい案だと思ったのに、村田が何をそんなに笑ったのかよく判らなかった。
だが笑った割には村田はひどく有利の案を推して、逆にアドバイスまでしてくれた。
「いいかい、渋谷。ウェラー卿はきっといきなり旅行計画を聞かされても、いい顔はしないと思うんだ」
「う、重過ぎて逆に迷惑かな?」
「まあそんな感じかな。だけど一人だと暇だろうから、同行者をつけるとでも言えばいいよ。きっと彼はそれで快く君の気遣いを受け入れるから」
「ヨザックが一緒なら?」
「いや、ヨザックとは言わないで、同行者と言うほうがいい。ほら、ヨザックだとなんだか友達との旅行の旅費を、友達の分まで親に出させるような感じになるじゃないか」
「そっか、じゃあコンラッドだけじゃなくて、別の誰かの慰安も兼ねているように思わせるのがいいってことだな。実際そうだけど」
「そうそう。……ところでウェラー卿の部屋にはまだもいるよね?」
?いると思うよ。仕事が終わったあと、改めて見舞いに行ったら、身の回りのことは自分がお世話しますって感じでへばりついてたから」
「ああ、じゃあきっと上手くいくよ。ウェラー卿は礼を言って喜ぶだろうから、それからヨザックと楽しんできてくれとでも付け足せば、彼にも事前に同行者も判って完璧さ」
「さすがだな、村田!よし、じゃあおれ、さっそくコンラッドに言ってくるよ!」
「僕はフォンヴォルテール卿にヨザックを借りると申し入れしてくるよ。旅行計画を持ちかける前に、彼に新しい任務が下ったらご破算になっちゃうからね」
廊下を歩きながら、有利はつくづく村田に感心していた。本当に気の効く友人だ。
有利が気付けないような、臣下ならではの心理にまで考えが及ぶなんて、自分はまだまだ勉強しなくては、と恐らく誰もが違うと否定しそうな見習い方をしていた有利は、目的に到着して軽くドアをノックした。
「コンラッドー」
返事がない。
「あれ、怪我で暇すぎてもう寝たかな?コンラッドー、ー」
もう一度ノックしたが、やはり返答はなかった。
試しにドアノブを捻ってみると、いつものように鍵の掛かった様子もなく簡単に開いた。
「おじゃまー……って、いない?」
部屋の灯りは点いているが、中には誰もいなかった。有利は軽く頭を掻きながら部屋に入って周りを見回した。
「散歩にでも出たのかな」
骨折したとはいえ、怪我そのものはギーゼラの治療で治っているし、あとはもろくなっている骨に気を配ってさえおけば、歩くことまで困難だというわけではない。以前有利が足を捻ったときよりもずっと重症だが、杖を使えば散歩くらいはできる。
「普段が脳筋族だと部屋でじっとしてるのってつらいしなー……いや、コンラッドはおれほど脳筋族なわけじゃないだろうけど……ん?」
部屋を見回していた有利は、部屋続きの風呂場から聞こえて水音に手を叩いた。
「あー、風呂ね。なるほど、じゃあも今頃風呂で部屋に戻ってるのかな」
出直そうと部屋から出て行きかけて、気が変わる。
「そうだ、おれが背中でも流そうかな。足を庇いながら風呂って大変そうだし、だとフォローできない部分だし、こここそおれの出番だろ」
名案とばかりに、有利は学ランを脱いでシャツの袖をまくり、ズボンの裾を上げてから、脱衣所の扉を開けた。









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