「どうして……」
「何か言ったか、ウェラー卿?」
「……いいえ、別に何も」
闘技場の中央に現れた金色に、思わず呟いてしまった言葉をなかったことにする。
それでもしばらく俺を窺っていたベラール二世は、軽く肩を竦めて前に視線を戻して遠く下に望む闘技場を見下ろす。
「それにしても……カロリアはずいぶんとひ弱そうな子供を代表に仕立てたものだな。初戦とはいえ、これでは残りの選手もどうだか……。端から我が大シマロンの勝利は動かないものとしても、ウェラー卿の剣の腕を見ることが出来ぬのは残念だ」
「いえ、殿下。戦いは終わるまで判らないものです。予定通り、私は今から下へ降ります」
「そうかね?貴殿がそう言うのなら好きにしたまえ。無駄足になると思うがね」
俺が一礼をして、部屋を出る時もベラール二世は自国の勝利を疑うこともなくにやついた顔で闘技場を見下ろしていた。
ヴォルフラムの腕を目にして、その顔が驚愕に歪むところを見ることができないのは残念だが、どうしても確かめなくてはいけない。
ヴォルフラムが自発的に人間の国の催しの代表になるとは思えない。必ず、あの人がいるはずだ。
でもどうして。
それに……まさか、彼女もこの国にいるのか?



EXTRA6.いつか見た夢、君の涙(1)



会場に着いたときには、とっくに一戦目の決着はついていた。
見ていなくても、ヴォルフラムの勝利を疑ってはいない。
競技場ではすでに二戦目のヨザックとアーダルベルトの戦いが始まっている。ヴォルフラムがこんなに早くアーダルベルトに負けたとは思えなくて相手方のベンチを見るが、さすがに間で繰り広げられている戦いと、それに距離自体が邪魔をしてよく判らない。
だがヨザックの楽しげな戦い振りを見ている限り、深刻な怪我はしていないんだろう。
なら、いい。
無事ならいい。
気になったのは、ヴォルフラムに続いてヨザックがいることだ。
これでユーリがここにいるのは間違いない。
なぜカロリアの代表なんかに。
それには?
その答えはすぐに判った。
ベンチから身を乗り出した影が三つあったからだ。見覚えのない金髪の少年と、黒い髪を隠しているけどユーリと、そして。
……」
いつか二人には、この姿を見せることになるとは思っていた。
こんな、大シマロンの制服なんかを着た、俺の姿を。
だけどこんなに早いとは思わなかった。
こんなにも早く、本当の別れを告げなければならないなんて、思わなかったんだ。
「くそっ!何だって言うんだ、いきなり!」
苛立ったアーダルベルトの声で、はっと物思いに沈んでいたことに気が付いた。
アーダルベルトが帰って来ているのだから、当たり前だが二戦目が終わっている。
「負けたのか?」
「ああ!?何ふざけたことぬかしているんだ、ウェラー卿!ここにいながらどこを見ていた!あの男がわざと負けただろうが!」
「わざと?」
小シマロンや、他の国ならともかく、眞魔国のメンバーで固められたカロリア代表がわざと負ける理由が見当たらない。しかもあれほどやりがいを見せて戦っていたヨザックがわざと負けた?
眉間にしわを寄せた俺に、アーダルベルトも不審そうな目を向けてきた。
「なんだ、本当に見てなかったのか?」
「……なら、一勝一敗だな。三戦目がある」
「おい、待てウェラー卿!コンラッド!」
アーダルベルトの制止する手を避けて闘技場に足を踏み入れる。
割れんばかりの歓声が上がり、地面が揺れるようだ。
落ち着け。顔に出すな。とユーリに、何も悟られてはいけない。もちろんヴォルフやヨザックにもだ。
闘技場に出ると、中央に一歩近付くごとにカロリア側のベンチも覗けるようになってきた。
が……が真っ先に俺に気付いた。
驚いたように息を詰め、力が抜けたらしく床に座り込んでしまう。
の様子に、ベンチの中は一斉に俺に気付いた。
ユーリがベンチを飛び出して、ヴォルフはヨザックに追うように指示を出している。
二人の後ろでも石段を上がって駆けて来る。
俺に向かって。
何も、何も顔に出してはいけない。俺は眞魔国を捨てた男なのだから。
俺を殴ろうと拳を握ったユーリが雪に滑って転び、手を貸そうと腰を屈めたときだ。
「コンラッドーっ!!」
見てはいけなかったのに、の声に顔を上げてしまう。
が泣いている。
俺が泣かせてしまった。
傍に行ってその涙を拭いたい。
だけどそれはできない。許されない。
見知らぬ金髪の少年が後ろからに抱きつくようにして引き止めている姿を目にしても、もう俺にそれを排除する権利はないんだ。
衝動が湧き上がるから目を逸らし、雪に埋れるユーリに手を貸した。
俺の左腕があることに驚いたユーリは、それが義手ではないかと疑って触っている。
があんたの腕を抱き締めてどれだけ嘆いたと思ってんだ?涙も出せないくらい……虚ろな目で正気をなくすくらい……あのままもう帰ってこないんじゃないかっていうくらいに深く……心を殺そうとするくらいに……」
あれだけ何も顔に出すなと言い聞かせていたのに、反応してベンチを見そうになった。
……俺はどれほど君を悲しませたんだろう。苦しめたんだろう。
そして、これからどれだけつらい思いをさせるんだろう。
ユーリは俺の胸倉を掴んで、顔を引き下げさせて強く揺さぶる。
「なのになんであんたはそんな服着てるんだ!?はずっとあんたを心配してたのに! あんたの無事を信じようとしてたのに!なんでシマロンなんだよっ!」
「元々ここは、俺の土地です……俺の先祖が治めていた土地ですよ」
……それでも、俺は何も言わない。すべては、もう遠い過去のことだ。
そう言い聞かせているのに、ヨザックの安い挑発に乗ってしまいそうになる。
人間の土地で倒れるまで魔術を使うなんて、どうしてそんな危ない真似を。
危ないことはしないと約束したのに、自分から白刃に向かったなんて何があったんだ。
動揺するな。何があったにせよ、もユーリも今は無事にここにいる。
俺がするべきことは、二人がヴォルフたちに守られて安全に国を出て行けるように手を回すことだ。これからのことに目を向けなくては。
俺はただ、裏切り者として酷薄に笑えばいい。


ユーリとの勝負にアーダルベルトが割って入ってきて、今度こそ本当に間に合わないかと思った。
咄嗟にジュリアの魂のことを叫んでしまったが、それでアーダルベルトは剣を振り抜くことができなかったのだから、これは仕方のないことだ。
空高くせり上がった闘技場から落ちたユーリを掴んだ時、このまま俺は死ぬだろうと頭の隅で僅かに冷静に考えていた。
それでもユーリを守れたらいい。
死ねば。
ここで俺が死んでしまえば、もユーリも酷く傷付くだろう。
だけど、時間がきっとその傷も癒してくれる。
このまま俺が裏切り続けるより、ずっと早く。
死にたくないと、死ぬわけにはいかないという隙間にするりと入り込んできた誘惑は、だが雪の山に落ち込んだときに叶わなかったことが判った。
どれほどかき集めていたのか、ユーリを抱えた俺ごと受け止めた雪は、それでもまだ下に地面まで余裕があるらしかった。遥か高くに、俺が突っ込んだ穴が開いていて、鈍色の空から粉雪が舞い落ちてくる様子が見えた。
腕に抱えていたユーリは静かに呼吸を繰り返していて、この落下で更にどこかを痛めたという様子はない。
ほっとして、その痛々しい首の傷を拭う。
サクサクと雪を掻く音が聞こえて、このままじっとしていれば救助されるだろうと、それまでの間にユーリの身体を冷やしきってしまわないように腕の中に抱き締めた。
雪が受け止めてくれたから助かったが、さすがに背中や腰に痛みが走るのは仕方がない。
「……だろうな」
ユーリは気を失ったままだ。他にこの土地で強大な魔力を操る者がいるとは思えない。
彼女をどれだけ傷つけても、俺は帰れない。
だからせめて、ユーリを無事に。
目を閉じて、の泣き顔を思い浮かべたときに僅かに服を引かれた。
「コン……っ」
都合のいい幻聴かと思った。雪に囲まれて動かない首をどうにか下に向けると、俺の軍服を掴む細い手が見える。
の手が見える。
驚いてユーリを脇に避けるように抱え直し、その手を掴んで引きずり出した。雪の中から出てきたのは、やはり男の格好をしただった。
を引きずり出すと、柔らかい新雪が崩れてきてに被さった。
は、そんなことも気にならないように雪を払うことなく俺に手を伸ばす。
「……コン……ラッ…ド……」
無茶ばかりだ。
いつもいつも、は俺の心配を通り過ぎて無茶ばかりする。
ユーリのために……多くの命のために。そして、俺のために。
「大丈夫、ユーリは無事だ……二人とも無茶ばかりして……」
涙に濡れたその表情を見て、崩すなとあれほど言い聞かせていた冷静な顔を崩してしまう。
愛しい。
愛しい。
「コン……コンラッ……ド、こそ……」
こんなにも狂おしいほどに。
が愛しい。
「ぶ……無事でよかっ……い……生きてて……くれ……て……」
大切な者の無事を喜ぶ、真っ白な雪よりも汚れない涙を流しながら、は混濁しそうになる意識を繋ぎ止めようと、必死で俺に手を伸ばす。
「やだ……もっ…と……」
まだ足が雪に埋れていたがもがいて、ますます雪が崩れ落ちてくる。このままではが埋れると引きずり出してユーリと二人、俺の腕に抱え込んだ。
これは緊急避難だ。身体が冷えて二人が凍傷になったりしないように、仕方がないことだ。
自覚しなくては。
そうでなければ、俺にこんなことをする資格はもう、ないんだ。
「コンラッド……一緒に……」
俺がユーリを守ったからか、それともを抱き締めているからか、は少しだけ力を得たように俺に言い募る。
その少しの期待に耐えることが出来ずに視線を逸らした。
「それはできない」
「ど……して……」
震える声に、見るなと思っているのに目をに戻してしまう。
涙に濡れた、黒く美しい瞳がただ俺だけを映している。

ユーリがいるのに。
傍に、まだ意識を取り戻していないユーリがいるのに、はただ俺だけを見て、俺だけに言葉を紡ぐんだ。
帰って来いと。
傍にいろと。
「俺のことは、もう忘れて」
だけどそれに応えることは、できない。
「なん……で……そんな……」
「忘れてくれ、。忘れて、ユーリたちと幸せになる道を探してくれ」
「いや……」
過去の男だと忘れて割り切ってしまえば、傷は残るかもしれないが前に進むことはできる。
たとえどれだけ望まれても、それにどれほどの至福を覚えても、俺はもうこの手を取ることができない。
の頭が俺の胸に落ちた。
……?」
とうとう力尽きたかと、声をかけてみるけど返答はない。
やはり限界だったんだろう。
当然だ。ユーリといい、といい、人間の土地の、しかも神殿を目の前にして魔力を使うだなんて危険もいいところだ。
いつもいつも、無茶ばかりして。
もうできるだけ危ないことはしないと、俺と約束してくれたのに。
俺が一番大事だから俺に嘘をつきたくないと、「危ないことはしない」と言い切れなかった可愛い、そして困った
「……本当は、忘れるくらいなら俺を憎んで欲しいけど……」
が気を失った途端に、本音が漏れた。
耐えて我慢して、全てを自らの身の内に溜め込んでしまえとそう思っていた言葉は、一度でも漏らすともう押さえることができない。
「憎んで、憎んで、許せないくらいに憎しみを抱いて……そうすれば、の心は俺のものなのに……」
誰にも渡したくない。
俺の、俺だけのだ。今までは確かにそうだった。
涙が凍って頬を傷つけないように掌で拭い、それから俺の服を握り締めていた指を解く。
……だけどすべては、過去のことだ。
「だが俺は、には幸せになって欲しい。誰よりも、幸福に。……陛下、これが俺の、唯一の望みです」
空に向かって呟き、解いたの手を握り締めて指先に口付けをする。
「愛してる、
君を、君の美しいその魂を、ずっと愛している。
だから、もう俺に囚われないでくれ。
冷気で白く血の気の引いた頬をもう一度撫でる。
これが最後だ。
そう言い訳をして、涙の残る目尻や、伏せられた瞼や、冷たく凍えた額に繰り返して唇を押し付ける。
そして最後に、寒さにか、悲しみにか、僅かに震えるその柔らかな唇に、別れの口付けを贈った。







あの時のコンラッドの本音ということで。
大シマロン編はまだ続きます。

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