いつも心のどこかに不安があった。

深い底のない穴を覗き込むような。

同時にその穴には透明な蓋がしてあるようで、試しに少しだけ手を入れてみるということ

すらできないのだ。

自分の身のうちに、自分ではどうやっても手の届かない部分がある。

怖かった。

でも、ゆーちゃんがいれば別。

ゆーちゃんの側にいれば、なにも怖くなかった。

あの時だって。

ゆーちゃんは、怪我してまで助けてくれたから。

ゆーちゃんがいればそれでいい。

パパもママもお兄ちゃんも大好きだけど。

ゆーちゃんとは比べられないの。

だってわたしは。

ゆーちゃんのために生まれてきたから。

何故かそれこそ、生まれたときからそれだけは実感していた。




001.珍しい出来事(1)




ちゃん………ちょっと」

道場からようやく帰ってきて、くたくたに疲れた身体をリビングのソファに沈めたばかり

だというのに、どこか不安そうなお母さんの声に呼ばれた。

夏にはまだまだ早いけど、重い胴着と稽古道具を抱えて走って帰った身としては、グラス

の水滴も素敵なひんやりと冷えた麦茶で一休みしたかったのだけど、お母さんに呼ばれて

無視を決め込むことなどできない。

グラスを一気に煽ると、勢いをつけてソファから立ち上がった。

「なあに、お母さん?」

「ちょっと………」

声は脱衣所から聞こえた。

溜息をついてそちらに向かう。

「お母さん?」

ひょいと覗き込むと、お母さんは洗い終わったのだろう洗濯物を引っ張り出した態勢の

ままで固まっていた。

「え?どうかしたの!?」

三人もの子供を抱えているというのに、しかもわたしたち双子ですら既に十六歳目前、

お兄ちゃんに至ってはもう二十歳というのに、いまだに少女のようなお母さんが影を

背負って座っている。心配を通り越して不気味だ。

そしてお母さんは、いつもはまるで軽やかな少女のような声に僅かに動揺を滲ませて

振り返りもせずに口を開いた。

「最近、ゆーちゃんの趣味が変わったとか、聞いたかしら?」

「有利?ううん。相変わらず野球馬鹿のはずだよ。西武だ師匠だっていつも騒いでるし」

この家で、馬鹿がつくほどの野球好きはお父さんと有利のふたりだけだ。子供三人等しく

お父さんの野球洗脳にかかったはずなのに、見事染め上げられたのは有利ひとり。

お兄ちゃんは外面優等生のギャルゲー好きだし、唯一の娘であるわたしは弓道と居合いの

武道一直線。

「ええっとね、そういう方面じゃなくて、その………着る、服とか」

「ええ?別にそっちも変わってないでしょ?最近はあんまり一緒に買い物にいってないけ

ど………いつもどおり、動きやすいカジュアルな格好だったり、ラフっていうか」

「そうよね、そのはずよね…………」

ぶつぶつと呟いて頷くお母さんに小首を傾げる。

何なんだ、一体。

「ああ………もしかして、彼女ができたとかは?」

「それはない」

きっぱりはっきり。

恋人が欲しくないわけではないようだけど、特に餓えてもいない有利だ。彼の情熱は今、

すべて野球に向いている。

一に野球二に野球、三、四も野球、五にようやく異性への興味だ。

とある理由で中学の半ばから野球断ちしているような状態だけど、ふざけて剣道をやって

みようかなどとは口にするばかりで、本当に剣道に転向なんてしないだろう。

きっと、有利はいつかまた野球を始めるに決まっている。

確信が、ある。

本当は剣道を始めて、その延長でもいいから居合いに興味を示してくれたら、一緒に道場

に通えるのに、なんて無駄な期待をしてしまうのだけど。

有利に恋人なんてできたら寂しいだろうなと、想像してしんみりしてみる。

だけど幸せそうな有利を見たら、その瞬間きっと嬉しさが勝つのだ。

それはもう、わかっている。

「それで、結局どうしたの?」

なにか黒いものを握り締めて振り返ったお母さんは、眉をしかめて珍しく難しい顔。

手から零れているのは黒い紐。

手の中には、黒い布。しかも、少量。

困ったような顔のまま、お母さんが広げたものが最初なんなのかわからなかった。

成人男性の手の大きい人の手の平くらいの面積の布。そこから左右下に分かれて繋がって

いる黒い紐。

ええっと。

「……………え、それってまさか、パンツなの?」

「紐パンツよ、紐パンツ!それもこんな光沢のある生地!」

嘆くお母さんに首を捻って思いついた案を言ってみる。

「………………ファールカップ、とか」

主に野球やボクシングなど、スポーツの際の急所ガードを想像してみたがすぐに打ち消す。

こんなシルク生地の布で、時速100kmを越える球や、砂の塊を叩き続ける拳の凶器から

大事な所をどう守れるというのか。

しかも現在の有利は、とある理由で野球を辞めている。

「…………新境地の開拓なのかなあ?」

「そんな境地は開拓しないで、ゆーちゃ〜んっ」

助けを求めたはずの娘が零した一言に、少女のようなお母さんはヒモパンを握り締めて

嘆いた。




最近ゆーちゃんはママにはあんまり話してくれないの。面白い話はしてくれたけど、時期

はまだきていないはずだし。

なんだかわけのわからないことを言いながら、悲しげにヒモパンごと両手を握り締めて

きたお母さんの願いは、つまりは代理で何事かあったのか聞いて来いということだった。

洗濯機から取り出したばかりの湿ったヒモパンが手の甲に押し付けられていて、いくら

有利のものとはいえ、少し引く。

「でも、そんなに気にしなくても、下着の嗜好が少し変貌したくらい………」

確かにこの家で有利が秘密を話すとすればわたしを置いて他はないけど、ヒモパンの話題

で盛り上がりたいとは少しも思わない。ええ、まったくもって。

「でもね、今日ゆーちゃん、全身ずぶ濡れで帰ってきたのよ」

「……………なに、それ?」

今日は雨なんて降っていない。少しばかり陽気な気温になっているけど、びっしょりと汗を

かくほどではないし、しかもずぶ濡れだなんて、ありえない。

「ゆーちゃんはイジメじゃないっていうんだけど、本当にそう?」

「そんなはずない。学校中のだれにでも好かれているなんてことはなくても、有利にそんな

ことする人、絶対いない」

弓道と居合い、野球と、双子揃ってスポーツ型人間に思われがちだけど実のところ、わた

しはこれでも兄譲りの成績優秀者だ。もっと偏差値の高い学校へ行けたのにも関わらず、

県立の学校に進学したのは、家に近いからでも学費が安いからでもない。

有利がそこに行くと言ったからだ。

どうせ兄妹なんていつかは離れて暮らすんだから、今だけでもできるだけ側にいたいんだ

という重度のブラコンの主張は、家族仲良くがモットーの両親にあっさりと認められ、有名私学

への受験を勧める中学三年時の担任を大いに嘆かせたものだった。

ともかく。

さすがに兄妹でクラスは分けられたけど、そこまでして同じ学校へ行ったのだから有利の

周囲に不穏な動きがあればすぐに察知できるように、常日頃から気にかけている。

イジメがまったくない学校は皆無かもしれないけれど、少なくとも有利の周囲でそういった

ことが起こったことはない。

有利持ち前の正義感のせいで、なにかしらの揉め事はあったとしても、結局は揉め事程度。

「有利!」

自分が道場で汗を流している間に、大切な有利がなにか大変な目にあったのかという焦り

で、お母さんとの話半分で脱衣所を飛び出して階段を駆け上がった。

なので、お母さんの呟きの続きは当然聞いていない。

「じゃあ、少なくともお友達の村田君を庇って不良の子達と喧嘩したところまでは本当な

のね。いやだわ、やっぱりゆーちゃんにもカポエラ習わせたほうがいいのかしら………」





まるマ連載開始です。冒頭の呟きの意味がわかるのは連載のずっと先のことになりますが、
よろしくお付き合いください〜。
それにしても、名前変換場所少なっ!



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