ラインハルトが音楽を聴きながらの軽い読書という、ゆったりとした時間を過ごしていると、友人が帰宅してきた。
元帥府からまっすぐ帰宅したラインハルトとは別行動で、キルヒアイスは今日はの終業時間に間に合いそうだと、いそいそと軍病院へ向かったのだ。
彼女の自宅住所は個人情報だからと、地位を使わず人脈で(つまりラインハルトから)得たものの、の勤務シフトは通常手続きで手に入れている。
軍所属の病院である以上、キルヒアイスが合法的に知ることはいくらでも可能なのだ。よくもあんなにこまめに、会える時間をチェックできるものだとラインハルトは感心やら呆れるやら。
カウチソファーに寝そべっていたラインハルトが本を閉じて起き上がると、帰宅の挨拶にやってくるだろう友人のためにコーヒーを作ることにする。ついでに自分のコーヒーも新しく作ろうと、その前にテーブルに放置してあったぬるくなったものを処理するために口に運ぶ。
やってきたキルヒアイスは、かなり上機嫌だった。
彼女のところへ行ったときは大抵がそうなのだが、今日はそれに磨きがかかっているような気がする。
いつもいつもいつも、つれなく袖にされて帰ってくるのにどうしてそんなに嬉しそうなのか謎だったが、これなら今日は少しでも進展があったということなのだろうか。
「ラインハルト様、ただいま戻りました」
「ああ、おかえり。……のところで、何かいいことでもあったのか?」
今でもキルヒアイスの女性の趣味は悪いと信じているラインハルトがコーヒーを口にしながら義理のように訊ねると、友人は嬉しそうに頷く。
「はい。合鍵をもらいました」
口に含んだぬるいコーヒーを吹き出した。
「ラインハルト様!大丈夫ですか?」
爆弾発言をした男は、自分が原因のくせをしてまるで理解できていないような顔でラインハルトに歩み寄り、咳き込んで丸まった背中を擦る。
キルヒアイスの趣味もどうかと思うが、相手の考えもラインハルトにはさっぱり判らない。
キルヒアイスから愛の告白を受けてからというもの、彼女はキルヒアイスと顔を合わせることを極端に避けていた。
アンネローゼを訪ねるときもキルヒアイスの不在を狙おうとしていたし、それでも顔を合わせたときには、それはもうとても不愉快そうに表情を歪ませたくらいだ。
その趣味はどうだと思いながら、やっぱり友人のことは大切で、いくらなんでもそれは失礼ではないかとラインハルトが一度だけ苦言を呈したとき、は強く力説した。
「ですが閣下、キルヒアイス上級大将の趣味は変です!関わりたくありません!」
……自分に惚れる男はおかしいと、断言する妙齢の女性。確かに、そんな女性に惚れることはおかしいかもしれない。
思わずラインハルトは素直に首肯してしまったが、はそれに怒るどころか、友人を大切に思うのならどうにかまともな道へ誘導してやって欲しいと懇願したのだった。
そんな関係だった相手に、なぜ合鍵を渡す。
どうにか咳が落ち着いてくると、ラインハルトは息を切らせたままで傍らのキルヒアイスを見上げた。
「どういうことだ。正式に交際することになったのか?いや……それにしてもいきなり合鍵というのは……」
「いいえ、残念ながら交際どころか、今もまだ敬遠されています」
「それでどうして合鍵を!?」
謎は深まるばかりだった。


ラインハルトが話を聞きたがるので、キルヒアイスは着替えを後回しにして脱いだコートをソファーにかけると、ラインハルトの向かい側に座った。
キルヒアイスが入れたコーヒーを前に、事情を聞いたラインハルトは酷い頭痛を覚えたように額を押さえている。
「……つまり、合鍵はもらったのではなく、もぎ取って来たんだな?」
「そんな、ラインハルト様。彼女はちゃんと『預けます』と言ってくれたのですから、力尽くだったわけではありませんよ」
それが力尽くでないなら、なんだというのだろう。
それにしても、のやり方もどうだ。
忙しいから日常のことが後回しになる、という状態は判る。ラインハルトは今まで一人暮らしの経験はなく、幼年学校宿舎であったり下宿先であったり、身の回りのことをすべて自分でやった時期、というものはない。だからとやかく言える立場ではない。
そして忙しい軍病院という職場に移動になったことはラインハルトにも責任がある。
だからといって、片付けられていない部屋に男を連れて行って嫌われようとするなんて。
実のところキルヒアイスは彼女の名誉のため具体的な説明を避けている。そのためラインハルトの想像する『片付けられていない部屋』とは雑然とした様子程度なのだが、真実を知る日は恐らく来ないだろう。
「それで、お前本当にこれから時間を見つけてはの家に掃除に行くつもりか?」
帝国軍上級大将ともあろう者が、と額を押さえて呻くラインハルトに、キルヒアイスは軽く笑ってコーヒーを口にした。
「まさか。彼女も私に合鍵を渡してしまった以上、すぐに鍵を付け替えると思いますよ?」
あっさりと笑って否定したキルヒアイスに、ラインハルトはあんぐりと大きく口を開ける。
「なら、を騙したのか?」
「いいえ?が鍵を付け替えないのなら、ちゃんと掃除はします。その約束で貰った鍵ですから。ですからこの鍵が使えるかどうかは一度訪ねてみます。きっと空振りだとは思いますが」
「だったらどうしてそこまでして鍵を取ってきたんだ?」
「あれくらいのことで私に嫌われようとする彼女があまりにも可愛かったので、つい」
ラインハルトは頭を抱え込んだ。


そもそもがキルヒアイスの送迎を受け入れた時点で、何かしらの企みを持っていたことは、キルヒアイスにも判っていたのだ。
非常に残念なことに、自分が彼女に敬遠されていることは判っているのだから。
さすがに部屋を見たときは唖然としたものの、そんなことくらいでを嫌いになるなら、元より彼女のことを好きになどなっていないだろう。そんな単純なことを、彼女は理解していない。
それが少し寂しくて、そして可愛らしいとも思う。
翌日、キルヒアイスがすぐに使えなくなると判っている鍵をそれでもしっかりと懐に入れて元帥府に出仕すると、昼頃に当のから連絡が入った。
彼女から連絡してくれるなんてと喜んで通信を繋ぐと、TV電話画面に出たは画面越しにキルヒアイスをせせら笑う。
「残念ですが閣下、鍵は付け替えました。あたなが持っているものは、ただの鉄くずです!」
からすれば思惑通りになってたまるかと言いたかったのだろうけれど、その連絡すらキルヒアイスにとっては微笑ましい。
鍵の付け替えくらい黙っておけば、少なくとも一度はキルヒアイスに無駄足を踏ませることができるのに、そうならないようわざわざ連絡を寄越すところが彼女の優しさだ。
そう返せば「前向きすぎる」と彼女が悲鳴を上げそうなので、キルヒアイスは苦笑を滲ませるに留まった。
「そうですか……非常に残念です。ですがそれなら、この鍵はもう返さなくてもいいんですね?」
「……使えない鍵を持っていて、どうなさるの?」
「それでも、貴方に貰ったものだと思えば愛しいです」
「怖いことを言わないで!」
結局悲鳴を上げることとなったに、キルヒアイスはにっこりとトドメを差した。
「それで、新しい合鍵はいつ受け取りに行けばいいでしょう?」
「わたしが何のために鍵を付け替えたと思ってるの!?」
に敬遠されていることは判っている。
だが本当に蛇蠍の如く嫌われているのなら、彼女も極力接触は断とうとするはずだ。
それが否定の通達でも、こうやって顔の見える連絡手段を自主的に取ってくれるうちは、彼女を諦めるつもりはない。
自分でキルヒアイスを呼び込んでいるのだと、が自覚を持つのはいつの日か。







あれ?キルヒアイスがいじめっ子気質?(^^;)
連絡手段なんてメールなどの文章もあるのに、電話(しかも画面つき)な時点で
彼女がキルヒアイスを心底は嫌っていないという話。
(でもきっと彼女は、キルヒアイスの「やられた!」という顔が見たかったんだと…)


BACK 短編TOP