がその日の勤務を終えて病院から出ると、空高く中天に月が輝いていた。
この時間から外で食べて帰るのも億劫で、今日も何か調理済みの弁当でも買って帰ろうと、凝った首を軽く回す。
以前宮廷に勤めていた頃は、後宮の住人たる皇帝や妃たちに不測の事態が起こった場合に備えて、年の大半を宮廷の医療院で過ごしていた。おかげで食事だけでなく、与えられた個室の掃除や洗濯なども人任せにすることができたのだが、今ではこうやって毎日の食事も自分で考えなくてはならない。
両親の住む実家へ戻ればよかったのかもしれないが、娘が宮廷医師から中央とはいえ軍医に格下げになったと落胆している両親と毎日顔を合わせるのはうんざりだと一人暮らしを始めた。気楽ではあるが、その分雑多な日常の家事が圧し掛かる。
おまけにはあまり……全くと言っていいほど今まで家事とは縁がなかった。周囲を見返して出世の道を駆け上がることだけに集中していたので、仕事はできるが家事一切の日常の雑事には疎い。
日々の忙しさと相まって、自宅は恐ろしい状態になっている。放っておく期間が長いほど、ますます手のつけようがなくなっていくのは判っているのだが、それは見ないことにしている。
とりあえず、ゴミだけは常に処理しているから、どうにか人の住める状況を確保しているようなものだ。
病院の門を潜りながら何を買って帰ろうかと考えていたは、見覚えのある一台の車に思わず足を止めた。そしてすぐに歩き出す。
とにかく、あれも見なかったことにしようとコートをかき寄せて襟元に半ば顔を埋めるようにして通り過ぎようとしたのだが、残念ながらそうは問屋が卸さなかった。
「こんばんは、
にっこりと笑顔で、赤毛の青年が車から降りての行く手を遮った。


策に溺れる


「………どうも」
青年のにこやかさとは裏腹に、の返答はどこまでも低く沈んでいる。
本人としては、いっそ無視したいくらいなのだから、返事をしただけでもありがたく思えと言いたい。
そんな思考が伝わってくれることもなく、帝国軍上級大将という相当な地位にある男は、の進路を巧みに塞いだまま車へとエスコートするようにドアを開ける。
「こんな時間まで仕事とはお疲れでしょう。自宅まで送ります」
「結構です」
にべもなく断ったものの、目の前に壁は少しも動かない。
「どうぞ遠慮なさらずに」
宮廷から軍中央病院へ職場を移ってまだ数ヶ月と経っていないが、このやり取りはすでに数回目だ。その数回、隙を見てが強行突破してきたこともあって、相手は慎重だった。お陰で脇を通り抜けることもできやしない。
額に青筋が浮かぶかと思った。いや、きっと既に浮いている。
「閣下こそお忙しいでしょうに、どうしてこうときどき人の帰りを待ち伏せしている時間があるのか、とても不思議ですわ。どうぞさっさとご自宅にお戻りになって疲れを癒されることをお勧めいたします」
「貴方が私のことを気遣ってくれるなんて嬉しいな。けれど心配は無用です。貴方と共に時間を過ごせるなら、それが癒しになりますから」
浮いていただろう青筋が、切れる音が聞こえた気がした。
「前向きにもほどがある!」
頭痛すら覚えて、は額を押さえながら、刀の露を払うかのように手を振って足を踏み鳴らした。
「誰が気遣ってるって!?邪魔なのよ!デカイ図体で道を塞がないで!」
どれほど強く邪魔だと言おうと、ジークフリード・キルヒアイスという男は堪えてくれない。それが判っているのでも遠慮なく罵倒する。いっそ儚く繊細に傷ついて、こんな女とは二度と関わりたくないと思ってくれたらいいのにとすら思う。
「こんな時間に女性の一人歩きは危険ですよ」
「人の話を聞いてんの!?ご心配いただかなくとも、自宅はすぐ近くなので送ってもらうまでもありませんわ。失礼!」
「時間の長短の問題ではありませんよ。途中で人気のない道を通らなくてはいけないではありませんか……おっと」
キルヒアイスの隙を突くことに躍起になっていたは、男の言葉に聞き捨てならない一文があったことに気がついて鋭く振り仰いだ。キルヒアイスはその視線を受けて、宥めるように、あるいは刺すような視線から身を守る盾のように、軽く手を上げる。
「どうしてあなたが、わたしの自宅までの道のりをご存知なのかしら?」
今までこうやって待ち伏せされていたときは上手く逃げ出して、一度も自宅まで連れて行ったことも、尾行されたこともないはずなのに。
だがキルヒアイスは悪びれずに笑顔で説明した。
「軍医も軍人のうちですよ」
「データを見たの!?職権乱用!」
「冗談です。貴方はグリューネワルト伯爵夫人への往診のため、伯爵夫人と元帥閣下には連絡先をお知らせしているではありませんか」
眦を釣り上げたに、キルヒアイスはあっさりと種明かしをした。
個人的目的でデータを引き出して見たというよりはマシとはいえ、はがくりと肩を落とす。
「い……一体どちらが……」
グリューネワルト伯爵夫人とローエングラム元帥。一体どっちがこんな男に、女性の自宅住所を教えたのだ。
聞いたところで、キルヒアイスはにこにこと笑顔になるだけで答えないが、恐らくは親友たる元帥のほうだろう。伯爵夫人はそんな非常識な真似はしないはずだと思いたい。
「ですから道も判ります。どうぞ遠慮しないで。貴方に何かあったら大変だ」
「毎日通っている道ですから、ご心配なく!」
「ところではもう食事は済ませましたか?」
「人の話を聞いてちょうだい!」
足を踏み鳴らして退けと怒鳴りつけたと同時に、空っぽの胃が軽快な音を上げる。
一瞬の間を置いて、が真っ赤に顔を染めて逃げ出そうと踵を返したが、後ろから腕を掴まれた。
「ちょうどよかった。一緒に食事に行きましょう。私も夕食はまだなんです」
「なにがどうちょうどいいのか、さっぱり判らないわ!」
「せっかく空腹な者同士がいるのですから、わざわざ一人で食事することもないでしょう」
「あなたと差し向かいで食事するくらいなら、一人のほうがよっぽどマシよ!」
きっぱりと跳ね付けると、キルヒアイスは小さく笑って掴んでいたの腕を強く引いて、倒れてきた細い身体を後ろから支えるようにしてその耳に囁く。
「つれない方ですね」
急に耳元で囁かれた甘い声に、背中にぞくりと悪寒に似たものが駆け抜ける。いや、似たものではなく悪寒そのものだと、は自分の両腕を掴んで寒さを覚えた動作で擦り上げた。
「そういうことするのはやめて!」
「おや、どういう行為のことですか?」
振り返ってキッと強く睨みつけたに、まるで心当たりがないかのように、人畜無害の笑みを浮かべて首を傾げる。
キルヒアイス提督は笑顔も涼やかで、隔たりなく誰にでも優しくて、素晴らしい方だ、なんて。騒いでいた宮廷の小間使いの娘たちに言ってやりたい。
この男の本性は、かなりおかしいと。
「どうしても食事をご一緒させてはいただけませんか?」
「食事は美味しく頂きたいの。疲れる食事はまっぴらよ」
「ではせめて、ご自宅まで送らせてください」
話が元に戻ってしまった。
は疲れたように溜息をついて額を押さえる。どうやったらこの男を追い払えるだろうか。仕事帰りで疲れているのに、こんなところで足止めを食らうのは予定も狂うし、ますますドッと疲れが押し寄せる。
今からの予定と言っても、出来合いの食事を買って帰り、遅い夕食の後は洗濯物の山を蹴散らして風呂に入って寝るだけだったのだが。
そこでふと、名案が思い浮かぶ。
「……では、送っていただけます?」
がしぶしぶといった様子で前言を翻すと、キルヒアイスはにっこりと笑顔で請負った。
「もちろん、喜んで」


そもそも自分とジークフリード・キルヒアイスはあまりプライベートでの付き合いはない。
あまりというか、皆無に近い。
だとすれば、有能な医師として任務につく以外の、だらしのないプライベートを見れば、一遍に嫌気が差すのではないかと考えたのだ。
キルヒアイスの女性遍歴は興味もないので知る由もないが、同僚のロイエンタールのような浮いた噂も聞いたことはないので、それほどの異性を知っているわけではないだろう。
であれば、あるほど、異性に対する理想というものがあるに違いないと踏んだのだ。
おまけに彼は、あのグリューネワルト伯爵夫人を間近で知っている。庶民出身とはいえ後宮の人でありながら家庭的な面を持ち続けた、あのたよやかな美女を、だ。
送ってくれた礼だと言ってアパートメントの部屋に案内すれば、きっと玄関口で回れ右して帰るに違いない。どうせ自宅住所は知られているのだから、連れて行くくらいなら今更だ。
通常の女性なら躊躇いそうな作戦だがは気にしない。これで縁が切れるなら安いものだと助手席に座って、窓から夜の景色を眺めてにんまりと笑った。
途中でマーケットに寄ってもらい、閉店前の値引き弁当を買っておくのも忘れない。
上級大将からの食事の誘いを断っておきながら、これはさぞかし気分が悪いだろうとさり気なく男を伺ったのだが、特に気にした様子はなくて少しがっかりする。
それどころか、手を伸ばすつもりだった売れ残りの値引きサラダまで先回りして手渡される。
「それだけでは少ないでしょう。それに野菜も摂ったほうがいいですよ」
「……ええ、どうも」
この男のプライドはどの辺りにあるのだろう。趣味がおかしいならそんなものまで通常とは違うかもしれないと、自宅へ招くことに僅かに不安を覚える。
いや、しかしあの部屋はすごい。きっと大丈夫だ。
既に自虐に近い確信であるにも関わらず、は気を取り直して会計しようとする男を制して自分で金を払い、再び促されて車に乗り込んだ。
そうしてそこから徒歩でもすぐの自宅アパートメントまで送り届けてもらうと、予定していた言葉を告げる。
「ありがとうございます、閣下。お礼にせめてお茶だけでも飲んでいかれませんか?」
キルヒアイスがまだ夕食を摂っていないことも計算の上だ。それなら、食事を理由に逃げ帰りやすいだろう。
これまでの行動が、気の強い女をからかってやろうとしてのことならともかく、本気でに近づきたいならここで断りはしないはずだ。
「よろしいのですか?こんな時間にお邪魔しても」
キルヒアイスは予想通りの笑顔で予想通りの答えを返す。
「ええ。こんな時間なのに送ってくださったんですもの」
は今までにないくらいの笑顔の大安売りでキルヒアイスを連れて車を降りる。
レディーファースト精神なのかキルヒアイスが部屋まで荷物を運ぶと言い張るので、通勤用の鞄からいくつかの鍵をつけたキーホルダーだけ取り出して、鞄と買い物してきた袋を預けた。
自宅や実家の鍵のみならず、仕事場のロッカーや机のキーまで一緒にしてある。おまけに自宅合鍵まで一緒くたの束は、鍵同士がこすれてじゃらりと重い音を立てる。
そのキーホルダーを手の中で弄びながら階段を登り部屋の前に着くと、束から一つの鍵を迷わず選んで差し込んだ。
ゴミだけは常に片付けて捨てているので強烈な異臭がするということはないが、玄関先から脱ぎ散らかした洗濯物の山が見える部屋だ。美しく優雅で、かつ家庭的な女性を知る男には衝撃的なはずだ。
さあ慄け、若造め!
心の中で自慢にならない自信も満々に、は勢いよく扉を開けた。
「少ぉーし散らかっていますけれど、さあどうぞ閣下」
玄関の明かりをつけると、さすがのキルヒアイスも言葉に窮したようだ。
一瞬の沈黙が起こる。
扉を開けてリビングまで続く短い廊下には点々と洗濯物があり、おかげで脱衣所に続く扉まで開けっ放しだ。
捨てようとまとめて縛っておいた新聞の山も廊下脇に鎮座している。開けっ放しのリビングの扉の向こうはまだ暗いので見えないが、あちらもあれやこれやと物が散らかっている。
なにより、宮廷を引き払い実家から移したいくつかの物が、未だに片付かずに箱に詰まった状態のままでリビングに居座っているのだ。
そこまで行かなくても、この汚れものの山を踏み越えてまでこんな家に入りたくなどないだろうと、やはり自慢にならない自信に満ちたまま、はにっこりと笑った。
「忙しくてなかなか掃除にまで手が回らなくて」
手が回らないにも限度があると思っているに違いないだろう若者を見上げて、は手を差し出した。
「荷物、運んでくださってありがとうございます」
さあ逃げ帰れ、そして愛想をつかして二度と来てくれるな。
そんなの心の声が聞こえたはずもないのだが、固まっていたように見えたキルヒアイスは、ふむと小さく唸った。
「中央病院にお勤めですから、確かにお忙しいでしょう。職場も変わられたばかりですし」
「………は?」
思った反応と違う。
キルヒアイスは顔を引きつらせるどころか、軽く顎に手を当てて散らかった部屋の玄関を見渡した。
「ちょうどよかった。もうすぐ休暇があるので、片付けを手伝えます」
「手伝えますってなに!?」
「ですから、休暇の日にを軍病院まで送った後、私が掃除をしておきます」
「どうしてそんな答えが出るのよ!」
泡を食って逃げ出すはずの青年が、しかも帝国軍上級大将が、散らかり放題の家の片付けをする。そんなバカな結論があるかと泡を食って反論したのはの方だった。
「か、閣下にそんなことさせられませんわ!」
「どうぞ気にならずに。貴方の為なら喜んで掃除夫になりますよ。これでも幼年学校で鍛えられていますから、水回りの掃除もできます」
「しなくていいのよ!」
「一日掛りの仕事になりそうですね。合鍵をお借りしてもいいですか?」
「いいわけないでしょう!」
悲鳴を上げるに、キルヒアイスはまるで他意などないかのように首を傾げる。
「では、今日は泊めていただいてもいいでしょうか。今日のうちから少しずつ始めたら、私の休暇の当日には温かい夕食を作ってお迎えすることができると思うのですが」
「この状態の家に上がるどころか、泊まる気になれるの!?」
は思わず頭を抱えてしゃがみ込んだ。甘かった。つくづく甘かった。ただでさえ趣味のおかしな男なのだから、片付けられない女に引いてくると思った見通しが甘かった。
?」
「家族でもない男を泊められるわけがないでしょう!帰って!」
キルヒアイスの手から荷物を引っ手繰ると、背中を押して玄関先から追い出そうとする。
「判りました。では合鍵を預かっておきますから、時間があるときにお邪魔しますね」
「合鍵をって……!」
キルヒアイスに預けていた荷物を引っ手繰ったとき、そういえばキーホルダーはどこにやったかと思っていたが、いつの間にか抜き取られていた。
おまけにスリさながらに鍵束を取っていた男は、見事に素早くこの部屋の合鍵を手にしている。
「さきほど差し込んでいたキーと同じ種類はこれですね。だめですよ。鍵と合鍵を一緒にしていたら、落としたときが大変です」
「今すでに大変だから!反省したから返し……」
「では泊めていただけますか?」
「なんでその二択なの!?」
押し売りのようにドア付近で粘る男に、は鍵を取り返すことをこの場では断念して、とにかく部屋から追い出すことに専念する。
「鍵は預けるわ!だから出ていってっ」
「そうですか。泊めていただけないのは残念ですが、それはまたの機会に」
「『また』はない!」
キルヒアイスは残念そうに微笑んで、合鍵だけ抜き取ったホルダーをに返した。
自分が甘かったのか、この男の普通ではない度合いが高すぎたのか、一体どちらだとぶつぶつぼやきながら鍵の束を受け取ったの上に影が差した。
何だと不審に思って顔を上げると、柔らかな唇が頬に軽く押し付けられる。
「なっ……!?」
「おやすみなさい、
絶句するに、キルヒアイスはにっこりと微笑んで踵を返す。
遠ざかる足音を聞きながら、ずるずると玄関に崩れ落ちるように座り込んだは、しばらく放心していた。
そのままばたりと洗濯物の上に横倒しに倒れて、天井を見上げて小さく呟く。
「絶対に、明日中に鍵を付け替えるわ……絶対に……」







彼女は片付けられないことだけが問題なのではなく、そこに平気で
好意寄せてくる男を招き入れることができる神経も疑って欲しかった
のでした。
おかしな人度合いは似たり寄ったりだと思います……(^^;)
続きの小話は、キルヒアイス側でその後。


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