求婚の練習曲(1)





帝国宰相ラインハルト・フォン・ローエングラムの誕生日は、その地位に比べて祝いはささやかなものだ。
著名な者を招いたり、優秀な部下たちと何か祝うわけでもなく、通常通りの政務をこなし、夜に邸宅に戻ってから姉と友人たちとこじんまりとしたパーティーを催すだけ。
公と私をまったく別物として扱っているラインハルトにとってはごく当たり前のことなのだが、アンネローゼの横で生クリームを混ぜていたは、つのが立つかを確かめながら軽く肩をすくめる。
「傍目には質素ですよねー」
「そうね、そう見えると思うわ。でもそれがラインハルトですもの」
アンネローゼはチョコレートを溶かしながらくすくすと笑う。
「でもおかげで、わたしが一緒にお祝いできるんだからいいんですけどね!」
は鼻歌混じりで上機嫌だ。
こじんまりとしたパーティーと言っても、料理は宰相の私邸のお抱え料理人が作り、デザートは伯爵夫人のお手製、出席者は主役の宰相と伯爵夫人と友人の上級大将なのだから、規模はともかく中身は豪華だ。その席に招かれたいと願うものは帝国中に数多存在するだろう。
は普段、メイドとして働いている以上はと主張して、食事はラインハルトたちとは別にとっている。ラインハルトもアンネローゼも、恐らく他の邸の者も気にはしないだろうけれど、けじめはけじめと、この意見はキルヒアイス兄妹の間では一致している。
だがこの日だけは別として、小さな誕生日会に同席する。
同僚たちに妬まれてもおかしくない状況で、微笑ましく羨ましがられているだけなのは、本人がどこまでも呑気な様子で、どう見ても友人の妹、あるいは妹代わりと見られているようにしか、周囲には見えないせいだろう。
混ぜている間に飛んできた生クリームを鼻の頭につけたまま、鼻歌混じりの歌を歌っているこの少女が、宰相閣下から求婚を受けているとは……誰も気づいていない。


公には特別に祝いはしなくとも、気がつけば祝辞の一つも言う者はいる。
ここぞとばかりに誕生日の話題を振って贈り物をしたがる輩は軽くいなされてしまうのだが、自然と出ただけの祝辞なら、ラインハルトも特に祝いを忌避することはない。
ラインハルトに書類を持ってきていたミッターマイヤーも、そういう一人だった。
「今日は閣下の誕生日でしたな。おめでとうございます」
「ああ、ありがとう。またひとつ歳を取ったが、それくらいのもので何も変わらんのがいささかつまらない話だが……」
読み終えた書類をめくりながら応対したラインハルトは、ふと書類から目を上げた。
「そういえば卿が奥方と結婚したのは、いくつのときだったかな?」
「は、結婚ですか?二十四のときですが……」
ラインハルトにしては珍しい話題が突然出てきて面食らったが、少し考えてある可能性が思い浮かぶと、ミッターマイヤーは笑顔で上官の様子をうかがった。
「もしや閣下もご結婚をお考えの方がおられるのですか?」
「む……あ、ああ……そのような、ところだろうか」
「それはめでたい!重ねておめでとうございます」
「ああいや、待て、違う。考えているというだけで、まだ……その、正式な申し込みも……」
口ごもるラインハルトに、ミッターマイヤーは目を瞬いた。
果断即行なこの方も、恋の前には臆病な一人の男なのかと思うと、不敬ながらも可愛らしく見えるのだから面白い。
ミッターマイヤーが結婚に至るまでの事情を知る者が聞けば、人のことが言えるのかと言いたくなる話だが、既に過ぎた時として本人は余裕で笑って済ませてしまう。
「それはいけません、閣下。閣下が見初めるほどの女性ならば、いつ不遜な輩が現れるとも限りません。これを機に結婚を申し込まれてはいかがでしょう」
「不遜な輩……」
居もしないライバルの影がちらついただけで不満だったのか、眉を寄せて繰り返したラインハルトに、ミッターマイヤーは握り拳で強く頷く。
「相手の女性の誕生日に申し込むというのもいいかもしれませんが、それまで待つよりは、今日この日でも良いではありませんか!結婚までお考えの相手ならば、今日も会われる予定でしょう」
「一緒に食事を取ることにはなっている」
このときラインハルトの脳裏には、アンネローゼとキルヒアイスが同席した、ほのぼのとした家庭的な食卓があった。
だが二人の名前が省略されていたので、ミッターマイヤーの脳裏にはもちろん、女性と二人きりでの食事を取る風景が思い浮かんだ。
「それはチャンスです閣下!その方の指輪のサイズはご存知ですか?」
「指輪?いや、そういった類の品は贈ったことがないから知らないな」
「それは残念……いや、では指輪は後日にするとしても、とにかく正式な申し込みはなさるべきです。こういう行事にちなむと案外スムーズに申し込むことができたりするものです」
「そうか……そうかもしれないな」
さすがにこの話題でロイエンタールを相談相手に薦める者はいないだろうが、求婚の相談なら同じ既婚者でも、妻以外にはろくに交際したことすらないミッターマイヤーよりは、ワーレンとかケンプとか他に適任者はいるだろうに。この場に他の提督が一人でもいればそう思ったかもしれない。
ミッターマイヤー自身は、交際期間というもの自体があまりない。
妻のエヴァンゼリンと知り合ってから結婚に至るまでは七年も要したのだが、正式な恋人となったのは求婚と同時だった。彼は、まだ恋人でもなかった女性にいきなり、結婚を前提にした付き合いどころか、結婚して欲しいと申し込んだのだ。
ラインハルトの恋愛の進展度について、まるで質問もせずにやたらと背中を押すのも無理は無い。
……あまり恋愛相談に向く男ではなかった。


ラインハルトの元を辞したミッターマイヤーは、思わぬところで知った大事件に少々浮かれていた。
元々ゴシップの類は興味もないのだが、話題がラインハルト・フォン・ローエングラムの結婚となれば、めでたい話なだけに祝福気分になろうというものだ。
ラインハルトの立場を思えばおいそれと外に漏らしていい話ではない。まさかローエングラム候が袖にされるなどとは思わないが、逆に言えば立場が立場なだけに相手の女性が二の足を踏んでもおかしくはないのだから、正式に婚約ないし結婚が決まるまでは外野が騒いではいけない。
だが、相手次第ではそんなめでたい話を分かち合いたい場合もあるだろう。
偶然廊下で見つけたキルヒアイスとロイエンタールは、それにはうってつけの相手だった。
少なくともミッターマイヤーにはそう思えたのだ。
ロイエンタールは口が堅いし、彼に「卿もそろそろ」と言うにはもってこいの話題だ。
キルヒアイスは言うまでもない。それどころかラインハルトとはプライベートでも深い付き合いなのだから、相手の女性の事だって知っているだろう。
仕事の話をしながら歩いていた二人に、ミッターマイヤーは気軽に声をかけた。
「ロイエンタール、キルヒアイス!」
「ああ、ミッターマイヤー提督。元帥閣下のところへ行っておられたのですか?」
「うむ、艦隊再編の叩き台が出たところだ」
「この間キルヒアイスが演習で叩き直してきた連中だな」
「リップシュタット戦役の煽りで手薄になっている星系があるから、その辺りはもう少し煮詰める必要があるのだが」
手を差し出したロイエンタールに書類を渡しながら、ミッターマイヤーはキルヒアイスを見上げて笑う。
真面目な仕事の話の合間にしては、なにやら含むところのありそうな笑顔に目を瞬いたキルヒアイスの横で、ロイエンタールは書類に目を落としていた。
「ところでキルヒアイス、今日は閣下の誕生日だよな」
「ええ、そうですね」
「閣下と一緒に食事を取るというご婦人、卿ならもちろん知っているよな?」
「………は?」
「とぼけるな、卿が知らんはずはなかろう」
キルヒアイスはとぼけたわけではない。本当に「ご婦人」には心当たりがなかっただけだ。
あの妹はご婦人などという言葉が似合うような淑女ではない。
ミッターマイヤーの話し方は興味津々といったようないやらしい感じはないのだが、話題の人が女の影の欠片も聞かないラインハルトだったので、ロイエンタールも思わず顔を上げる。
「求婚を考えている女性というではないか」
「求婚!?」
二人の裏返った声が重なって、ミッターマイヤーは思わず周囲を見回しながら声を落とすようにと指示をする。
「二人とも、声が大きい」
「卿が突拍子もないことを言うからだ。閣下に恋人がいるなどという話、聞いたこともないぞ」
「それは俺もだ。だが先ほど、急に俺が結婚したのはいくつだったかとお聞きになってな。どうやらそういうことを考えている女性がおられるらしい。まだ正式な申し込みはしていないと仰られたから、今日この日に押すべきだと言ってきたところなのだ」
どうだめでたいだろうと胸を張るミッターマイヤーに、ロイエンタールは書類を片手に顎を撫でながら少し思案するように眉を寄せた。
「しかしミッターマイヤー、ローエングラム候の夫人となる女性は生半な者では困るぞ。なにしろ……」
元帥府であるとはいえ、場所が廊下なのでロイエンタールはそこで言葉を濁したが、続く言葉はミッターマイヤーにも判った。
ローエングラム侯爵夫人となる女性は、未来の皇后だ。確かに、身分はともかく人格に問題があれば困るではすまない大事になる。
「それはそうだが、ローエングラム候が妙な女性を見初めるということもなかろう」
「さてな」
過去を紐解けば、名君と謳われた君主がろくでもない后を迎えた例などいくらでもある。
臣下を見る目があるからといって、女性を見る目もあるとは限らない。だからこそ女で滅びた国や人物は事欠かないし、恋は盲目などという言葉があるのだ。
ロイエンタールからすれば恋愛で右往左往するなど愚かなことだの一言なのだが、ラインハルトの恋愛となればそれで済ませるわけにもいかない。
ミッターマイヤーと同じく、唯一その相手を知っているだろうキルヒアイスの意見を聞こうと視線を向けて、二人は絶句した。
キルヒアイスは蒼白になって眩暈を堪えるかのように額を押さえている。
「どうしたキルヒアイス!?」
「問題のある女なのか?」
ロイエンタールの難しい声に、ミッターマイヤーはそちらを見て、またキルヒアイスに視線を戻す。
額を押さえながら、キルヒアイスは別の可能性を思いたかった。
まだ正式に求婚はしていないという。
ラインハルトは、には正面切って結婚しようと申し込んでいた。
だが、そのあと彼女にそのことは「考えなくていい」と、取りようにとっては撤回とも思えることを言っていた。撤回していないとは、キルヒアイスは判りたくもないのに判っているが、とにかく返事を聞く気がないと言ったからには、ラインハルトにとって「正式なプロポーズ」ではないかもしれない。
がしりとミッターマイヤーの両肩を掴んで、キルヒアイスは蒼白な顔色で迫る。
「……閣下は、今日、その方と、お会いになる、と?」
「あ、ああ、食事を共にすると」
キルヒアイスはそのまま床にしゃがみこんだ。
今日一緒に食事を取るメンバー。
アンネローゼ=姉。
キルヒアイス=友人、同性。
あと一人は、
「ど、どうしたキルヒアイス!?」
夜の街で店先にたむろする少年たちのような座り方で頭を抱えるキルヒアイスに、ミッターマイヤーはおろおろと肩を叩こうかどうしようかと、その背中とロイエンタールを交互に見る。
ロイエンタールは溜息をついて、腕を組んだ。
「どうやらかなり問題のある女らしいな」
「問題がある?」
頭を抱え込んでいたキルヒアイスは、その一言に眉を寄せた。
キルヒアイスは、確かにこの話には反対である。だが可愛がっている妹を、漁色家の男に『問題アリ』などと言われることは我慢ができない。はあくまでラインハルトの妻となるにはどうかと思うだけで、悪い子ではないのだ。少なくとも兄にとっては。
「問題があるなどと、取り消してください」
すくっと立ち上がったキルヒアイスに睨まれて、ロイエンタールは思わず一歩下がった。
「し、しかし卿も問題があると思ったから頭を抱えているのではないのか?」
「それとこれとは別問題です!」
「どう別問題なのだ!?」
事情が判らないロイエンタールが混乱するのも無理はない。キルヒアイスの態度はどう見ても、結婚には反対している。
「お、落ち着けキルヒアイス」
キルヒアイスの様子に、一度その怒りを向けられた過去の恐怖を思い出したミッターマイヤーが取り成そうと手を振った。
「ロイエンタールは別に閣下のご結婚に反対しているわけではないのだから、そう怒らずともいいではないか。特に問題がない女性なら、それこそめでたい話で……」
「その結婚には反対ですっ!」
「どっちなんだ!?」
二人の勇将は、声を揃えて悲鳴を上げた。







苦悩の兄と、お気楽な妹(^^;)


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