襲来の輪舞曲(5)
四日前の晩、がその声を聞いたのはたった数言だ。 だから、一言入室の断りを入れただけの声が誰のものかわかっていなかったのだ。 来訪者の登場でこの気まずい雰囲気がどうにかなればと期待で顔を上げて、扉の開いた先に立っていた人物に思わず悲鳴を上げた。 「ぎゃーーっ!?」 「なっ………!」 驚いたのはミッターマイヤーも同じだ。いないと思っていたはずの人物が二人揃っていれば、硬直もするだろう。 キルヒアイスが音も立てずに静かに立ち上がって振り返る。 「これはミッターマイヤー提督、ちょうどよいところに。今から妹を連れてお伺いしようと思っていたところです」 「な、そ、それは、いや、俺は、その………っ!?」 ロイエンタールは混乱する憐れな親友を見るに忍びなく、片手で目を覆いながら深い溜息をついた。 つい、数歩後ろに下がってしまったミッターマイヤーの腕を、キルヒアイスがしっかりと掴んで部屋の中に招き入れた。どちらかといえば引きずり込んだと言うほうが正しいかもしれない。 「どうぞお座りください」 そうして、の正面に無理やり座らせる。 蒼白な妹と同僚に、均等に笑顔を見せてキルヒアイスは抑揚のない声でまず礼を述べる。 「妹から詳しい話を聞きました。改めてミッターマイヤー提督にはお礼と謝罪をいたしたく思います。さあ、もお詫びしなさい」 はなるべく兄の顔もミッターマイヤーの顔も見ないようにしながら頭を下げる。 「……あ、あの夜は本当にお世話になりました……」 「い、いや………」 ミッターマイヤーもテーブルに視線を落としたまま、まともに正面に座る少女を見ることなど、出来ない。 そして隣に立つキルヒアイスを振り仰ぐ気になど、欠片もなれない。 「……それで、提督はその夜の記憶がないのだとか」 ミッターマイヤーは弾かれたように斜め前に座る親友に視線を送った。相変わらずロイエンタールはよそを向いていて、目を合わせようとしない。 「つきましては、妹から説明させたいと思います」 「わたしが言うの!?」 目の前の男には素っ裸を見られているのだ。 こうやって正面から顔を合わせるだけでもつらいのに、その時の状況を語れというのか。 思わず兄を振り仰いで、はすぐに後悔した。 今、兄の顔を見てはいけない。 再び視線を落として膝の上に握り締めた拳をだけ見つめながら、キルヒアイスに説明したことと同じ内容を、とつとつと繰り返して語った。 何があったのか知りたくはあったけれど、当事者から聞くのはミッターマイヤーにとってもこの上のない拷問だった。 そうして、知った真相は聞かなければよかったというような内容であった。 が語り終えると同時に、たまらず椅子から滑り落ちて床に両手をついて頭を下げる。 「申し訳ない」 いわゆる土下座だ。 ミッターマイヤーが床と親しくなっていることには言及せずに、キルヒアイスは軽く首を傾げた。 「提督に非はありません。すべて妹のの至らなさが原因ですから」 「い、いや、そもそも俺が不甲斐なく卿の妹の手を煩わせなければこんなことには……」 「提督の非ではありませんよ。ええ、少しも」 繰り返したキルヒアイスに、謝罪の言葉も言えなくなる。 進退窮まったミッターマイヤーの旋毛を見ながら、ロイエンタールは執務室を明け渡して退出したくなった。 いや、退出したかったのは最初からなのだが。 椅子に座って俯いたままの妹と、床に額をつけんばかりの同僚と、窓の外へ視線を逃がしている同僚を見回して、キルヒアイスは軽く溜息をついた。 「提督、どうぞ顔を上げてください」 「も、申し訳ないと……」 キルヒアイスは、床に片膝をついてミッターマイヤーの肩を叩いた。いや、掴んだ。 「どうぞ、顔を上げてください」 その握力に呻きながら、引き摺り上げられるように平身低頭していた身体を起こしたミッターマイヤーはまともにキルヒアイスと目を合わせてしまった。 キルヒアイスと。 裸を見てしまった少女の兄と。 目を瞑っていればよかった。 「提督に非はありません」 そう言っているが、キルヒアイスに掴まれた肩は悲鳴を上げている。 「ただ、見たものは忘れてください。ええ、お願いします」 「も、もちろんだ。忘れる。すぐに忘れる!」 「その方が懸命です。なにしろ、は公もまるで妹のように可愛がってくださるほどのお気に入りですから……この件は、みんなですべて忘れてしまいましょう」 必死に頷くミッターマイヤーを確認すると、鋭くロイエンタールを顧みる。 油断していたロイエンタールも、やはりまともにキルヒアイスと目を合わせてしまい、忘れる「みんな」に自分のことも含まれていることを悟った。 「……俺は、最初から何も聞いていない」 望む返答を得て、キルヒアイスはゆっくりと頷いた。 「結構です。では、お暇しようか」 「は、はいっ」 椅子に電流でも流れたのかというほどの素早さで立ち上がったは、だがその素早さとは対照的なぎくしゃくとした動きでテーブルを迂回して扉に向かう。 扉を開けて早く廊下に出ようとしたら、襟首を掴まれた。 「提督方にご挨拶を忘れている」 「そ、それでは失礼します!」 むしろ挨拶などしなくていいから早く行ってくれ。 ミッターマイヤーとロイエンタールは双璧と謳われる名に相応しく、同時に切に願った。 兄妹が扉を閉めて出て行くと、ミッターマイヤーは冷や汗を拭いながらようやく息をつく。 「お……恐ろしかった……」 「卿は自業自得だろう。なぜ俺まで巻き込まれねばならん」 「そうつれないことを言うな。だが、普段温厚な人間を怒らせると怖いというやつは骨身に染みて実感したぞ」 「ああ、まったくだ。……それにしても……」 ロイエンタールは閉められた扉を見やって軽く苦笑しながら顎を撫でた。脅威の元が去ったので、既に余裕を取り戻しつつある。 「どうやら相当、妹を大事にしているようだな」 「まったくだ」 ミッターマイヤーもようやく床から立ち上がり、肩を竦めた。 「どうせ威圧されるのなら、手を出しておけばよかったのではないのか?」 「よしてくれ。それこそキルヒアイスがどう出るか、想像するだけでも恐ろしい」 その前に、ミッターマイヤーには妻以外の女性をどうこうするつもりはない。それがわかっていてこその軽口だったのだが。 「ミッターマイヤー提督」 去ったはずの脅威が扉を開けて、ミッターマイヤーとロイエンタールは揃って逃げ出しそうになった。 「キキキ、キルヒアイス!?」 身体の重心が後ろに下がっているミッターマイヤーを気にも留めずにキルヒアイスは目の前まで戻ってくると、手に持っていた数枚の紙を差し出した。 「申し訳ありません、お渡しするのを忘れていました。提督の書類です」 「あ、ああ!す、すまんなっ」 元々この執務室に来た理由だ。そんなことミッターマイヤーもすっかり忘れていた。 恐るおそると書類を受け取ると、キルヒアイスはすぐに踵を返す。 話は聞かれていなかったのかとロイエンタールと視線を交わしていると、廊下に出たキルヒアイスは扉を閉めるべく振り返って笑顔で最後にこう言った。 「すべて忘れるという約束は守ってください。なにしろ『大事な妹』の純潔に関わることですから、再びこの話題を聞けばどうなることか……」 ぱたんと閉められた扉をじっと凝視して、二人の勇将はしばらく動けなかった。 預かった書類を渡し忘れるなんて、相当頭に血が昇っていたらしい。 廊下の先でこちらを見ないように俯いて待っている妹を眺めながら、キルヒアイスは深い溜息をついた。 まだまだ子供だと思っていたし、実際今回の事態は妹が年齢の割に子供だから起こった事故だ。 だが、その身体つきは既に子供のそれではない。 ミッターマイヤーだったからこそよかったものの、バスローブだけで同じベッドに入り込むなんて、下手な相手なら笑い話ではすまないことになるところだった。これも十分笑い話ではなかったが。 戻ってきた兄にびくびくと怯えているに、苦笑して軽く頭に手を置いた。 「ほら、みんなで忘れると言っただろう」 震えていたは、驚いたように顔を上げる。 身長差のせいでほぼ垂直に上を向くことになるが、キルヒアイスの表情に苦笑いがあるだけでもう怒りはないのだと知ると、喜んで抱きつく。 「ごめんなさい、兄さま」 「うん、反省だけは覚えているように」 我ながら甘いと思いながら、軽く背中を叩いて心底反省したらしい妹を宥めると、元帥府を辞去する前にラインハルトに挨拶をしておくようにと、執務室へと連れて行く。 とキルヒアイスが揃って現れると、ヒルダは思わず腰を浮かしてしまった。 「あ、あの提督……」 「ああ、フロイラインにもご迷惑をお掛けしました。もう解決いたしましたので」 全力の笑顔で言い切ったキルヒアイスに、ヒルダはそれ以上何も聞けない。 ヒルダの質問を封じ込めてラインハルトの執務室に入ると、部屋にはすでに飲み物とアンネローゼの巴旦杏ケーキが三人分用意されていた。 「ご苦労だったな、キルヒアイス。まあ座れ。が姉上のケーキを届けてくれたんだ。一緒に食べよう」 「ありがとうございます」 ラインハルトは正面に座ったキルヒアイスにもう一度労いの言葉をかけ、その隣に座ったに優しい笑顔で邪気なく訊ねた。 「ロイエンタールらと会ったそうだな。楽しかったか?」 「…………と、とっても」 それ以外の返答のしようなどなかった。 「そういえば、ミッターマイヤーにはちゃんと礼を言いに行ったのか」 がフォークを取り落とし、ラインハルトは目を丸めた。 「どうした」 「ミッターマイヤー提督は、大したことではないから気にするな、忘れてくれていいぞと仰いまして、寛大な言葉にほっといたしました」 そんな言葉は一言も言っていない。あれは忘れろとキルヒアイスが威圧したのだ。 「そうか、それはよかった。ではが会ったのはロイエンタールとミッターマイヤーと、それからビッテンフェルトとワーレン、それにミュラーでいいんだな?」 は最後の名前に首を傾げる。聞き覚えがない。 いや、元帥府に所属する提督の名前は知っているが、会った覚えがないのだ。 ……キルヒアイスと一緒に現れたから。 「他の者にもいずれ挨拶をしておくといい。先に顔を合わせていたほうがいいだろうからな」 にはその意味がわからなかったようで、ミッターマイヤーの話がそのまま流れたのでほっとしたように頷いていたが、隣でキルヒイアイスは肩を落とした。 ラインハルトは「先に」と言ったのだ。何に先立ってというのか。 もちろん、ラインハルトの妻となる前に、だ。 一旦その話は取り下げたのだとばかり思っていたが、ラインハルトはに考えなくてもいいと言っただけだ。取り消すなどと一言も言っていない。 それどころか先にという以上、ラインハルトの中では結婚はほぼ決定事項らしい。 胃がキリキリと痛むような気がして、キルヒアイスは思わず鳩尾を押さえた。 本当にラインハルトとが結婚することになれば、ミッターマイヤーが同じ思いをすることは間違いないだろう。 |
みんなで忘れることにしたのでミッターマイヤーの恐怖体験もこれで終わり…… だといいんですが(^^;) |