「怪我はありませんか?」
「え……あ、は、はい。ありがとうございます」
声を掛けられて、ようやく助けてもらったのだと気がついたが慌てて頭を下げてると、苦笑した青年がふと何かに気づいたように顔を上げてぎょっと青い目を見開く。
「ラインハルト様!木登りなら私がいたします!」
「お前はその小さなご婦人の怪我の様子でも見ていろ」
「ああ……もう、まったく人のお願いは聞いてくださらない」
赤毛の青年は、嘆くようなことを言いながらも地面に丁寧に降ろしてくれた。振り返ると、金の髪をなびかせる青年がよりもはるかに身軽に木に登り、猫を片手で捕まえるとするすると降りてくる。
その手際の良さに感嘆の思いで両手を合わせたのすぐ目の前に、途中の枝を蹴って青年が飛び降りてきた。
ぎょっとして硬直したに、青年は首を掴んだ子猫を差し出す。
「ほら、どうやら怪我もないようだ」
「あ、ありがとうございます」
がそっと子猫を受け取ると、青年は肩についた木の葉を軽く叩き落として頷いた。
「しかし無茶をするな。見たところいいところの子女のようだが、木登りなどしたこともないように見受けられるが?」
「え?あ、はい……でも、誰もこの子に見向きもしてくれなかったし……誰かが手を貸さないとと思って……」
誰も助けてくれない。可哀想にと遠くから気の毒がるだけで、差し伸べられる手はない。
ひとり震える恐怖を、は知っている。
「君の猫ではなかったのか?」
驚いたように言われて、も驚いて青年を振り仰ぐ。
「え、違います。でも鳴いていたから」
金髪の青年と赤毛の青年は顔を見合わせて、金髪の青年がの抱いた猫に手を伸ばした。
「すまなかった、てっきり君の猫かと思って押し付けた」
青年に掴まれた子猫は、の腕から連れ出されること嫌がるように、服に爪を立てた。青年が子猫を引っ張ると、布が破れる嫌な音が聞こえる。
「…………す、すまないっ」
「いえ、気にしないでください」
青年は慌てて手を離して金の髪を散らして頭を下げて、も慌てて頭を上げてくれるようにとお願いする。
「あの、この子、飼ってもいいかお兄様に……兄に、相談してみます。駄目なら誰かもらってくれる人を探してみますから」
周囲を見回しても、親や兄弟らしき猫はどこにもいない。震える子猫もしがみ付かれて、それを無碍にする気にはなれなかった。
「そうか……そうしてくれるなら、それがいいだろう。俺たちには動物など飼う余裕も、引き取ってくれるような相手を探す暇もないしな」
動物を飼う余裕がないと言う、身なりのよい人に首を傾げながら、は頷いた。
金銭的や住居などの問題ではなくても、動物を飼えない理由はいくらでもある。
とにかく、この子猫に最初に手を出そうとしたのは自分だ。誰かの飼い猫ではなく、どこにも行くところがない様子なら、その後の身の振り方まで面倒をみるべきだろう。中途半端に手を差し伸べるものではない。
「では」
金髪の青年が軽く手を上げ、赤毛の青年が優しく微笑んで歩き去るのを、頭を下げて見送ったは、時間がかなり掛かってしまったことに気づいて慌てて飛び上がる。
「いけない、お兄様……いたっ」
元来た道を駆け戻ろうと一歩踏み出して、右足に走った痛みに思わずしゃがみ込んだ。
その拍子に、猫を抱いていた腕に力を込めてしまったらしく、腕の中で不満の悲鳴のような鳴き声が上がる。
「ご、ごめんなさい、わざとじゃないの………どうしよう、足を挫いちゃった……」
枝を踏み外したときに、どうやらおかしな方向に捻ったらしい足首がズキズキと痛む。
右足を擦ると、布越しの熱を感じる。
それでも早く兄の所に戻らなければ。
意を決して息を吐くと、は思い切って立ち上がった。
次の瞬間、上に引っ張られるようにして持ち上げられる。
立ち上がった格好のまま、縦抱きにされたその肩は、よく知っているものだ。
「お兄様!」
「お前は……小さな子供ではあるまいに、少し目を離しただけでふらふらと」
抱き上げられていて表情は見えないけれど、その声は不機嫌な様子で至極低い。
「ご、ごめんなさい……」
ロイエンタールはすぐに踵を返し、元の通りへ戻るべく歩き出す。
「待っていろと言われてその場で待つことくらい、犬にでもできる。それすらできないどころか、見つけてみれば薄汚れて足を捻り、おまけに小動物まで拾っている」
子猫を抱き締めていた手に力を少し入れて、は浮かんだ涙を堪えた。兄が怒っていることはもっともなことばかりだ。
大股で路地を抜け、止めていた車にを放り込むと、ロイエンタールは運転席へ乗り込んで溜息をつきながら髪を掻きあげた。
「できもしないことをやろうと試みた挙句、怪我をするくらいなら何故俺を呼びに戻らなかった」
乱雑に放り入れられた後部座席のシートに座り直しながら、考え付きもしなかったことを責められては俯いて肩を落とす。
「ごめんなさい……この子を降ろしたら、すぐに戻るつもりで……」
「だから、何故俺を呼ばなかったと言っている。足を捻るなど、落ちたらどうするつもりだった」
鳴きながら見上げる子猫の黒い瞳を見ていたは驚いて顔を上げた。兄は落ちたところを見ていなかったのかと、今更ながらに気がつく。
「親切な人に受け止めてもらえました」
「そうか、受け止め………落ちたのか!?」
「はい。でも下で受け止めてくださった人がいて、お連れの方がこの子を連れてきてくださって……お兄様?」
ハンドルに突っ伏した兄に気づいたは軽く身を乗り出して、右足に走った痛みに小さな声を上げてシートに尻餅をついた。
「お兄様、あの……」
「………お前の、その自分でしようとする癖は直せ。人を使うことを覚えろ」
「でも……」
「それで怪我をした癖に、何か言うことがあるのか」
ハンドルから顔を上げ、振り返った厳しい兄の表情には言葉を失いシートの上で小さく肩を竦める。
「はい……」
「己にできることと出来ないことを見分けることなど、当たり前のことだ。その足ではパーティーに出ることもできまい」
「はい……」
せっかく兄が衣装も宝石も小物も、すべて見立ててくれたのに、それらがすべて使えなくなるなんて、本当に情けない。
子猫を抱き締め、ぎゅっと唇を噛み締めて涙を堪えたは、もう一度ロイエンタールに頭を下げた。
「ごめんなさい……お兄様……」
「それで、その動物はどうするつもりだ」
子猫を抱く腕に、少し力を込める。
勝手にいなくなって怒らせて、怪我をして怒らせて、せっかく買ってくれたものを無駄にして怒らせて、それで一体何をお願いするというのだろう。
けれど、腕の中のものは、物ではなく命だ。
「この子を、飼いたい……です。お兄様、お願い、この子の親猫も兄弟猫も、見当たらなかったの」
顔を上げて、兄の横顔を見つめて願いを口にする。兄の表情は動かない。
「それは、お前にできることなのか」
「猫の飼い方は勉強します。できるように頑張ります」
「……そうか」
ロイエンタールはキーを回して、車のエンジンを掛ける。のことは振り返らず、車を出しながらもう一度問いを重ねた。
「ひとりで飼えるのだな?」
「は……」
はい、と答えようとした。兄の手を煩わせるつもりはない。そんなことにならないように、注意を払う。
けれど猫を飼うことで、その他の誰の手も煩わせないかといえば、そうとは言い切れなかった。四六時中猫を抱いているならともかく、家の中を歩き回るなら家人の手を煩わせることもあるだろう。命を飼うのだから、予測できないことだってあるかもしれない。
何もかもを、独りでできるとここで言い切ることは、できない。
「……なるべく、頑張ります。誰かに助けてもらうこともあるかもしれませんけれど……でも、お兄様のご迷惑にだけはならないように」
「ならば好きにしろ」
ひとりで飼えると大見栄を張ることはできなくて、正直に訴えて説得をするつもりで言葉を重ねたは、あっさりと返って来た返答にしばし言葉をなくした。
ハンドルを切りながら、ロイエンタールはちらりとバックミラーに目をやる。
「どうせ俺は邸にいる時間は短い。お前の好きにしろ」
「……お兄様」
「だがその獣を俺の部屋にだけは入れるな。それだけだ」
「はいっ」
はっきりと頷いて、は腕の中の子猫に頬擦りをして小さくよかったねと呟いた。
それが本当は一体誰に対した言葉なのか、自身にもわからぬままに。



邸に戻ったの汚れた格好に、邸の者はもちろん驚いた。破れた服や、髪についた木の葉が木に登っただろうということを言わずとも示している。
そしてロイエンタールが猫を飼ってよいと許可を下した話には、更に驚いた。
「……あれのあの姿より、俺が獣を飼うことを許したほうに驚くとはどういうことだ」
汚れた猫と一緒に、同じく汚れたは入浴と怪我の治療に行き、自室に戻ったロイエンタールはどこか釈然としないものを感じて不平を鳴らす。
夕食までのひと時のための飲み物を運んできた執事は、主人の不平に思わずといった態で破顔した。
「みな、オスカー様の優しさに感動しているのですよ。それにしても、なぜお嬢様に猫を飼うお許しを?」
にこにこと食えない笑顔で、結局それを問うのかと、ロイエンタールは幼い頃から知っている執事に胡乱な目を向けて、テーブルのカップを手にした。
「……俺は邸を不在にすることが多い。出征となればなおさらな。パーティーへの出席も見合わせることになった。気を紛らわせるものも、何か必要だろう」
「オスカー様、なんとお優しい」
涙を拭う仕草を見せる執事を鋭く睨みつけて、やや乱暴にカップをソーサーに戻す。
「それよりも、あれが率先して自分で何でもこなすことをどうにかさせろ。獣の件にしても、どこかのお人好しが手を貸さねば大怪我をしていたかもしれんのだぞ」
「はい、そのことに関しては深く反省いたします。お嬢様には、もう少しお嬢様らしくしていだきますように、と」
執事は恭しく頭を下げたが、ロイエンタールはその下で笑っている様子が手に取るように判って、忌々しげに深く息を吐き出した。







割と当たり前に人を使うお兄様としては、何でも自分でやっちゃう気持ちは判り辛いかと。
ちなみにこの時点のラインハルトはまだ中将なので、ロイエンタールとは面識はありません。
子猫は今後も大きく話には絡みませんが、ちょこちょこと出てくるかと。


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