その日、ロイエンタールは自宅で朝食後のひと時を、ワイングラスを傾けながら過ごしていた。
ソファーに斜めに座り、片腕は背凭れに乗せて、腹の上の本は片手で上から支えて指先で捲くるという気だるげな姿勢で寛いでいる。その膝には、黒髪の少女の頭が乗っていた。
は毛足の長い絨毯に直接座り、ソファーの兄の膝に頭を預けて目を閉じて動かない。
時折、思い出したようにロイエンタールがその頭を撫でると、うっとりとその手に頬を摺り寄せ喉を鳴らす猫のように目を細めて喜ぶ。
郵便物を手に休日の主の私室を訪れ目にした光景に、執事は思わず溜息を零しかけて飲み込んだ。
「そういえばオスカー様、お嬢様のお披露目はどうなさるおつもりですか?」
「お披露目?」
手にした書籍を興味の薄い視線で眺めていたロイエンタールは、怪訝な表情で古株の男に目を移した。
「はい。そろそろ社交界に出てもおかしくはないお歳かと」
「ああ、デビュタントをどうするかということか」
ロイエンタール家は貴族と言っても爵位もない帝国騎士の家系で、現当主たるオスカー・フォン・ロイエンタールはどこまでも軍人思考の男だった。社交の場で人脈を作りなにがしかの利を得るという考えがないために、妹たる少女をパーティーに出席させるということを、執事に言われるまで丸きり思いつきもしなかった。
ああいった場所に意義を見出していないということもあって、それが彼女のためになるとも思えないということも、理由の一端にはあるかもしれない。
自分の話だというのに、兄の膝から顔を上げたもきょとんと目を瞬いている。
兄と同じく少しも興味がないのだろう。
は学校にも通っていないし、社交の場にも出ていない。ロイエンタールは家に人を招くなどということはしないし、彼の父も生前、妻の身代わりにした少女を籠の鳥にすることで満足を得ていたので、彼女を外の世界に触れさせようとしなかった。
そうやって囲われた少女にとって、世界はこの家で完結している。そうして本人もそれをまるで苦にしていない。彼女は兄の傍にあることができれば、それで満足している。
社交界に出て行くということは、友人を得るなどの大きなよい契機になるかもしれない。
そう思って提案したというのに、兄妹は揃ってまるで興味がないようだった。
「しかし披露と言っても、にダンスやその他の公的な場での振舞い方を教えていたか?」
「それは旦那様が講師をつけておられましたので」
「そうなのか?」
すっかりロイエンタールの膝から起き上がり、けれどまだ絨毯に座り込んでいたはあっさりと頷いた。
「はい、一通りは。……奥様は機知に富んだ方だったと……」
妻になぞらえて引き取った娘なので、妻と同じことが出来るようにしておくことは、男にとっては当然のことだったのかもしれない。しかしすべてのマナーを叩き込んでおきながら、あの男はそれを使う場を与えるつもりは最初からなかったのだ。
どれほど勝手でくだらない男か今更呆れるという話でもないが、ロイエンタールは軽く息をついた。
「衣装を見繕う必要があるな」
「旦那様にいただいたドレスならいくつか……」
はまだ一度も社交界に出ていないので手持ちのドレスならばどれを着ても問題はないに違いないが、ロイエンタールは軽く眉を上げて不快を表す。
「仕立て屋を呼んでもいいが……まあいい、出かける。支度をしろ」
自分のものを、あの男が選んだ品で飾り立てるなど冗談ではない。ロイエンタールは本をテーブルに放り投げて当然のことを言ったまでの話だったのだが、目を瞬いたの表情は、次第に輝いていく。
「お出かけできるんですか?お兄様と一緒に?」
どちらかと言えば新しい衣装の話に消極的に見えたが喜んで立ち上がり、ロイエンタールはソファーに座ったままその無邪気な笑顔を見上げる。
「すぐに支度します!」
普段は静かに歩くというのに、は浮かれてぱたぱたと足音をさせながら廊下へ駆けて行った。
「……小さくてもやはり女だな。己を飾り立てる物を買い求めるのは楽しいのか」
「オスカー様……」
執事は呆れたような声で額を押さえて首を振る。
「お嬢様が喜んでおられるのは、美しい宝石や煌びやかな衣装に心惹かれてのことではないと思いますが」
「では何だ」
「オスカー様とお出かけできることが、嬉しいのですよ」
思ってもみないことを言われて、ロイエンタールは目を瞬いた。そんなことのどこに意義があるのか、さっぱりとの気持ちが理解できない。
理解できないまま、執事が差し出したコートを手に玄関ホールまで降りたロイエンタールは、先に来て待っていた少女の待ちきれない様子に軽く腕を動かして示す。少女はすぐにその腕にしがみつくように抱きついて、今にも鼻歌でも歌いだしそうな笑顔を零した。
腕にぶら下がってはしゃぐ少女を見下ろして、振り返ると執事も喜ばしいことのように笑顔で頷く。
玄関ホールの高い天井を軽く見上げて、ロイエンタールは少女の髪を崩さないよう、頭の代わりに頬を軽く撫でた。
「なるほど、犬は散歩を好むものだったな」
「オスカー様」
兄の呟きの意味を理解していない少女は軽く首を傾げるだけで嬉しそうな様子は変わりなかったが、執事は呆れたように咳払いをした。



パーティーへ出席するための買い物は、多岐に渡った。
ドレスなどはオーダーメイドのために全身のサイズを測り、その上で形や色を見るために次々に何度も着替えていたし、他にも宝石や靴やバッグ、ドレスと揃えてあつらえる扇などの装飾品や小物まで実に様々とある。
それをどれもこれも数種類を色や形を考えて、何度も取り替えながら決めるために、買い物に慣れないは最後の店を出たときには、目が回りそうになっていた。
出かけるときのあの散歩前の犬のような元気の良さが、額を押さえてふらふらしている様になっていて、ロイエンタールは笑いを噛み殺す。
「疲れたか」
「少しだけ……」
「次からは仕立て屋を呼ぶか」
「いいえ、平気です!」
何気ないように言ったロイエンタールに、は慌てたように可愛い拳を握って振り仰いだ。
この少女は買い物ではなく、兄と一緒に出かけることが嬉しいのだと、執事が言っていた言葉を証明するような様子に、ロイエンタールは目を細めて僅かに微笑み、そうかと短く頷くだけだった。
昼前から始めた買い物は、終わった頃には既に日が傾きかけている。
女の買い物に付き合って楽しいなどと思ったことなど一度もなかったが、付き合うというより積極的に自分好みに飾り立てて行くことならそれなりに楽しめるものだと感心してしまう。もっとも、飾り立てたいと思ったことなど今までなかったのだから比べようもなかったのだが。
これは人形遊びの一環のようなものだろうか。所有する美しい人形を飾り立てるといった、そんな。
ふと浮かんだ疑問に、ロイエンタールは軽く息をついて首を振る。
自分にそんな趣味はない。あの男とは違う。を誰かの代わりに見立てたりなどしていない。
少し不愉快になって車に乗り込もうとしたロイエンタールは、ふと手にしていたはずのものがないことに気がついた。
「む………手袋を忘れた」
先ほど出てきた靴屋に忘れたらしい。
既に車に乗り込んだ後なら手袋くらい置いて行っても、何なら後で連絡を入れて品物と一緒に届けさせても構わなかったが、その前に気づいたならまだ店の前だ。大した手間でもない。
「わたし、取ってきます」
くるりと身軽に身を翻した少女の腕を掴み、後ろに引きながらロイエンタールは溜息をついた。
「俺が行ってくる。お前は先に入っていろ」
すぐに率先して動いてしまう辺りは、まだ淑女教育が必要かもしれないと思わなくもないが、そういった気安いところがの可愛いところのようにも思える。
少なくとも、他人のためには指一本動かそうとしなかった女とは、彼女は対極の存在に違いない。
店に戻ると、店員も忘れ物に気づいていて、手袋を受け取って戻るまでにはそう時間も掛からなかった。と離れたのは、その僅かな隙だけだ。
それなのに先に車に乗ったはずの少女の姿が、車内はおろか周囲のどこにもなかった。



ロイエンタールを見送ったは、兄の言いつけ通りにすぐに車に乗り込もうとした。
だがそのとき、ふと何かが聞こえたような気がしてドアに掛けた手を離して振り返る。
耳に届いた小さな声。
それはよく知っている動物の鳴き声だったけれど、随分とか細くそれなのに必死の響きがあった。
振り返ると兄の背中が店に消えたところで、少しくらいならと声の聞こえる方へと車を迂回して路地へ入った。
風に乗って届く泣き声は、その向こうからのものに間違いない。
細い路地を抜けて出た先は、通路を一本変えただけの大通りだった。違ったのは、こちらの通りには街路樹があったことだ。
小さな泣き声はミーミーとうるさいくらいにはっきりと聞こえるようになっている。
街路樹の一本から聞こえてきた声に引かれて見上げると、小さな子猫が高い枝に爪を立てて震えて激しく鳴いていた。
「……もしかしてあなた、降りられなくなった?」
猫に訊ねても、もちろん返事は返らない。枝に爪を立てた小さな足は力を込めて震えている。
周りを見ても、高級店の建ち並ぶ通りを歩く人々はあまり関心がない様子で誰も振り返らない。
は少し考えて、やがて意を決するとスカートの裾を軽くたくし上げて木の幹に足を掛けた。
あまり遅くなると、戻ってきた兄に怒られるから、素早く登って素早く降りなくてはいけない。迷っている時間はなかった。
ロイエンタール家に引き取られてからはただ大人しく、人形のように座っていればいいという養父の方針に従って椅子の上でじっとしていたけれど、院にいた頃は自分のことは自分でしたし、外を駆け回ることだってあった。木登りにはあまり自信はないけれど、鳴いている子猫の声に誰も彼もが無関心なら、自分がどうにかするしかない。
「ん……と、ま、待って、そんなに鳴かないで。すぐに……」
子猫が縋る幹にようやく手を掛けた。そのことにほっとした拍子に、下の枝に乗せていたつま先が滑る。
「ひゃ……っ!」
手を掛けていた枝を掴もうとした指は呆気なく簡単に滑り、は衝撃を思って恐怖に強く目を瞑った。
落下は、ほんの一瞬の間。
ぎゅっと硬く縮めた身は、硬い地面にではなく、重い音を立てて誰かの腕の中に収まった。
「危なかった」
「……え……」
深く息を吐く兄のものではない男性の声に、は強く瞑っていた目を、そろりと開ける。
すぐ目の前に、深い青い瞳と宝石店で見たルビーを溶かして染め上げたような、綺麗な赤毛の青年が、優しく微笑んでいた。








勝手にいなくなって、お兄様は今頃……。
出てきた青年はもちろん、あの人。


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