部屋で飲み直そうと友人に誘われるまま邸を歩きながら、ミッターマイヤーのまだ酔いの残る頭には、とんでもない疑惑が浮かんでいた。 犬のような、と言い。 飼う、なんて言い。 黒い艶やかな髪を毛並みと表現したり、ペットのような言い草で想像していたのは大型犬だったのに。 現れたのは見るも愛らしい少女。 年端もいかぬ少女を飼うなんて、いやまさかそんな。 いくらこの友人が貴族然としているからといって、それは洗練された仕草や普段の行動に反映されているだけで、一部のグロテスクな趣味を持つ貴族とはまったく正反対のはずのロイエンタールの言動に、混乱した頭が追いつかない。 隣の友人の向こうで、肩を抱かれてそれこそ主に寄り添うように、ぴたりとくっついて歩く少女に視線を移す。 ミッターマイヤーの視線に気付いて顔を上げた少女は、にこりと花が綻ぶように微笑んだ。 その笑顔からは幸福が見て取れて、一部貴族が好むという『人形遊び』のような不健全な空気はない。 ミッターマイヤーは直接そういった少年少女を見たことがあるわけではないが、聞いた話ではそういった『お人形』たちはまるで笑わないか、あるいは綺麗には微笑むが、それは正しく人形のように空虚な笑みを見せるという。 やはりロイエンタールがそれらの遊びを好むとは思えない。それはきっと少女の笑みが証明している。 邸の主自らに案内された部屋で落ち着くと、メイドの運んできた酒を少女が受け取ってコルクを抜いた。 ミッターマイヤーのグラスにワインを注ぎ、次いでロイエンタールのグラスにも同じように注ぐ。 ロイエンタールは少女を自分の隣に座らせメイドが下がらせて三人になってから、グラスを軽く持ち上げた。 「改めて紹介しようミッターマイヤー。俺の妹だ」 「初めまして。と申します」 膝の上に手を揃え、少女が深々と頭を下げた。 「妹!?」 妹がいるなんて話は聞いたことがない。だが兄弟がいないという話も聞いていない。 そうか、両親以外にも肉親がいたのかと思う反面、以前ロイエンタールから聞いていた話からは、彼の両親が二人目の子供をもうけるような状態は想像がつかなかった。 ひょっとすると、父親が後添えを迎えていたのだろうかとも考えたが、言われもしないそれを問うのはさすがに憚られた。 「そうか……妹だったのか。卿がおかしなヒントを言うから混乱したではないか。言われてみればどことなく卿に似ているな」 黒い髪といい、青い瞳といい、それに顔立ちもどことなく似通って見える気がしてそう納得したのに、ロイエンタールは肩を竦める。 「似ているわけがなかろう。これは父が迎えた養女だ。血の繋がりはない」 「……そ、そうか」 遊ばれている。 にやにやとグラスを片手に笑う友人に、ミッターマイヤーは安心していいのか憮然とするべきなのか迷いながらグラスを手にした。 からかわれて面白いはずもないが、義理の妹という少女の兄への敬愛の度合いを見ている限り、兄妹仲は至極上手くいっているのだろう。 ロイエンタールの人間不信は、両親への強い不信感が根付いているために雁字搦めになっているように見えた。だが義理と言っても、家族というべき存在があるのならそれが好転するのではないだろうかという、淡い期待もある。 現にロイエンタールは、待っている存在を悪くない、と言ったのだ。既に心境に変化が訪れている証拠だろう。 「では、一緒に住み始めたのは最近なんだな?」 「まあな。あの男が昨年に養女を迎えていたこと自体、葬儀の席で知った」 ロイエンタールは興味がなさそうにグラスを揺らして、隣に座る少女の髪を指先で弄る。 「なんだと?」 それにはさすがに呆れた。実子がいないというのなら判るが、実の息子がいるのに養子を迎えていて、父親からは相談どころか報告もなかったのか。そして息子は息子で、完全に実家とは音信不通だったらしい。 ロイエンタールを出迎えてから、ずっと嬉しそうにしていた少女の表情が、話題のせいか僅かに曇る。 息子があまりにも飄々としているからつい踏み込んでしまったが、養女の彼女にとってはまだ二ヶ月しか経っていない故人の話はつらいものだったのかもしれない。 慌てて話題を変えようとミッターマイヤーが口を開く前に、ロイエンタールが弄っていた彼女の髪を指先で跳ねた。 「」 少女が僅かに肩を揺らして傍らの兄を見上げ、ロイエンタールは面白くなさそうに妹を見下ろしている。 彼女が不安げに眉を寄せると、すぐにあの見慣れた冷笑を見せて少女の肩を抱き寄せた。 「忘れるな。お前の名を呼ぶのは俺だと言っただろう……」 「はい、お兄様」 抱き寄せられるまま、少女は目を閉じて兄の胸にしなだれかかった。 正面でそれを見ていたミッターマイヤーは、妙に感じる居心地の悪さにもぞりと尻を動かして座り直した。 なぜだろう。あまり兄妹らしからぬようなやり取りに見えるのは。 口も挟めず、席も立てず、仕方なくグラスを空けていると、それに気付いた少女がロイエンタールから離れてワインの瓶に手を伸ばした。 だがロイエンタールはそれを制して、自分で瓶を取ってミッターマイヤーのグラスに酒を注ぐ。 「お前が酌取り女の真似事をする必要はない」 妹を大事にしているように見える。それはいい変化だ。いい変化のはずだ。 この人間嫌いの男の喜ぶべき変化に、言いようのない不安を覚えて首をひねることしかできなかった。 ミッターマイヤーの覚えた違和感に説明がついたのは、彼女が退出してからのことだ。 「随分と妹を大事にしているようだな」 今度はミッターマイヤーが友人のグラスに酌をすると、ロイエンタールは隣の少女がいなくなって広くなったソファーの背もたれに腕を置いて、喉の奥に篭ったような声で笑う。 「奥歯に物が挟まったような言い方だな」 「ロイエンタール」 ロイエンタールのその笑い方はあまり好きではない。自虐……というものとはまた違うのかもしれないが、その冷笑は自分に向けているときのものだ。 「先ほど、あれが俺に似ていると言ったな」 「ああ……だが勘違い……」 「勘違いではない。似て見えて当然だ」 血は繋がっていないと言ったのはロイエンタール自身なのにおかしなことを言う。 怪訝そうな友を見て、ロイエンタールはグラスを掲げて小さく笑った。 「あれは、あの男が死んだ妻になぞらえて引き取った娘だ。あの女に似ているのなら、俺に似て見えても不思議はない。そうだろう?」 ミッターマイヤーは息を詰めて奥歯を噛み締めた。 ロイエンタールに『人形遊び』の性癖はない。 だが、その父親のことは何も知らない。 苦いものを飲み込むように、眉を寄せて顔をしかめた。 ロイエンタールは肩を竦めてグラスの中身をあおる。 「は名前にこだわっている。あれは三年前からしか記憶がないそうだ」 「記憶が?」 「そう、一切ないらしい。その名を除いて、一切だ」 「では名前は……」 「さあな。あれは本当の名だと思い込んでいるようだが、それも怪しいものだ。記憶に残る唯一の名だというだけなら、親兄弟やその他の近しい人間の名の可能性もある」 先ほどまではそれは愛しそうに少女の肩を抱いていたのに、少女がいなくなった途端に素っ気無い態度で擦り合わせた指先を冷めた目で見ている。 「だが養女にと引き取った男は、丁寧に世話をするが、名前だけは『』とは呼んでくれない。死んだ妻に見立てた娘を、妻の名で呼んでいたらしい」 「……そうか」 実際に痛むわけではない眉間に指先を強く押し当てて、ミッターマイヤーは深く息を吐いた。息と一緒に、何か重い塊まで吐き出した気分だ。 「あれは名を呼び、家族だと言うだけで俺に懐いている。飼い主に恩と忠誠を誓う、正に犬のようなものだ」 「いやそれは……」 それはどうだろう。 彼女がロイエンタールへ向けたあの敬愛は、ただの交換条件で持てるようなものだとは思えない。 ロイエンタールは犬と飼い主を、恩と忠誠だけの関係のように言う。 だが、本当に犬と飼い主の間には、それだけしかないのだろうか。 もっと深い、愛情のようなものが根底にありはしないだろうか。 まして彼女は、人間なのに。 「最初に一度だけ、あの男に名前で呼ばれたらしい。それを再び待っていた。待っていたが果たされなかった。そこに俺が来た。名を呼び、妹だと言ってやる俺に、あれは驚くほど簡単に尻尾を振った……憐れな子供だ」 「ロイエンタール……決め付けるな」 そうだと決め付けた目で見れば、どれほど彼女が兄を愛しても、それはただの逃避にしか見えないに違いない。 「人間はそんなに単純ではないだろう」 「そうだ。だからあれを犬のようだと言うんだ」 ロイエンタールは擦り合わせていた指先から、友人に目を向けて口の端を吊り上げるようにして笑う。それは今度こそ、自らを嘲笑う笑みだった。 「なんとも簡単な望みだな。名を呼び、抱き寄せるだけであれは俺に縋りつく。……俺だけしか見ようとしない」 ミッターマイヤーは収まりの悪い髪に手を突っ込んで、頭を掻き毟りながら吐息をついた。 気付いていないのだろうか。 ロイエンタールが先ほどから擦り合わせている指先は、彼女の髪を弄っていた指だというのに。 どう言えばいいのか、考えがまとまらないままに、ミッターマイヤーは髪を掻いていた手を降ろして、テーブルの上で指を組んだ。 友人ではなく、その手を見て口を開く。 「上手く言えないんだがな……ロイエンタール。卿がそんなにも保険を望まなくても、あの子は卿のことが好きだと思うぞ。それは……俺は、卿らの始まりは知らない。だが、あの笑顔がそんな後ろ向きなものには、到底見えない。こう言ってはなんだが、卿の父親がいなくなり、名を呼ばれる回数が増えたのなら、きっともうあの子はただ名前を呼ばれることだけが望みではなくて、本当は……」 この先はその目を見て言おうと顔を上げて、ミッターマイヤーは再び息をついた。 「……卿が弱音を吐くときは、泥酔しているときだったな」 ソファーに背中を預けたまま俯いて眠りの淵に落ちた友人に、首を振ってグラスをあおった。 誰か人を呼びに行こうと部屋から出たミッターマイヤーが最初に出会ったのは、件の少女だった。 「ちょうどよかった、」 「ミッターマイヤー様」 「………様?」 毛布を抱えた少女に笑顔で返されて、手を上げて呼び止めたミッターマイヤーはしばし固まった。 確かに客は客なのだが、友人の妹に様という敬称付けで呼ばれることに慣れていない。 首を傾げる少女に、頭を振って気を取り直す。 「ロイエンタールが眠ってしまってな」 「もうですか?では、これを掛けたらすぐに人を呼んで参ります。でもその前に、ミッターマイヤー様にご用意したお部屋へ案内いたしますね」 どうやら彼女は兄の酔い具合に、先に気付いていたらしい。酔って眠ることを想定して動いていたようだ。 「どうぞこちらへ」 先に立って歩き出した少女に、ミッターマイヤーは軽く顎を撫でて考える。 「……はいい子だな。ロイエンタールの妹にしておくのはもったいない。いや、あの無愛想さは、君のような子が傍にいてちょうど釣り合いが取れるというものか」 「まあ、酷い。兄が聞いたら泣いてしまいます」 くすくすと笑う少女は楽しそうだったが、ロイエンタールを見上げていたあの幸せそうな笑顔にはきっと及ばない。少なくともミッターマイヤーにはそう見える。 「君は本当に、ロイエンタールが好きなんだな」 振り返ったは、ミッターマイヤーの感慨を理解はしてないだろう。 だが、その笑顔は。 「はい。とても、とても好きです」 客を部屋へ案内し、就寝の挨拶を交わした少女が酔って眠る兄の元へ向かうと、ミッターマイヤーは一人になった部屋で、手にしていた上着をベッドに放り投げて軽く息をついた。 「俺は思うのだがな、ロイエンタール……彼女の本当の望みはもう、ただ名前を呼ばれることではなくて……」 話題に上げるだけであんなにも、幸せそうに。 花開くように笑うのは。 「本当は、きっと呼ぶ相手こそが重要なのではないかな」 そう言っても、きっと簡単には受け入れないだろう友人を難儀に思う。 犬のようだと、それを忠誠だと思わないと安心できないのは、きっと彼のほうだけだろうに。 「重症なのは、むしろ卿のほうだろう」 執着。 それを持たなかった友人が、強くその存在を望む少女。 それがいいことなのか、悪いことなのか、それはまだミッターマイヤーにも判らない。 |
ダメダメなお兄様と、それを見守る友人から見た兄妹。 両親からの無償の愛情を得ることが出来なかった不信感が根強いのか、 妹の愛情を等価交換にしないと安心できない人です。 |