「おい、ロイエンタール!今夜空いてるか?」
オスカー・フォン・ロイエンタールという男は、付き合いがいいとはお世辞にも言えない。
仕事上の付き合いならともかく、プライベートな友人といえば堅物の平民、ウォルフガング・ミッターマイヤーくらいのもので、互いに誘い合うとすればやはり彼くらいのものだ。
だが一方は妻帯しており、他方は数多の女性と浮名を流している身なので、「仕事の後の一杯」に繰り出す間隔が大きく空くことも珍しくはなかった。
友人からの数ヶ月ぶりの誘いの言葉に、断るべき理由は思い当たらない。
ふと、主人を迎える従順な犬のように毎日ロイエンタールの帰りを待っている瑠璃色の瞳が脳裡に浮かんだが、帰宅が遅くなる日は先に食事を済ませて眠るようにと言いつけてもある。
そこまで考えて、執事も他の使用人もいるというのに、なぜ自分がそんなことまで気に掛けなければならないのだと憮然とした。
父親の葬儀の席で初めてその存在を知った義理の妹と、邸で暮すようになってまだ二ヶ月ほど。
その間、らしくもなく仕事を終えると毎日まっすぐに邸へ帰っていたのだとようやく気付いて驚いた。
そもそもロイエンタールから女性を物色することはなく、アプローチを掛けてきた相手に手折るだけの美観を見たときだけ手を出してきたのだ。邸と男ばかりの職場との往復では夜を共にする相手ができるはずもなかった。
も落ち着いたし、そろそろ本来の生活に戻ってもいい頃だろう。
彼女はもう、失われた男を求めて暗い部屋で独り泣いてはないのだから。



ミッターマイヤーはときどき酒の席で、ロイエンタールの女癖に対して説教をすることがあるが、今日はそのつもりはなかった。
特に最近は浮いた話を聞かなくなって久しかったので、純粋に娯楽として誘っただけだ。
だが気になることがなかったわけではない。
ロイエンタールと両親との仲があまり上手くいっていなかったことは、以前にカプチェランカで九死に一生を得た戦場帰りの酒の席で聞いていたが、その父親のほうが亡くなってまだ日が浅い。
確執があったとはいえ、やはり肉親の死には何か感じるところがあったから、最近の自粛があるのだろうかと気を揉んでいたのだ。
友人が肉親の死に落ち込んでいるなら、少しは気晴らしにならないだろうかと。
だがいざ飲み始めると、ロイエンタールは落ち込んでいるどころか逆に機嫌がいいほどだった。
上機嫌にハイペースで飲み続ける友人に安心しながら酒を酌み交わしたが、今日はスタート時点でロイエンタールの様子に気を配りながら飲むつもりだったことが、酔いの差を決定付けたようだった。
「おい、ロイエンタール。ここで寝るな」
ミッターマイヤーがほろ酔いになった頃には、ロイエンタールはテーブルに沈みかけていた。
「卿が先にそれほど酔うのは珍しいな。大体俺と同じくらいか、それより強いくらいなのに。今日は随分飲むじゃないか」
「……最近、嗜む程度にしか飲まなかったからな……反動が出たかもしれん」
ロイエンタールは平衡感覚が怪しいのか、僅かにゆらゆらと揺れながら額を押さえている。
「健康にはいいことだな。だがまとめ飲みをしているようでは意味がないか。立てるか?」
「無論だ。そこまで酔ってはいない」
むっとしたように立ち上がったロイエンタールだが、やはり最初の一歩をよろめいた。
それでも二歩目以降はまっすぐ歩いている様子だったので、タクシーにでも乗せてしまえば大丈夫だろうと、溜息をつきながら苦笑する。
店を出て、酔ったロイエンタールを押し込めるつもりで無人タクシーを停めて、ふと考えを改めた。
そういえばロイエンタールは官舎を引き払って、親から相続した邸に居を移したのだ。
世話をしてくれる相手がいる分だけ、以前の官舎暮らしよりは酔った男を心配なく送り帰せるが、せっかくなので一度新しい住まいを見ておくのも悪くない。
どうせ遠からず押しかけることもあるだろうと一緒に乗り込むと、後部座席で眠りかけていた友人は眠そうな瞼を開けた。
「……来るのか?」
「新しいお前の住まいを見ておこうかと思ってな。なんなら安心して酔い潰れることのできる場所で飲み直しも悪くはなかろう」
「健康がうんぬんと言っていた奴が。深酒で肝臓を壊しても俺の責任ではないぞ」
ロイエンタールは呆れた吐息をつきながら、行き先をタクシーの機械に告げる。
「心配はいらん。俺はお前と違って普段はエヴァにきっちり健康を考えた食事を作ってもらっているからな!同じ酒量なら、身体を壊すのは俺より卿が先だ」
「また卿の妻自慢か。聞き飽きた」
「聞き飽きたとはなんだ!結婚はいいぞ。待っていてくれる存在がいると、帰宅が楽しくなる」
友人ほどは酔っていないとはいえ、こちらも酒の入っているミッターマイヤーが握り拳で力説すると、隣でシートに沈みながらロイエンタールが小さく笑った。
「待っている存在……か」
呟かれた言葉に、ミッターマイヤーはぎくりと口を閉ざした。
ロイエンタールは気にしていないように見えていたが、今から向う先は亡くしたばかりの父親が住んでいた邸なのだ。
結婚の良さを主張するなら別の表現を使うべきだったかと失敗に頭を掻きながら隣の友人を伺うと、頬杖をついて窓の外を眺めるロイエンタールの横顔には寂寥や哀愁といったような感傷は見えず、それどころか窓に映る顔には微かな笑みさえ浮かんでいる。
「確かにな……悪くない」
おまけに結婚の良さを説くミッターマイヤーを肯定するような言葉が出た。
もしかして熱でもあるのか、それともそうは見えないだけで思い切り酔っているのか、あるいはロイエンタールの人生観を変えるような相手でもできたのだろうか。
最後の可能性に思い当たると、まさかという思いと、ひょっとしたらという期待が入り混じって黙っていられなくなった。
「ようやく卿にも結婚の良さが判ったのか!」
「結婚の良さ?なんのことだ」
だが帰ってきた答えはいつものものと変わりなく、機嫌の良い微笑が眉間にしわを寄せた不審なものへと変わる。
途端に膨らんだ期待が萎み、ミッターマイヤーは諦めの溜息をついた。
「なんだ違ったのか。家に待つ者がいるから、その良さが判ったのかと思ったんだ」
「……結婚はともかく、家に待つものならいる。犬のようなものを、飼い始めた」
「犬を?卿がか?」
「の、ようなもの、だ」
再び上機嫌に窓を眺める友人に、ミッターマイヤーは腕を組んで首を捻る。
犬……のようなもの。わざわざ訂正したということは犬ではないのだろうけれど、ならばなにを飼っているのだろう?
他に犬と並んで飼われることの多い猫などならそう言いそうなものだし、犬に近いといえばまず思い浮かんだのは狼だった。
だが狼なんて生き物は一般家庭で飼うことができるだろうか。
ロイエンタール家は一般家庭とは言い難いが、だからと言って面倒な動物を飼うロイエンタール、という図はミッターマイヤーにも想像し難い。
今なら邸に使用人もいるだろうし、ロイエンタール自らが世話をしているとは思えないが、帰宅を楽しみと言えるほどならそれなりにペットとスキンシップを計れているのだろう。
犬や猫や、その他の動物と戯れるロイエンタールの図。
思いつく限りの動物で想像してみたが、どれもこれもしっくりとはこない。
それこそ訓練の施された軍用犬が横に座っているところなら、似合いそうだった。
「やはり犬ではないのか?」
「のようなものだと言っただろう」
楽しげな訂正に首を捻っている間に、答えを導き出せないまま友人の邸へ着いてしまった。
ロイエンタールの父が住んでいたという邸は、当然ながら官舎として提供される住居の比ではなかった。
ミッターマイヤーは大佐の地位に相応しいとされる支給された官舎でも充分に広いと感じるし、こういう広すぎる邸に住みたいという願望はないが、ロイエンタールには優美な様子と相まってよく似合う。
邸に入り、迎えた執事にコートを渡す絵になる様にますます感心していると、ロイエンタールは襟元を緩めながら首を巡らせた。
は」
「すぐにいらっしゃるかと」
進み出てきた使用人に礼を言いながらコートを預けたミッターマイヤーは、名前らしい固有名詞に惹かれて友人の背中に声を掛ける。
「それが卿の飼っているというものの名前か?」
「飼う?」
主の横でコートを手にしていた執事が驚いたように目を丸めて、ロイエンタールは口元を軽く緩める。
「そうだ。黒い毛並みは手触りが良いし、青い目も見ていて飽きない」
新たに加わった説明に、やはり想像できるのは訓練の行き届いたドーベルマンのような大型の犬の姿だった。
「オスカー様」
だが執事は呆れたような声で小さく主を嗜める。
ロイエンタールが楽しげに笑い、ミッターマイヤーが首を傾げていると小さな足音が聞こえてきた。
急いで駆けて来ているそれは、四足歩行の犬と言うより子供のような……。
「お帰りなさいませ、お兄様!」
嬉しくて仕方がないと滲み出るような声を弾ませてホールに掛けてきたのは、黒い髪を棚引かせた少女だった。
ロイエンタールが軽く手を上げると、更に表情を輝かせて飛びつくようにして長身の身体に抱きついていく。
軍服の裾を握り締め、背中に軽く手を添えられて幸せそうにロイエンタールに縋り付いていた少女は、その後ろで唖然としているミッターマイヤーに気付くと、あっと声を上げてロイエンタールから離れた。
「お、お客様がいらしていたとは知らずに失礼いたしました」
頭を下げて失礼をと謝る少女に、ロイエンタールは喉の奥で小さく笑う。
笑うロイエンタールに、少女は白い頬を僅かに赤く染めて、客がいるのに抱きつく許可を与えたことに恨めしそうに見上げた。その瞳は青だ。
「ミッターマイヤー、これがだ」
「どこが犬のようなものなんだ!?」
思い切り人間ではないか!と叫んだミッターマイヤーは、目を丸めた少女に失言を悟って慌てて口を塞いだ。








ロイエンタールの話ならこの人、ミッターマイヤー登場編です。
でも犬って……悪ふざけがすぎますよ、お兄様。


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