母親に似ていると思った。
手入れの行き届いた黒い艶やかな髪も、瑠璃色のガラス玉のような瞳も、労働を知らない白い美しい手も。
嫌悪するあの女に。
だがあの女は、こんなに柔らかに笑ったことなどなかった。


常にない鈍重な目覚めに、ロイエンタールはベッドから起き出しながら頭を振る。
昨夜の少女の微笑みに刺激されたように夢を見たような気がするが、どんな夢かは覚えてない。
寝覚めに水でも飲もうとベッドサイドに置いていた水差しからグラスに注ぐと、寝惚けていたつもりもないのに、僅かに注ぎすぎて雫が零れる。
舌打ちしながら口をつけると、雫はグラスを伝い落ちて膝を濡らした。
半分ほど中身を飲んだグラスを掲げる。
こんな涙だった。
混じり気のない透明な涙が、白い頬を伝い落ちて……。
かつてロイエンタールを嫌悪に満ちた色で見下ろした母親の瞳に似た瑠璃色の瞳は、母親ではありえないような穏やかな光を込めてロイエンタールを見上げていた。
あんな風に嬉しそうな笑顔と共に涙を向けられたことなど初めてだ。
いや違う、あの涙は元々故人を悼んで流されていたものだ。
ロイエンタールではなく、その父のための涙だ。
むっと眉間に皺を寄せてグラスを睨みつけていることに気付いたのは、深く沈んでいた思考を遮った小さなノックが聞えたからだ。
なぜあんな娘のことで、朝から考え込んでいるのだろうか。
ロイエンタールがますます不愉快になりながら入室に許可を出すと、入ってきたのはちょうど思い出していた当人だった。
「おはようございます」
朝の挨拶に訪れた少女はもちろん泣いてなどいない。
それどころか、昨夜までは無機質だった瞳には微笑すら浮かんでいる。
「ああ」
側にいたわけでもないのにこの娘のことをわざわざ考えていたとは、らしくもない。
自嘲を込めて口の端に冷笑を上らせると、軽く手を振って短く応えた。
特に変わったことはない、いつものやり取りだ。
ロイエンタールの不快など気付いた様子もなく、少女が部屋を出て行こうとする。
振り返るとそのドレスの腰に位置するリボンが曲がっているところが見えた。
意味もなくますます不愉快になる。
「待て、。服が乱れている」
こんなことはメイドの仕事だろうと呆れながら、少女に後ろを向かせたまま僅かに傾いていたドレスのリボンを直してやると、振り返った少女はそれは嬉しそうに笑って礼を言う。
「ありがとうございます……」
「……ああ」
母親に似た瞳に微笑まれると妙に居心地が悪い。
昨日までの置きの物のような無機質なガラス玉の方がずっとましだったと思いながら手を伸ばす。
少女の白い頬は温かく、彼女が人形などではなく人間なのだと掌に伝えた。
少女はきょとんと目を瞬いて、突然のロイエンタールの行動に驚くだけで、母のように触られることすら嫌悪するわけでもなく、今まで手折ってきた娘たちのように頬を染めることもない。
ただ、深い瑠璃色の瞳で見返してくるだけだ。
ロイエンタールが考えていることなど、想像もしていないだろう。
この瞳を潰してしまえば、落ち着くことができるのだろうかと微かな誘惑を感じているなど。


夜になると、はいつものようにロイエンタールに就寝の挨拶に部屋を訪れた。
適当に挨拶を返してやり過ごしたが、ふと心付くものがあって廊下に出る。
既に少女の姿は見えなくなっていたものの、だからといって与えられた自室に引き取ったという保証もない。
また故人の部屋でひとりうずくまっているのではないかと廊下の端の部屋まで訪れてみて、誰もいないことに安堵と不満を覚えた。
その事実にまた苛立ちを感じる。
なぜあんな小娘の動向を気に掛けなければならないのか。
暗く寒い部屋でひとり泣いていようと関係ない。昨夜のように縋り付いてこられても迷惑なだけだ。そのはずなのに。
舌打ちをして踵を返すと、廊下を戻った先の部屋の扉が開いて白い塊が部屋から出てきた。
どうやら、昨夜もシーツは自分の部屋から被って移動していたらしい。
やはり手には明かりひとつ持っておらず、今夜もシーツだけを被って震えるつもりだろうか。
いっそ風邪を引くまで放っておいてやろうかと思いつつも腕を組んで少女が気付くのを待つ。
こちらに向かって歩き出した少女が進行先にいる人影に気付いたのは、俯いていたせいもあってほんのすぐ側までやってきてからだった。
廊下に足を見つけて、驚いたようにシーツを被った頭を上げる。
ロイエンタールの苦虫を噛み潰したような顔を見て、僅かに恐れたように後退った。
「同じことを繰り返すな」
母に似た瞳に浮かんだ恐れに、苛立ちは更に募る。
「部屋に戻れ。感傷に浸るなら昼間にしろと言ったはずだ」
昼間ならば、ロイエンタールは邸にいない。
……いないからなんだというのだ。
己の苛立つ理由に、憮然として己に問い返す。
不在だからなんだというのだ。同じ屋敷内にいるからなんだ。
「いなくなった男に縋って何になる」
吐き棄てるように呟いて、その言葉に何よりロイエンタール自身が驚いた。
いなくなった男の存在に縋っていても何にもならない。それは純然たる事実であるが、今の言い方では、今ここにいる、生きている男に縋れと言っているようなものではないだろうか。
自分に。
「わたし……」
消え入りそうな震えた声が聞こえて、隠すこともせずに音を立てて舌打ちした。目の前で泣かれるなど鬱陶しいだけだ。
「それとも、夜はあの部屋に行くことが習慣付いているというところか?お前はあの女に似ているからな、慰み者にでもされていたか」
ただ腹が立っただけだ。その可能性をまるで考えていなかったわけではないが、まさかと思っていた。だが口にしてみればこれほど生々しく、そして悪意に満ちた誹謗もない。
息を飲むような悲鳴につられて逸らした視線を戻せば、娘は蒼白になって震えていた。
まさか。
「違います!」
少女は狂ったように何度も叫んで、耳を塞いで首を振る。
「違います、違います、違います!」
「おい」
まさか、事実でもないだろうに、だがこの取り乱しようは。
夜中の騒ぎに遠くでドアの開く音がした。使用人の誰かが廊下に出てきたのだろう。
とにかく黙らせようと耳を塞ぐ少女の腕を掴むと、勢いよく振り払われた。
「わたしレオノラ様じゃない……っ」
悲哀に満ちた瞳からは留まることなく涙が溢れ出し、鋭い光がロイエンタールを刺す。
戦場でも怯んだことのないロイエンタールが言葉を無くして息を飲むと、少女はまるで糸の切れたマリオネットのようにその場に崩れ落ちた。


主のプライベートルーム近くでの騒動に現れたのは、最初から少女に同情的だった執事だった。
廊下に倒れ伏した娘を抱き起こすかどうかに迷って見下ろしている主を見て、困ったように眉を寄せると溜息をついた。
「後は私が」
「ああ……」
ロイエンタールが幼い頃からこの家の執事を勤めている老人は、白くなった頭髪の年齢を感じさせないほどシーツごと軽く娘を抱き上げる。
そのまま見送るつもりだったのに、頭を下げた執事が背を向けるとつい呼び止めてしまう。
振り返った執事は、もちろん少女の最後の言葉の意味を知っているだろう。
レオノラ様じゃない、と。
母ではないと。
つまりは、あの男の妻ではないと、そう叫んだ意味を。
訊ねることは恐ろしく、例えあのいわれのないと思われた誹謗が事実であったとしても、もはや終わったことだ。このまま蓋をして、何も聞かなかったことにしてしまえばいい。
もう娘を脅かす男は死んでいる。
だが、それならなぜ娘は自らを傷つけた男の死を悼むかのように、夜な夜な寝室へと足を運ぶのか。
迷った挙句、出てきた言葉はそんな考えとは裏腹に直接的に核心を突いていた。
「その娘は、あの男に犯されていたのか?あの女の身代わりに」
それまで、痛ましそうな表情は見せてもそれ以上は何も言わなかった執事が目を丸める。
意外なことを言われたかのようなその反応に、予想が外れたことを安堵するよりも戸惑いが起こる。では、あの悲痛な叫びはなんだったというのか。
執事は虚を突かれた最初の驚きから回復すると、再びあの沈痛な面持ちで首を振った。
「いいえ旦那様は……大旦那様は、決してお嬢様をそのように触れることはございませんでした」
「では」
「ですが、私たちにある命令を徹底なさいました」
ではあの叫びは何だと訊ねる前に、執事は一拍だけ置いて続けて言い切った。
「決してお嬢様の名前を呼んではならないと」
「……なんだと?」
「お嬢様のお名前を、誰も呼んではならないと。ただそれだけです。用意した衣服、毎日の食事、身を飾る装飾品の品々、すべてを最高のものでお揃えになり、ただひとつだけそう命じられたのです」
「なぜ」
執事はロイエンタールの異なる色の双眸から目を逸らし、腕の中の少女に視線を落とす。
湧き上がる醜悪な苦々しさにロイエンタールは今度こそ事実であろう質問を吐き棄てた。
「妻の名で呼んでいたのか」
執事の沈黙は肯定だった。
「その名を口にして良いのは自分だけだと、そう仰られて」
「……好都合だったわけか」
過去のない、妻に似た少女は妻に見立てた人形にさぞかし相応しかったことだろう。
娘には、その身の内に何もなかったのだから。


うっすらと開いた瞼から覗く瞳は、やはり深い青、瑠璃色だった。
死んだレオノラと同じ色。
電灯を消し、ランプだけをつけたオレンジ色に照らされた中で娘はぼんやりと顔を横に向け、そしてベッドサイドで足を組んで椅子に座っていたロイエンタールの姿を認めて驚いたように飛び起きた。
「あ、あの……?」

戸惑う娘の名を呼ぶと、ぴくりと震えて背筋を正す。
「その名は、誰に付けられた?」
ランプの暗い光の中でも、娘の顔が強張ったことは十分に見て取れた。
震える唇とで、おずおずと答える。
「わたしの、唯一の記憶で」
「そうか」
己の過去のすべてを失い、その中でたったひとつ持っていたものを奪われたのか。
その代償に贅沢な生活を約束されたと。
空虚な生活を。
最後まで同じ過ちを繰り返した男には、同情も欠片も沸き上がらない。
名前を呼ばれることに執着した理由はわかったが、ひとつわからないことがある。
「お前はなぜ、あの男の死を悼む」
の名を奪い、レオノラの影という役割を押し付けた男を悼む理由がどこにある。
それでも、養われたことに対する恩義を感じていたとでもいうのだろうか。
「………院で初めてお会いしたとき、今日から家族だと言ってくださったんです」
「お前がではないだろう」
最後まで夫を愛することなく死んだ妻に重ねてそう言ったのだ。あの男が求めていた家族は、ではなくレオノラだ。
「でもあの日だけ……あの時だけ……確かに呼んでくださったんです。『さあ、一緒に我が家へ帰ろうじゃないか、』」
「たった一度の記憶に縋っていたのか。またそう呼ばれる日をひたすら待ったと」
「ですがもう叶いません」
はらはらと白い頬を伝い落ちる涙は、男を悼んでいたものではなく、己を哀れんでいたものだったのか。
馬鹿馬鹿しい。死んだ男に縋って何になる。
死んだ男の声を待って、何になる。
富と贅だけを求めたあの女の白い手と、ただ与えられる愛情を欲し続けたこの白い手と何の違いがあるのだろう。
だが娘は待っている。
己を踏みつけた男の声を、ただ。
悼まれるような、求められるような価値のない男を、待っている。
急激に湧き上がる激情に、娘の顎を掴んで振り仰がせた。
瑠璃色の瞳は、あの女と同じ色のだというのに、もう少しも同じだとは思えない。
たったひとりの人間を求めるのなら、なぜその相手があんな価値のない、同じ過ちを繰り返すことしかできない男を選ぶのか。
「名前なら、これから俺が飽きるほど呼んでやる」
悲哀に沈んでいた瞳が、驚いたようにロイエンタールを見る。
ただまっすぐに、目の前の異なる双眸を。
オスカー・フォン・ロイエンタールだけを。
これは娘のための行為などではない。
そんなことはロイエンタール自身がいやというほど自覚している。
ただ、奪いたいだけだ。
何もかもの不幸を、自らの非を認めず息子に押し付け、見ず知らずだった娘に押し付け、そうやって生きて死んだ男から、最後の欠片まで残さず奪い取ろうと、ただそれだけだ。
娘がそうと知っているのかは、どうでもいい。
わかっていて偽りの慰めを欲しているのでも、あるいは同情されていると思い込んでいるのでも構わない。
その盲目的な思いを、あの男ではなくこの身に向けるというのならば。

娘は瞼を閉じて瑠璃色の瞳をその下に隠してしまうと、一筋の涙を零して抱き寄せられるままに身を委ねた。


目を覚ますと、そこが自分の部屋でないことはすぐに思い出した。
周りの風景を見るまでもなく、腕の中で眠る小さな少女がいたからだ。
わざわざ起こす必要などないが、別に家族ごっこがしたいわけではない以上、愛情深く寝かしておいてやる理由もない。
起きれば起きたでいいだろうと眠る少女を気遣うことなく起き上がると、やはり震動で目が覚めたらしい。
瞼を薄く開けて目を擦りながら、ベッドから降りるロイエンタールに目を留めたので、口の端を僅かにあげてその寝惚けた顔を笑う。
「起きたか、
途端に少女はぱちりと目を開けて、嬉しそうに微笑んだ。
「はい、お兄様」
「………お兄様!?」
耳慣れない言葉に半ば愕然としてしまった。
ロイエンタールの様子に少女は悲しげに眉を寄せる。
「そうお呼びしてはいけませんか……?」
だが他にどう呼べと言えばいいだろうか。
メイドではないと言ったのはロイエンタール自身で、たしかに義理であるが妹だ。
そしてこの娘が欲しているのは家族の存在で、それゆえにロイエンタールに盲目的な愛情を注ごうとしている。
「好きに呼べばよかろう」
吐き棄てるように言ったというのに、少女は顔を輝かせて頷いた。
「はい、お兄様」
聞きなれない上に背筋が痒い。やはり止せと言えばよかったのかもしれない。







これにて出会い編は終了。
運命の輪のタロット寓意は「運命的な出会い、幸運、変化、解決の接近」など。
あるいは「裏目に出る、悪化、不幸の始まり、間が悪い」などもあります。
このシリーズはどちらの方向に進むでしょうか。


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