フロイライン・といえば、気風の良い少女だということは、この場にいるメンバーは大抵知っている。 それでも本性と言ってしまえるほど中身を知っているのは、ロイエンタールとミッターマイヤーくらいのものだろう。 だがその二人にしても、ラインハルトまでが子供のような争いをするところを見たことがあるわけではない。 嫌な予感に囚われる面々の耳に、廊下の向こうからは、遠慮なく吹き出した声が聞こえた。 好奇心は猫をも殺す(2) 「間違えた?間抜けにも程がある」 「うるさいな!ノロマに言われたかないね!」 「それだ。誰が鈍間だ。こんなメモを置いて、他の奴に見られたらどうするつもりだったんだ」 「べーつーにー。どうもしないよ。人を呼び出しておいて一時間も、おまけに遅れるとの伝言もなしに放置した奴は誰が見てもノロマですー」 「そ……それは……」 珍しく言いよどむラインハルトの声に、ファーレンハイトは珍しいものを聞いたように楽しげに顎を撫でた。 「俺が言っているのはそのことではなく、お前の立場がだな……」 「っていうか、まず待たせてすみませんって謝んなさいよ!せめて正当な理由を述べよ!十字以内で的確に!」 「短い!」 「短く纏めらんないのー?ノロマに加えてグズって言ってやろうかしら」 「会議が長引いた」 「そんなの知ってるよ!だからさあ、なんでまだ時間がかかるから待ってろとかの伝言すらないわけ?そっちから呼び出しておいてさ」 「忘れていたんだから仕方ないだろう」 それは言い訳としては最低だ。ワーレンは亡き妻に、結婚記念日をすっかり忘れて友人と飲んで帰ってギュウギュウにやり込められた過去を思い出して、ああ……と不器用な元帥を儚んだ。 がまとわりつくドレスをものともせず足を振り上げて、がつんと鈍い音が廊下に響く。 角から僅かにちらりとうずくまったらしい金髪が覗いた。振り上げた足の角度といい、恐らく脛を蹴りつけたに違いない。 「こ……この乱暴者め……っ」 「さいっていっ!この馬鹿!不能!」 ただでさえ言葉もなかった提督たちの周囲に、耳に痛いほどの沈黙が降りる。 ビッテンフェルトはラインハルトのように蹴られたわけでも無いのに廊下に頭を抱えてうずくまり、ミュラーはそのビッテンフェルトと、そして自分の斜め前に立つロイエンタールに窺う。 色々と屈折した感情が混じっているようだが、ロイエンタールはある意味でビッテンフェルトにも劣らないほどの敬愛の念をラインハルトに持っているように、常々思っていたからだ。 ファーレンハイトは腹と口を押さえて声を殺して笑っているし、逆に年長者だけにケスラーは年頃の少女の口から飛び出したとんでもない単語に居心地悪くうっすらと赤面する。 ケスラーとは対照的に、青褪めたのはミッターマイヤーだ。まさかあそこまで彼女がラインハルトに遠慮がないとは思ってもみなかった。あれではロイエンタールと喧嘩しているときと変わらない。 ワーレンは一人で納得していた。忘れたなどという言い訳は、女性をもっとも逆上させるに決まっているからだ。「ああ、やっぱりこうなった」という思いでいっぱいだ。 オーベルシュタインが瞑目する中、ようやく動いたロイエンタールは、大きな掌で顔を覆って深く深く、溜息をついた。 うずくまるラインハルトを鼻息荒く見下ろしていたは、ようやく自分の言い間違いに気付いたらしく、頬に手を当て、眉を潜めて天井を見上げる。 「あ、不能じゃなくて無能だ」 「二回もその単語を口にするな!お前は昔から恥じらいの欠片もないなっ」 の視線が少し上を睨み上げて、ラインハルトが立ち上がったことがわかる。 「その上、遠慮も知らない。誰が無能だ」 「無能を無能って言うのに遠慮がいるか!それ以外のどこに遠慮がないって!?」 「昔、姉上が作ったクッキーをいくらでも食べてと勧めたとき、俺とキルヒアイスの分も全部食べたよな」 「そんな子供の頃のこと持ち出すな!それを言うなら、姉様が作ったケーキをつまみ食いして怒られてたあんたの方がよっぽど遠慮もなければ、自分勝手ですぅー」 「自分勝手はお前だ!キルヒアイスが俺と外に遊びに行けないように靴を全部隠したこともあったぞ」 「それはいっつも置いていく二人が悪かったんでしょ!」 「見ろ!お前の都合じゃないかっ」 子供の頃の暴挙暴露は、家族と親戚と幼馴染みならではの手といえる。 そしてとてつもなく子供っぽい上に、内容が非常にくだらないのが特徴だ。 ビッテンフェルトはもはや何も聞こえていないとばかりに、持っていた式典の資料をめくり始めているが、ロイエンタールが泣いても誰も責めはしなかっただろう。実際には完全に無表情のポーカーフェイスになっている。 ビッテンフェルトの行動に、取り乱すよりもどこか不穏なものを感じて、ミュラーがいつでも取り押さえられるように身構える中、意を決したケスラーが一歩踏み出した。 ここはこの場の最年長者として、あえて泥を被ってでも元帥を止めるべきだ。今はまだ、この場にいるのは元帥府の幹部だけだが、一般兵にこの様子を聞かせてはならない。 だというのに、もうひとりの同い年の年長者は瞑目して義眼を隠したまま微動だにしないから当てにはできない。 だがそれより早く、膨らませた紙袋が叩き割られるような乾いた音が響いて、のみならず離れたところにいた提督たちも飛び上がる。壁で見えないが、恐らくはラインハルトも飛び上がったに違いない。オーベルシュタインだけは、瞼を上げたに留まったが。 これがブラスターの銃声やハンドキャノンの轟音なら、有能な軍人の彼らは即座に対応しただろう。ただの手を叩いただけの音というのが、逆に反応を鈍くさせた。 「いい加減になさってください。二人とも、廊下でなんですか」 聞こえてきた声に、現実逃避していたビッテンフェルトが戻ってくる。 救世主が来た。 赤毛の救世主が来た。 「だってジーク!」 「そうは言うがキルヒアイス」 同時に喋りだした二人の言葉は、次で完全に重なった。 「こいつが悪いっ」 お互いに指差したことまで重なっている。 「なんですってー!?わたしのどこが悪いのよ!あんたが遅れたのが原因でしょ!」 「お前が不……無能などと言うからこうなったんだろう!」 「無能を無能っつって何が悪い!」 「いい加減にしなさい!」 ぴしゃりと叱り付けてあのくだらない言い合いを黙らせたキルヒアイスに、ファーレンハイトから音のない拍手が送られる。具体的には手を叩いた振り。 「喧嘩がしたいなら、どうぞ邸でなさってください。ここは元帥府ですよ、ラインハルト様」 違う、何かが違うぞ、キルヒアイス。 ミッターマイヤー、心のツッコミ。 「も、もう年頃なんだから、もう少し綺麗な言葉を使いなさい」 それもちょっとずれている。 頷きながらどこか釈然としないケスラー。 だが幼馴染みは、やはり的確だった。 ラインハルトもも、言い合う気を無くしたようにふっと溜息をつく。 「はーい、ごめんなさい」 「……放っておいて悪かったな」 「そうやって最初に謝ってくれればよかったのに。もういいけどさ」 が肩をすくめると、彼女の背を押して促そうと一歩踏み出したキルヒアイスは、横の通路で佇む提督たちの存在にようやく気がついて、血の気が引くほど青褪めた。 だがそれは一瞬のことで、すぐにの背中を押す。 「さ、ラインハルト様と式典の話を。私は後から行きます」 「わかった」 「はいはい。大人げないことしちゃったから、つまんない話でも大人しく聞きますよ」 「実際お前は子供だろう」 「なにをー!?」 「閣下、フロイライン」 キルヒアイスが呼び方を改めると、二人は口を閉ざして歩き去った。 足音が完全に消えて、くるりとキルヒアイスが振り返る。 廊下に立ち尽くしていた提督たちは、同時に肩を跳ね上げた。 なぜだ。ミュラーと並んで温厚で知られるあのキルヒアイスの笑顔がなぜか怖い。 何も悪いことはしてない。あんなくだらない喧嘩、聞きたくもなかった。廊下でやり合っている方が悪いのだ。 だが図らずも立ち聞きという結果になったのは事実で、おまけにファーレンハイトなどは元帥の意外な一面を楽しんですらいた。 そういうちゃっかり者はビッテンフェルトとワーレンの背後に音もなく移動したりする。 「提督方」 カツカツと軍靴の踵が廊下を叩いた。 ミッターマイヤーとミュラーが密かにちらりと視線を交わし合う。 瞬間的にキルヒアイスがガツッと一際大きな音を立て廊下を踏みしめ、二人は揃って飛び上がってキルヒアイスに注目する。 笑顔で近付いてきたキルヒアイスは、先頭にいたロイエンタールの前で足を止めた。 「何かご覧になりましたか?」 ロイエンタールの後ろでミュラーが首を振る。必死で振る。 「では、何かお聞きになりましたか?」 今度はミッターマイヤーが首を振った。 「本当に?」 長身をわざわざ屈めて、下から覗き込むように詰め寄られ、ビッテンフェルトの視線が泳ぐ。 「何も、知らん」 すっとキルヒアイスの手がビッテンフェルトとワーレンの間を抜け、我関せずを決め込もうとしていたファーレンハイトの肩を掴んだ。 「なにか楽しいことでもございましたか、ファーレンハイト提督?」 「……今日の夕食のことを考えていた」 「それはそれは……」 更にファーレンハイトの後ろに視線を送ったキルヒアイスは、何も言わずにワーレンに視線を転じる。もちろんワーレンも急いで首を振った。 ケスラーも視線を向けられる前に首を振る。 諸将の心は一つになった。 恐らくオーベルシュタインには何も言う必要を感じなかったのだろうということと。 救世主ではなく、地獄の使者だった、と。 これならまだ、子供っぽい喧嘩を延々聞かされていた時の方が遥かにマシだ。 誰にもわからないように、ロイエンタールは小さく息を吐いた。 キルヒアイスは元帥の名誉を守ろうとしているわけではなく……もちろんそれは当然として含まれているが……幼馴染みの少女を庇いたいのだと、この場で正確に気付いているのは恐らく自分だけだろうと思ったのだ。 だから元より、彼女の本性を知っていて好意的なロイエンタールには何も言わなかった。 そういうことだろう。 「ではどうぞ、会議が長引きましたから、それぞれ執務が溜まっておいででしょう。執務室に戻りましょうか」 キルヒアイスに促されて、一斉に廊下を振り返った。まっすぐ進むはずのミュラーまでつい踵を返した。 そこでキルヒアイスとオーベルシュタインを除く全員が初めて、オーベルシュタインよりも更に後方に、錆びかけた銅色の髪の男がいたことに気がついた。 「いたのか、アイゼナッハ!」 ビッテンフェルトのかなり失礼な驚愕の声に、アイゼナッハはゆっくりと頷いてそして口を開く。 「ああ」 滅多に聞くことのない声に、またも提督たちの中に衝撃が走る。なんと珍しいことが立て続けに起こる日だろうか。 頷くだけで出来る返答に珍しく声を上げた彼が、実はファーレンハイトと同じく「不能」のくだりで、地味にひっそりと笑っていたことに気付いた者はいなかった。 |
愉快犯のファーレンハイトと、常識人のケスラーと、地味に笑いのツボがオヤジな アイゼナッハが(短編も合わせても)初登場の話でした(^^;) |