「カザリン・ケートヘン新皇帝の即位式について」
わざわざ元帥府まで呼び出されたは、それだけでもう十分に不機嫌だった。
正直な話、式典なんざ知ったことかというのが本音だったからだ。
おまけに会議が長引いているということで、もう一時間も応接室で待たされて、更に機嫌が下降する。
ラインハルトが忙しいのはわかる。だが三十分や四十分ならまだしも、一時間。何の音沙汰もなく一時間。
「……あぁ、もういい。もう帰ろう。どーでもいいや」
皇帝を神聖視しないは、現在帝国の実権を握るラインハルト・フォン・ローエングラムをも恐れない。
なぜなら、にとって、ラインハルトはあくまでわがままで生意気な幼馴染みという認識が、まず先にあるからだ。
ラインハルトは現在二十二歳。少なくとも十七歳の少女に生意気と評される筋合いはない。



好奇心は猫をも殺す(1)



ラインハルトはいささか焦っていた。
そもそも午前の仕事が押して会議自体が遅れて始まった。
おまけに即位式典の話だったはずなのに、その後に行うことになるであろう同盟領への侵攻の話がビッテンフェルトからちらりと出たのを切欠に、ついいかにしてヤン・ウェンリーを討つかという部下たちの談義を楽しく聞いてしまったからだ。
あの短気な幼馴染みを呼び出していたのに。
それを思い出したのは、秘書官のヒルダがこっそりと来客の存在を耳打ちしてくれたからで、ラインハルトの功績ではない。
とにかく幼馴染みのことを思い出したラインハルトは「卿らの武勲を楽しみにしている」と少々強引に話を切り上げて、悠然と会議室を後にした。
彼女がどれほど怒っているかと思うと頭が痛い。
果たして飛んでくるのはコーヒーカップか灰皿か。
第一声が怒声になるのはわかりきっていたことなので、秘書官や副官たちを先に執務室に帰し、一人で応接室へ向かった。
何が飛んできても対処できるようにと……それこそ花瓶でも……心の準備をして部屋の扉をノックした。
「俺だ、。入るぞ」
そういえば、キルヒアイスを連れてくればよかったと今頃考えても遅い。兄代わりのキルヒアイスがいれば、行き過ぎた怒りを宥めてくれたのに。
返事がないまま扉を開けると、そこはもぬけの殻だった。
!?おい、どこだ!」
飲み終えて空になったコーヒーカップが放置されている。を待たせていたのはこの第一応接室で間違いないはずだ。
見ればカップの横にメモが二枚置いてある。
一枚は中身が見えないように奇妙な折り方で、落としたくらいでは開かないようにしてある。
もう一枚はそれこそ走り書きのメモだった。
この畳んであるメモを決して中身を見ずに元帥閣下にお渡しください、というものだ。ラインハルトと懇意であると周知のでなければできない芸当だ。
畳んだ折り目に差し込んであった角を外して、広げてみる。
中身は読むまでもない。
見る、で充分だ。
両手を広げたほどのサイズの紙一杯に、たった一言こう綴られているだけだった。

『ノロマ野郎!』



会議室を出る元帥閣下を敬礼で見送り、机に広げてた書類を片付けてから会議室を出た面々は、元帥府の諸将と式典を取り仕切る典礼尚書と国務尚書であった。後者の二人はすぐさまそれぞれの省庁へ戻り、元帥府の提督のうちジークフリード・キルヒアイスは足早に消えたラインハルト追って途中で別れた。
それから、レンネンカンプ、メックリンガー、ルッツと各々部下に呼ばれて離れ、ミュラーが自らの執務室に向かう道で別れようとした廊下の先に、ロイエンタールは憤然とした足取りで横切ったを発見した。
彼女が元帥府にいることは珍しいが、ありえない話ではない。
未成年のためにいまだ正式に侯爵家を継いではいないが、リップシュタット戦役においていち早くローエングラム側について、マリーンドルフ伯爵家と共に転向貴族たちの対応に当たったのが彼女だ。
元帥と幼馴染みだと知る者はごく限られているが、新皇帝の即位式典が近い今、彼女が公的機関に赴いていてもおかしなところはなにもない。
ただ、元帥府にいることは不審でなくとも、この場にいることは不審だった。
この辺りは提督たちの執務室が近いが、彼女が訪ねる可能性のあるキルヒアイス、ロイエンタールの執務室にはまだ遠い。
無言でミュラーに付いてこうとしたロイエンタールに、驚いたようにビッテンフェルトが声を掛ける。
「おい、どこへ行くロイエンタール」
「急用だ」
「それでしたらここでお伺いしますが」
「卿にではない」
じゃあ誰に。
立ち止まったミュラーを追い越して先を行くロイエンタールをみなが視線で追った先の廊下から、少女の苛立った怒声が聞こえた。
「なんでこんなにややこしいのよ!また行き止まりじゃない!」
ロイエンタールには興味もないとばかりに先に行こうとしていたオーベルシュタインの足が止まる。
元帥府で聞くには珍しい歳若い少女の声に、ビッテンフェルトとミュラー、ファーレンハイトとワーレンがそれぞれ顔を見合わせて、ケスラーが記憶を辿るように指先で顎を撫でた。
「聞いたことがある声だな」
「お、おいロイエンタール……」
無論、この中ではまだ彼女と付き合いの長いミッターマイヤーはその一声で誰だか気付く。
ロイエンタールは額を押さえて溜息をついた。
「なぜこんなところにいるのだ、あいつは……」
は特別方向音痴というわけではない。それはロイエンタールも知っている。
だが元帥府はその役割上、中の構造はテロ対策でそれなりに入り組んで作ってある。
行きでは一本道だが、逆に戻るときには枝分かれした通路がいくつも見える、などだ。
拾っておこうと、まるで猫の子のように思いながら一歩踏み出した廊下の先で、戻ってきたはぴたりと足を止めて、不機嫌そうに前を睨みつけた。ロイエンタールたちには彼女の横顔しか見えないが、視線が上に向いて止まっている。どうやら彼女の正面に誰かいるらしい。
「どうしてお前はそうフラフラするんだ。元帥府を見学したいなら、誰か呼んで案内させればいいだろう。もう子供ではないのだから、探検だったなどと言うなよ!」
角の少し向こうにいて顔の見えない相手は、だがこのメンバーには声だけで充分に誰かわかる人物だった。ビッテンフェルトが珍しく小さく呟く。
「か、閣下……?」
この元帥府の長、ラインハルトだ。
「誰が探検なんかするか!帰ろうとしたのよ!」
「……帰る?なら奥に入り込んでどうする」
の横顔が赤く染まった。
「待たされた部屋から出たときに、左右間違えて歩いたんだよ!悪かったね!」
馬鹿だ……と声に出さずに口の動きだけでロイエンタールが呟く。後ろではオーベルシュタインが溜息とともに首を振っていた。









好奇心というか……単に通りかかっただけですが(^^;)


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