を散歩に連れ出したラインハルトは、適当に近所をぐるりと周って帰ろうと考えていた。その頃にはアンネローゼも家に戻っているだろうからと。 会話をするわけでもなく先を歩きながら、やっぱりこれでは犬の散歩みたいだと思っていたら後ろから随分忙しない足音が追ってくる。 振り返ると、が息を弾ませて一生懸命に走っていた。 歩く速度が速すぎたらしい。 「早いなら早いって言えばいいだろう」 息を弾ませ追いついたは、唇を尖らせてふいと横を向く。 「早くないよ」 そんなところで負けず嫌いを発揮してどうする。 ラインハルトは頭痛を覚えて額を押さえた。 小さな紳士(3) 今までと歩いていて、とくに歩く速度を合わせた記憶はない。 理由は簡単なことで、と手を繋いだジークフリードがゆっくりと歩いていたのだろう。話している友人と同じ速度で歩けば、結果的にそれがに負担にならない速さだったということだ。 つくづく、細かい点に気付くものだと思いながら、ラインハルトは歩く速度を落とした。 後ろから聞えてくる足音が、走らない程度にまで。 早くないと言い張っただったが、ラインハルトが速度を落としたことについてはなにも言わなかった。 時々ジークフリードと遊ぶ公園までやってきて、ここを一周して帰ればちょうどいいだろうと足を踏み入れ、ラインハルトは即座に顔をしかめた。 「帰るぞ」 「え、もう?」 が驚いて足を止める。その手を掴んで帰ろうとしたラインハルトの背中に悪意を込めた揶揄が飛んでくる。 「おい、ミューゼル!来たばっかりでどこに行く?」 二の腕を掴んでいるラインハルトがうんざりしたように溜め息をつき、はラインハルトと、声を掛けてきた少年を交互に見た。 にやにやと笑う相手は、ラインハルトよりもひとつ年上の少年だ。も同じく顔をしかめた。知っている相手なのだ。しかもいい印象がない。少年は後ろに、いつも連れている子分を一人従えてた。 「キルヒアイスがいないと尻尾を巻いて逃げるのか」 「なにっ!」 明らかな挑発に乗って振り返ったラインハルトだが、の腕を掴んだままだったと思い出す。 ラインハルトはその持ち前の態度から、ジークフリード以外には友達という友達がいない。 それだけならまだしも、その態度は人を見下しているように見えるらしく、どちらかというと敬遠されている。 その中でも目の前にいる少年は、何かにつけてラインハルトに嫌味を言ってくる上級生だ。 何度か絡まれたことはあったが、これまではいつもジークフリードが一緒だった。 温厚な性格のジークフリードはラインハルトのように喧嘩慣れしていないのだが、天性の才能があって現在のところ敵なしの喧嘩巧者だ。 今までは、学校でも放課後でもほとんどジークフリードと一緒に行動していたから、ラインハルトが一人の今が好機だと思ったのだろう。 幼いを連れているから自制しようかとも考えたが、まさか学校にも上がっていないような子供には手を出さないだろうと思い直して、の手を放すと少年へ向き直った。 「腰巾着がいないと何もできないのはお前だろう。わざわざ子分を連れて恥をかきたいのか?いいや、恥を見られたくないから一人しか連れてないのか」 ラインハルトがせせら笑うと、少年の顔が怒りに染まる。後ろの少年も、それに同調したようににやにやと笑っていた顔色を変えた。 険悪な雰囲気に挟まれながら、も顔をしかめた。 楽しい散歩に出たはずなのに、なぜこんなことになっているのだろう。 少年は、ラインハルトの脇にいるを一瞥して怒りの滲んだ顔に、嘲るような笑いを浮かべる。 「いい気なもんだ。お前なんか、そこのチビと同じで、キルヒアイスにお情けをかけてもらってるだけのくせに」 「お情けだと!?」 「そうだろ、どっちも親なしだ。おまけにそっちのチビは父親がだれかもわからない!母親はどうしようもない尻軽だって噂だぜ。お人よしのキルヒアイスは、可哀想なやつに優しいんだ」 「うるさいっ!」 さっきまでラインハルトの諍いは迷惑だというような顔をしていたが、怒りに顔を真っ赤に染めて握り締めた拳を震わせている。 「おかあさんをわるく言うな!」 「はっ、チビが咆えた。お前の母親がどうしようもない女だってことは、この辺りじゃ有名じゃないか。なあ?だからお前なんか、だーれも相手にしてくれないんだ!」 後ろに付き従っていた少年が合わせるように大声で笑い、が涙を溜めた目で睨み上げたその時、少年の横面に拳が捻じ込まれた。 「くだらないことにしか使えない口なら一生閉じてろ!」 「この……っ」 殴られた頬を押さえて睨み付けてくる少年に、ラインハルトは顎を上げて軽蔑の眼差しを向ける。 「キルヒアイスがいないときでなければ、なにもできない腰抜けめ!お前なんかが、ぼくに勝てると思うなよ!」 怒りの臨界点を越えたのか、叫びながら飛び掛ってきた二回りは身体の大きい少年を、ラインハルトは軽く横に避ける。 無様にたたらを踏んで転びかけた少年には見向きもせずに、同時に飛んできたもう一つの拳を避けた。 二対一でも、上手く隙を突けば勝てる自信があった。 だがそれは、あくまでが大人しく離れているということが前提だ。 左右や前後に挟まれないように位置を考えながら攻撃を避けていたラインハルトの目前で、最初に喧嘩を売ってきた少年の頭に石が当たる。 「ふたりでなんてひきょーもの!」 がすぐ側で、石を投げた体勢のままで強く抗議する。 「馬鹿っ!」 普段なら少年も小さな子供に、怒りはしても手は出さなかっただろう。だが、今はラインハルトにひらりひらりと身軽に攻撃をかわされて、苛立ちが募っていた。そんなときに、ラインハルトに殴られた方の頬に横から石をぶつけられたのだ。 「よくもやったなっ!」 ラインハルトが止めようとしたときは遅かった。少年の平手がの頬を打って、小さな身体はその衝撃に耐え切れずに地面に叩きつけられる。 「!」 ラインハルトは咄嗟に地面から片手では余るほどの石を拾い上げて、少年に向かってそれを叩きつけた。 子供の力でも、凶器を使われてしまうとひとたまりもない。 少年が殴られた額を押さえながら地面に膝をつくと、ラインハルトはその顔を蹴り上げ後ろに倒し、自分より大きな身体に馬乗りになって石を振り上げる。 「こんな、子供に、手を、出すなんて、卑怯者めっ!」 一区切りごとに石を振り下ろし、押さえつけられた少年は泣きながら許しを請うて腕で顔を庇う。おかげで腕は傷だらけだ。 一緒にラインハルトに喧嘩を吹っ掛けた少年は、ラインハルトのあまりの迫力に手も出せずにうろたえて、助けになるものを探して周囲を見回した。 公園には運悪く誰もいないし、ラインハルトの連れであるは倒れたままで起き上がらない。 なにか、なにかと探し続けた少年は、道の向こうから駆けてくる目に鮮やかな赤毛に思わず大きく手を振った。 「助けて!助けて!ミューゼルを止めてくれ、キルヒアイスっ!」 ジークフリードが後ろから腕を抱え込んで遮って、ラインハルトはようやく振り下ろす手を止めた。 ラインハルトの下から砂を掻くように四つん這いになって這い出した少年は、そのまま子分を連れて泣きながら逃げていく。 「待てっ!」 「ラインハルト!もうやりすぎだよっ」 追いかけようとするラインハルトの肩を掴んで引き戻すと、怒りに満ちた顔で振り返る。 「あいつら、まだに謝ってない!」 これにはジークフリードも、叩かれた頬を抑えて起き上がったも驚いて目を瞬いた。今までラインハルトはと反発してばかりで、好意なんて持っていなかったのに。 自分のことではなく、何より少女のことで怒りを爆発させたということらしい。 「を殴った!その前におばさんのことも悪く言った!あいつら、それをまだ謝ってない!」 「ラインハルトを叩いたことも謝ってないよ?」 「ぼくは一発も殴られてなんかいない」 ラインハルト自身のことはいいのかとが首を傾げて訊ねると、攻撃を食らったなんて名誉毀損だとでもいうような表情でラインハルトが訂正した。 「でも、石で殴るのはさすがに危ないよ」 「あいつらが悪いんだ!」 「それでも、やっぱりだめだよ。ほらラインハルト、血が出てる。ここについてるよ」 ジークフリードがラインハルトのシャツを指差すと、怒りに満ちて真っ赤に染まっていた顔がさっと青褪めた。 「どうしよう……喧嘩したことを姉さんに気づかれる」 しかも相手に怪我を負わせたとなると、どれほどアンネローゼを悲しませることになるかわからない。 「あらえば?」 いつの間に移動したのか、ラインハルトの横でがシャツを引っ張った。 「うちであらえばいいと思うよ」 確かにの自宅なら、昼間は大人が誰もいない。こっそりと洗ってこっそりと乾かすことができる。 「その手があった!……でも、家に帰るまでに乾いて染みになるかもしれない……」 心底困ったように眉をひそめたラインハルトに、水道を探して周りを見たジークフリードはそれに代わるものを見つけた。 「ラインハルト、噴水!」 「え?」 「噴水にはまったことにしちゃいなよ。あそこでシャツを洗おう!」 「よし!」 そうと決めてしまうと、後は早い。 ラインハルトはすぐに身を翻して、ジークフリードが指差した噴水に駆け寄って思い切り飛び込んだ。 服を洗う必要のないジークフリードも、一緒になって飛び込む。とにかくこの親友となんでも分かち合いたいのだ。 置いていかれたは、やはり仲間外れにされたような気分になって、後から駆けつけると、二人の間に勢いよく飛び込んだ。 「うわっ!?なんでお前まで入ってくるんだよ!」 「だって!」 「だってじゃないよ……ああ、でも頬を冷やした方がいいね」 ジークフリードが眉をひそめて噴水に飛び込んだことを肯定したので、ラインハルトはその小さな顎を掴んで首を捻らせた。 頬が赤く腫れてきている。 「あいつらのせいだ!」 「小さいをこんなになるまで叩くなんて」 ジークフリードも眉をひそめ、慰めるように頭を撫でてくれたので、には殴られたことはそれほど悔しくなくなった。母親の件は、また別ではあったが。 幸い、ついたばかりだった少量の血は洗えば目立たないくらいにはなって、三人はずぶ濡れのままで家まで歩いて帰った。 右手はジークフリードが、左手はラインハルトが握ってくれて、は上機嫌で笑って、それぞれと繋いだ両手を揺らして鼻歌を歌っている。 母親を悪く言われて、おまけに叩かれて、噴水に飛び込んだのは自分からとはいえ、ずぶ濡れになってもご機嫌なに、ラインハルトは首を傾げる。 「楽しいのか?」 「うん!ジークとラインハルトが一緒だもん」 一緒にいて楽しい相手に自分が含まれて、ラインハルトは少なからず驚いた。 普段は喧嘩をしてばかりだし、二人きりだと扱いかねてろくに相手もしなかったのに。 「そういえば、どうしてキルヒアイスは公園にきたんだ?」 「親戚のうちから帰ってきたら、ラインハルトが上級生に公園で絡まれてるって知らせてくれた子がいたんだよ。それで慌てて駆けつけたんだけど、行ってよかったよ」 「ぼくは負けてないぞ」 「わかってるよ。だけど、やりすぎてたじゃないか。でも、ラインハルトがを連れて行ってるとは思わなかったよ」 ジークフリードはに優しく笑いかけた。 「ラインハルトが遊んでくれたんだね。楽しかった?」 「うん!あのね、一緒にお花の草とりをしたの」 「お花の草?」 「花壇の周りの雑草を抜いていたんだ」 一緒に、と言っても単に並んでしていただけだ。ろくに言葉も交わしていない。 それでも、には楽しかったらしい。 「そうか……」 は寂しいのか。 キルヒアイス宅へ預けられるのは、毎日というわけではない。家ではほとんど一人で、母親が帰ってくれば一緒に過ごすとはいっても幼いは眠りにつく時間も早いので、会えるのは一日でほんの数時間程度のことだ。 誰かと共に過ごす時間が、絶対的に少ないのだ。 それぞれの自宅が見えてきて、残りは走っての家に入ってしまおうと手を繋いだまま駆け出した。血は取れても、できれば服も乾いているに越したことはない。 だが、帰ってきたタイミングが悪かった。ちょうどアンネローゼが庭に出ていたのだ。 「まあ、三人とも!いったいどうしたの!」 見つかってしまったことにラインハルトとジークフリードが噴水にどう落ちたと話すか顔を見合わせて考えると、二人と繋いでいた手を放してが前に出た。 「わたしが水で遊びたいって、お水にとびこんだの。ラインハルトが怒ってひっぱったら一緒に落ちちゃったの」 「まあ、それで、どうしてジークまで濡れているの?」 「え、えっと、それはその……二人が楽しそうだったら……」 しょうがない子たちね、と笑って三人に風呂に入るように命じる。 アンネローゼはバスタブに湯を入れてから三人揃って脱衣所へ押し込んで、ちゃんと温まるのよと言い残して出て行った。 姉が行ってしまのを待って、ラインハルトはを見下ろした。 濡れて張り付いた服が脱ぎぬくいのか、悪戦苦闘していたので、上から引っ張ってシャツを抜いてやる。 「庇ってくれたのか?」 ラインハルトとジークフリードが噴水遊びをして、それにが一緒になったといえば、アンネローゼに怒られたかもしれない。だが逆にが暴れたということなら、怒られても小言程度で済むはずだ。 「おかあさんがね、人に助けてもらったら、すぐにお返ししなさいって言ってたから」 二人に手伝ってもらって真っ先に脱ぎ終わったが一番に浴室に入っていく。 「あいつのおばさん、面白い人なのに。なんであんなやつにケチつけられなきゃなんないんだ」 突然の母親のことを言い出したラインハルトに驚いて目を瞬いたジークフリードは、やはり張り付いて脱ぎにくい服を引き剥がしながら溜息をついた。 「おばさんはね、この町にきたときはもうお腹にがいたんだ。旦那さんのことも何もわからないから、勝手なことを言う人もいるんだよ」 「それであいつ、友達がいないのか?」 「子供によくないことを言う親もいるからって、うちの母さんが言ってたけど……この辺りにはと同じ歳頃の子女の子がいないせいもあると思うよ」 「じゃあ、キルヒアイスはが可哀想だから面倒をみてるのか?」 上級生が言っていたことを真に受けたわけではない。少なくとも、ラインハルトのことは本当に友達だと思っているとわかっている。 一応と思って訊ねてみると、ジークフリードは笑って最後の下着を脱いだ。 「まさか。ぼく、一人っ子だから。がいると妹ができたみたいで楽しいんだ」 「……そうか」 先に浴室に移動して、が一人でバスタブに入って溺れないように手を貸すジークフリードを見て、ラインハルトも最後の下着を脱いだ。 「そうだよな。やっぱりは可哀想なんかじゃない」 アンネローゼは浴室から聞えてくる三人のはしゃぎ声に呆れたように、少し楽しそうに溜息をつく。 きっと三人とも温まることより遊びに夢中だろう。 風呂から出てきてすぐ温かい飲み物を取ることができるように、チョコレートをとりだしながら鍋を火にかけた。 |
こうして仲良くなっていきました。……という話だったんですが。 その第一歩が石で相手を叩きのめすような喧嘩からって……(^^;) ラインハルトの喧嘩シーンは原作に説明がちゃんとあるものです。 いくらかは変っていますが、バイオレンスな少年時代。 |