時間になれば家の窓から道路をずっと見ている。これはの日課だ。 まだ五歳になったばかりのは、よく向かいの家のキルヒアイス夫妻の宅へ預けられるが、自分の家でじっと帰りを待って過ごすこともある。 母親ではなく、キルヒアイス宅の長男、ジークフリードの帰りを。 小さな紳士(1) 「お帰りなさいジーク!」 今日も通りの向こうにその姿を見つけた途端、家から駆け出して学校帰りの向かいの家のお兄さんに抱きついた。 「ただいま、」 「ねえ、今日は一緒に遊べる?」 「大丈夫だよ」 ジークフリードがにっこりと微笑んで了承すると、は喜び勇んでその手を引く。 彼には彼で同年代の友達がいるから、いつでも遊んでもらえるわけではない。 それでも、この日までは高い確率で一緒に遊んでくれていたのだ。 「あれ……隣、引っ越してきたのかな」 出迎えに来たと手を繋いで、自宅までの残りの短い距離を歩いていたジークフリードは、空き家だった隣の家の前に止まっている車に首を傾げた。 「そうみたい。さっきから、荷物を運んでるよ」 が上から見ている限り、業者の人間以外に三人の男女がいた。ほとんど働きもせず、庭の端でぼうっと酒の瓶を持っている男と、綺麗な金の髪の少女と、その弟らしき少年と。少年の方は大好きな向かいの家のジークと同じ歳くらいだろうかと思っていたのだが、なにぶん二階の窓から見ていただけなので、よくはわからない。 ちょうど全員が家に入っていて、庭には誰もいない。 とジークフリードが手を繋いでキルヒアイス家の門扉を開けて庭に入ると、業者の人間が家から出てきた。 「どうもありがとうございました」 少女の声が聞えて、ジークフリードが足を止める。隣人に対するちょっとした好奇心だった。 手を繋ぐ向かいの家のお兄さんが立ち止まったので、も一緒に止まって隣家を見る。 業者の人間が数人と、けぶるような金の髪を後ろにまとめて三つ編みにした十四、五歳の少女が門扉まで歩いていた。 「いいえ、またの機会がありましたらどうぞ当社をご利用ください」 型どおりの挨拶をして業者の人間が車に入り、出発するまで少女は見送っていた。 その様子を、ジークフリードはじっと見詰めている。 は手を繋いだお兄さんを見上げて、その視線を追って少女を見やって、それからまたジークフリードを見上げる。 すっかりその少女に見とれているジークフリードに何がなんだかわからず眉を寄せていたら、少女が振り返って目が合った。 手を繋いでいたジークフリードが跳ね上がったけれど、は気にせずその手を握ったまま隣家との垣根に歩み寄る。 「こんにちは!」 物怖じもせずに元気よく挨拶をしたに、少女も垣根に歩み寄ってきてにっこりと清楚な笑みで挨拶を返す。 「こんにちは。私たち、今日からこの家に引っ越してきたの。仲良くしてくれると嬉しいわ。わたしはアンネローゼというの」 「わたし、。こっちはジーク。おねえさんも一緒に遊んでくれる?」 「!」 緊張して固まっていたジークフリードは、初対面で突然の申し出をするに驚いて悲鳴のような声を上げる。 「す、すみません、気にしないでください」 「どーしてー?」 止められた意味が判らず首を傾げるに、アンネローゼは頬に手を当て、残念だけど、と断った。 「今日は家の中を片付けなくてはならないの。また今度誘ってくれるかしら?」 「じゃあ、お手伝いする!」 「!」 五歳の少女が引越し作業の何を手伝えるというのか。邪魔をするのがオチだ。 ジークフリードは慌てて妹のような少女を垣根から引き剥がした。 「すみま……」 「姉さん!」 引き止めてしまったことも含めて、もう一度謝ろうとしたジークフリードは家から駆け出してきた少年に、うっかり次の言葉を失ってしまった。 アンネローゼという少女を見たときも、まるで天使のようだと思ったのに、もう一人天使が現れた。 少女と同じ金の髪を風になぶらせた少年は、ジークフリードと同じ歳くらいに見える。 まるで羽根でも生えているかのような軽やかな足取りで、隣家との垣根にいた姉の下に駆け寄ってきた。 「そいつは?」 ジークフリードに気付いて顎でしゃくるようにして首を傾げる。 「まあ、ラインハルト!そんな言い方失礼でしょう!」 姉に叱られて、少年はばつが悪そうな顔をする。 「誰だ?」 今度は姉にではなく、ジークフリードに直接聞いてきて、それに本人が答える前に下から澄ました声が上がった。 「人に名前をきくときは、じぶんが先に言うもんだよ」 としては、母親に教えられたことをそのまま少年に伝えただけのつもりだったのだが、少年の顔に不愉快そうな表情が浮かんだ。 「なんだお前。チビのくせに偉そうに」 「ラインハルト!」 アンネローゼが叱りつけると、少年はまた不服そうにだが口を閉ざす。 放っておけばが何を言うかわからなかったので、その口を塞いでしまってからジークフリードはようやく最初の質問に答えた。 「ここの家の人間だよ。ジークフリード・キルヒアイスというんだ」 「ジークフリード?俗な名だな」 自己紹介で返ってきた答えがそれで、怒るよりもびっくりしてしまった。 絶句したジークフリードとまた弟の名を叱るために呼んだ姉の目の前で、少年に向かって小さな靴が飛んだ。 続けて何か言おうとした少年の顔面に、そのクリーム色の靴がまともにぶつかった。 ジークフリードが驚いて自分が抑えていた少女を見下ろすと、靴が片方ない。 驚いた拍子に緩んだ手を抜け出して、は垣根に取り付いた。 「失礼なやつ!ジークにあやまれ!」 「お前こそぼくに謝れ!」 顔に当たった小さな靴を地面に叩きつけて少年が眉を吊り上げる。 整った顔立ちの少年が柳眉を逆立てると、それは大層迫力があったのだが、は一歩も引かない。 「あんたが悪いんじゃないか!」 「なんだと!?」 「やめなさい、ラインハルト!」 「!いい加減にしなさい!」 少年とを、それぞれアンネローゼとジークフリードが叱り付けると、二人ともぴたりと止まって叱る相手を見る。 「の言う通りよ。今のはあなたが失礼だったわ。謝りなさい、ラインハルト」 「ちょっとしたことで暴力を振るうのは良くない。思ったことがあるなら、靴を投げるんじゃなくて口で言うんだ。それから、年上の人に向かってあんたなんて言っちゃいけない」 お互いに叱られて、少年とはいやいや目を合わせる。 「悪かったな」 それでも、少年は謝ったがからは、なかなか謝罪の言葉が出てこない。 「」 「だって、ジークにあやまったんじゃないもん」 悔しそうに唇を噛み締めて拳を握るに、少年が驚いたように目を瞬いた。 そういえば、最初に少女を怒らせた理由は、ジークフリードの名を俗な名前だと言ったことだ。 「すまなかった。そういうつもりじゃなかったんだ。でもキルヒアイスっていう姓はいいと思ったんだ。とても詩的な響きだろう?ぼくは君をキルヒアイスと呼ぶことにする」 靴をぶつけられたせいで、途中で止まっていたことを言い切ると、ようやくすっきりしたように息をついた少年に、ジークフリードとは揃って目を瞬いた。少年の隣で、アンネローゼは溜め息をついて額を押さえる。 とにかく謝ったことには違いないと、ジークフリードが後ろから軽くの背中を押すと、はフラフラと垣根に取り付いて、ぎゅっと握り締めた。 「ごめんなさい……」 小さく謝ったに、少年は自分では鷹揚と思える態度で頷いて地面から拾い上げた靴を差し出した。 「それで、お前はなんていう名前だ?」 「だから……」 名前は聞くほうが先に名乗れ、と言おうとしたに、少年はにやりと笑う。 「ぼくはラインハルト。ラインハルト・フォン・ミューゼルだ」 はぱくぱくと口を開閉させ、それから差し出された靴を受け取る。 「・レーベント」 口を尖らせながらも、名乗られた以上はと名乗り返したが靴を履くのを待ってから、アンネローゼは困ったように微笑んだ。 「ジーク、。少し我が儘な子だけど、どうかラインハルトと仲良くしてあげてね」 向けられた笑顔に、ジークフリードは舞い上がるような気持ちで大きく頷く。 「は、はい!」 「おねえさんがそう言うなら……」 初対面であれほどラインハルトに悪態をついたのに、アンネローゼのお願いには素直に頷いたに驚いて見下ろすと、どうやらジークフリードと同じく彼女の微笑みに魅了されてしまったらしい。 もともと母親と二人暮しのは、女性により強くなつく傾向がある。 それにしても、初対面でこうもあっさり陥落するとは。 「別にお前にまで仲良くしてもらおうとは思わない。ぼくはキルヒアイスだけでいい」 「お前って言うなっ!」 再びが靴を脱ぎそうになったので、ジークフリードは慌てて後ろから羽交い絞めにするようにして引き摺り離した。 「ラインハルト!ごめんなさいね、」 「おねえさんはいいの!そっちのやつが悪いんだもん!」 「そっちとはなんだ!」 謝った端から喧嘩を始めるラインハルトとに、アンネローゼとジークフリードが代わりのように謝りながら、それぞれの火種を引き摺って家に入った。 家に入ってドアを閉めると、ジークフリードは疲れたようにぐったりとして少女を解放した。 「……どうしてラインハルトと喧嘩するんだ」 「あいつが悪いんだもん!」 「あいつなんて言い方しちゃだめだよ。……アンネローゼさんの言うことは素直に聞くのに、どうしてラインハルトだとだめなのかな」 これは質問ではなく独り言だったのだが、聞きつけたはなぜか急にもじもじと爪先で床を蹴りつけた。 「だって……おねえさんは、お母さんと似てるんだもん」 「えぇ!?」 心底驚いて聞き返してしまった。 あの女傑と、天使のような美少女が似てる……? と同じブルネットの髪とアメジスト色の瞳を持つ向かいの家の主は、まだ年も若く二十歳だというのに、あまり若々しさというものがない。どちらかといえば、それなりに歳を重ねた中年女性並みの力強い精神力の持ち主だ。 未婚の母親という責任を抱えていて、尊敬できることは確かだし、美人には違いないが、少なくとも金髪碧眼の美少女と重なるところはない。 「あのね、あのね、やさしいときと、怒ったときが違うのが似てるの。お母さんはよく怒るけど、わたしがいいことをしたら、髪がぐしゃぐしゃになるくらい頭をなでてね、おねえさんみたいなやさしい顔でほめてくれるんだよ」 優しい笑顔と叱るときの大きな差がよかったらしい。 印象って人それぞれだなあとジークフリードは妙な感心をしてしまった。 |
ラインハルトと初対面……ですが、いきなり喧嘩です(^^;) 自分のことをぼくというラインハルトが物珍しかったり…。 |
お題元:自主的課題