名ばかりの『父親』のことで落ち込んで、立ち寄った花屋で気障な男に慰められた。
浮き沈みの激しい日だと苦笑しながら、ユリの花束を手に誰もいない墓地を歩くの足取りは軽かった。
正式に葬儀で使われる祈りではないが、弔歌として使うこともよく聞く、しっとりとした歌詞の少し昔の流行り歌を小声で口ずさみ、シートに置いてきた一輪の白いバラを思う。
嫌な気持ちのままで大好きな尊敬する母の墓前に行かずに済んで、本当によかった。
ロイエンタールのことを考えて、自然に笑みが零れるなんてことがあるとは思わなかった。
は上機嫌でそろそろ見えてくるはずの、一門の墓地を見ようと顔を上げ、その場で凍りつく。
「………なんで?」
の呟きに、振り返った男の両目は無機質な光を映していた。



12.繋ぐものは(3)



今更逃げるわけにも行かず、仕方なく家代々の墓の敷地から出てきたところだった男の前まで進む。
「……こんにちは……オーベルシュタイン大佐」
「墓参にそのような浮かれた様子で来る者も珍しいですな、フロイライン」
頭の上に言葉の石を乗せられたかのような重みを覚えて、は思わずうな垂れる。
せっかく頭の隅に追いやっていたはずの、シュターデンの姿が脳裡の中央に踊り出てきた。
同じだ、きっとこの二人は同じ人種だ。
どうにか気を取り直して表情を繕いながら顔を上げて、オーベルシュタインに道を空ける。
「祖父の元に来てくださったんですか?ありがとうございました」
うっかりと忘れていたが、今日と同じ日付けの三月にクロプシュトック事件が起こったのだった。八ヵ月目という、一周忌でもない中途半端な時期なのは首を捻るが、苦手な相手の意味があるのかないのかも判らない行動を、深く考える気にはなれない。
さあどうぞお帰り下さいと道を明けたにも関わらず、オーベルシュタインは軽く肩を竦めるように首を傾げるだけで動かなかった。
「確かに墓参は死者より生者のための儀礼というが、別にフロイラインに礼を言われる筋合いのことではない。これは死者のための訪問ゆえ」
「……そうですか。どうも失礼しました」
真実だとしてもわざわざ言うことなのかと、ついつい反感が募るほどに足の親指に体重が掛かる。用が終わったならさっさと帰れと叫びたいのを堪えるのは一苦労だった。
「フロイラインは、故候の墓参に?一周忌というには随分と中途半端な時期だ。毎月来られるほど候と親密だったとは初耳ですな」
「祖父ですもの。何もおかしなことはないと思いますけれど」
本当はじいさまの墓参りはついでだと、心の中で舌を出しながらケロリとして言うと、オーベルシュタインは僅かに息を吐いた。
「それでは、あの遺言書は余計な世話だったようだ」
今度はもあからさまに眉をひそめた。
「脅迫、ですか?」
「脅迫?なにか後ろ暗いことでもおありか」
「わざとらしい!あの遺言書は……っ」
オーベルシュタインは軽く右手を上げて、が言葉に詰まった隙にするりと後を続ける。
「左様。小官が所在を明らかにしたのでしたな」
こんな外で大声を上げて言うなということらしい。正論だ。
正論だが、苛立ちは募る。
目的が判らないことにも、弱味を握られているのだということにも。後で弱味になると判っていてもあれを使わなければ、婚約の話から逃れられなかったことにもだ。
「……大佐は祖父とどういうご関係でしたの?遺言書を託されるほどなんて」
オーベルシュタインに不審なところは最初から多かった。初めて会ったのはブラウンシュヴァイク公の園遊会を抜け出したところで、あの時は祖父の知り合いだと思った。
だが次に現れたときは、明らかに祖父の意思とは反する捏造をした遺言書を携えていた。
家がブランシュヴァイク公と繋がることを善しとしない、祖父の知り合い。
一度はオーベルシュタイン自身が祖父を知っているわけではないかもしれないとも考えたこともあったが、それなら墓参りになど来ているはずがない。
「侯爵には以前、多大な世話になっただけのこと」
「どういった世話なのか、気になりますね」
恩のはずはないだろう。それなら仇で返していることになる。何か恨みがあるはずだが、祖父の近辺を洗っても、オーベルシュタインという名はまるで見えてこなかった。
「他人の事情を興味で探るおつもりか。下世話なことだ」
「げ……下世話ー!?」
安い挑発だと判っていても、聞き流せることと流せないものがある。似たようなことをロイエンタールに言われてもここまで激昂はしないだろうことを思うと、発言者に対する印象も大きいことは否定できない。
とにかく、の中で怒りは一瞬で沸点に達した。
「人のうちの事情深くに踏み込んでくることは下世話じゃないとでも!?正体が判んない男が近くにいたら気持ち悪いに決まってるでしょうが!じいさまが嫌いなんだったら、わたしと同類じゃないの!なんだって思わせぶりなことばっかり言うわけ!?」
思いつくままというよりは、考えるより先に言葉が飛び出してオーベルシュタインに指を突きつけながら詰め寄る。
「それともなに、わたしも復讐対象なの!?」
自分の口から飛び出した言葉に、はっと息を飲んだ。
今の今まで、オーベルシュタインの、あるいはその背後にいる者の思惑が判らなかったからその可能性をまったく考えもしなかったが、祖父に対する恨みが深いというのなら、その孫であるも標的であることも、まったくありえない話ではない。
ほんの数時間前、身に覚えのないことでも激しく憎まれることがあるのだと、思い知ったばかりではないか。
「……復讐?」
オーベルシュタインの無機質な声に、思わず肩を震わせてしまった。
つい弱味を見せてしまったようなものだが、相手は笑うどころか顔色ひとつ変えない。
もオーベルシュタインも黙ると、墓地にしんと沈黙が広がる。
オーベルシュタインの義眼から目を逸らすことはできないまま、周囲の気配を探るが、他に人のいる様子などない。
ここで襲われたら逃げられない。相手は確かにデスクワークタイプの男だが、軍人なのは確かで、軍服でいる以上はブラスターを携帯していると考えていいだろう。大声を出して助けを求めながら逃げるにしてもドレスでは走りにくいし、せめて相手に射撃の腕がないことを祈るだけだが、そんな事態そのものが冗談ではない。
だがこんなところで現在唯一の侯爵家の跡取りということになるが変死したら、騒動とスキャンダルでかなりの捜査がされるはずだ。今いる場所は人が少ないだけにオーベルシュタインだって足がつきやすい。
まさか、だ。
が唾を飲み込んだとき、強い風が吹いた。近くに咲いている花が散ったのか、白い花弁が風に舞う。
強い風に、つい警戒していた男から目を離して髪を押さえながら瞼を閉じてしまった。
慌てて開けた視界に映ったのは、に向かって伸ばされた手。
「こ……殺されるーっ!!」
悲鳴を上げながら、思い切り振ったユリの花束がオーベルシュタインの顔面を殴りつけた。
「ぐっ……」
相手が怯んだ隙に逃げようと踵を返したが、駆け出した瞬間に頭に激痛が走って強く後ろに引かれる。
「いたたたたっ!」
強い風との激しい動きで解けた髪を掴まれた。
「やだ……っ」
「ま……待て……」
再び花束で殴りつけられたオーベルシュタインは、一度仰け反ったところで、が初めて聞く大声で怒鳴りつけた。
「誤解も甚だしい!」
もう一度思い切り髪を掴まれて、一束根こそぎ引き抜かれるかというような痛みに両手で頭を押さえたは、痛みの直後に目の前に差し出された手に反射で仰け反った。
拳を開いた掌には、先ほどの風で舞っていた花びらが乗っている。
「あなたの髪にこれがついたので、取ろうとしただけだ」
「………へ?」
もう一度吹いた風が、掌の花びらを吹き飛ばした。


「申し訳ありません」
髪が解けて掴まれて引っ張られて、ぐちゃぐちゃになった頭を深々と下げて謝るの頭上に、特大の溜息が落ちてきた。
「なぜ小官があなたを殺害するなどという妄想に至ったのか、その辺りからして理解不能だ。フロイラインはかなり独特な思考の持ち主らしいが、それを押し付けられるのは迷惑甚だしい」
「ぐ……申し訳ありません……」
大体、そっちだって意味深なところで黙ったのが悪いんじゃないのか!
……と叫びたいのを堪えて、はもう一度謝罪を繰り返した。
オーベルシュタインの態度にも非があったとしても、想像が飛躍しすぎて危害を加えたのはの落ち度だ。
「このような人気のない、しかしまったく無人とも言えない場所で殺人などと馬鹿馬鹿しい」
「申し訳ありません」
何といわれようと自業自得だ。同じ言葉を繰り返すしかないの耳に、再び溜息が聞こえた。
「もうよろしい。それ以上謝罪されても意味もない」
だって、そっちが何を企んでるかまったく判らないんだから、気持ち悪いに決まってるじゃないかー……とはやはり心の中だけで毒づいて、言われるまま顔を上げたは、オーベルシュタインの頬に走った赤い線に眉を下げた。
花束で強かに殴りつけたせいで、頬に小さな引っかき傷のようなものができている。
「えっと……その」
ごそごそと探って取り出したハンカチをそっとオーベルシュタインに差し出した。
「あの、すみません……よかったら頬の傷に……」
オーベルシュタインはハンカチを見下ろしたまま、三度目の溜息をついて、それ以上の嫌味は言わずにハンカチを受け取った。
「誤解があるようだが、小官は確かに侯爵に対して良い意味での恩はない。しかしあなたにまで危害を加える気はまったくない」
「………はい」
よれよれになった花束を抱えて頷くと、オーベルシュタインは受け取ったハンカチを頬に当てることなく歩き出す。
「髪を整えられるといいでしょう。それでは、失礼した」
離れて行くオーベルシュタインの背中に、は何か言おうとして言葉を探す。
申し訳ありませんは、もういいと言われてしまった。
祖父との縁は、良い意味ではないと言われた以上、墓参の礼もおかしい。
結局何の言葉も出ず、その背中に向かって深く頭を下げることしかできなかった。
頭を下げて、地面を見ながらゆっくり十秒数えて顔を上げると、角を曲がったらしいオーベルシュタインの姿はもう見えなくなっていた。
ほっと息をついて胸を撫で下ろし、よれよれの花束を抱えてぐちゃぐちゃの髪を解きながら、ふらふらとした足取りで家の墓地に足を踏み入れる。
「まいった……またやらかしちゃったよ……お母さん」
墓所の中で、一番通い慣れた墓の前まで歩み寄ると、力尽きたように地面に膝をついた。
「でもさー、あんなタイミングで黙られたら、普通疑うよね、不気味だよね、怖いよねー」
乱暴に扱われて首から取れかけている花も混じった花束を墓に備えて、溜息をつく。
「せっかくの好意までこんなにしちゃって、ときどき自分の短絡さがいやになるわ……さすがに悪いことしちゃったよ」
母の墓前の地面に座り込んだまま、墓石を眺めて肩を落とした。
「しかも結局、大佐の思惑は全然判んないままだし……じいさまの知り合いたって、どうも恩じゃなくて怨がありそうなのよ……お母さん、なにか知らない?」
名前と生年没年のみが刻まれた簡素な墓からは、当然返答はない。
婚約者以外の男との間に子供作って出奔した娘を、祖父は生涯恥じていた。家の体面を以ってしても、それ以上の装飾を墓に施す気にはなれないほど失望していたのだ。そして死んでしまって向けられなくなった怒りと侮蔑を孫にぶつけることで、精神の安定を図っていたのだろう。
「じいさまが人に恨まれる性質なのは判るけど、それで大貴族を敵にするかもしれない危ない橋渡ってまで、生前の悲願を邪魔するってのも変じゃない?それともそれだけ恨んでるのかな……」
やや乱暴に頭を掻いて溜息をつくと、解いた髪を結い直す。
「そういえばね、お母さん。姉さまとラインハルトとジークにまた会えたよ。今でもみんな良くしてくれるの。それから、この花はこの間知り合ったオスカー・フォン・ロイエンタールってキザな男がくれたのよ。会うと憎まれ口ばっか叩くくせに、色々手助けしてくれたり、ホントによく判らない男でねー……」
髪を結う間、近況を墓に向かって報告していたは、そのうち婚約の話に差し掛かってまたオーベルシュタインに行き着いた。
「……で、結局あの人、なんなんだろう?そういえば、嫌いなのにわざわざじいさまの墓参りにきた意味も判んないし……ひょっとして、嘲笑いにきたのかな」
墓を前にして、野望が潰えたことを報告して嘲笑う。想像だけでも暗い。暗すぎる。
「……でもあの人だとそれもアリな気がするのは、偏見かなー?」
墓に向かって問い掛けても、やはり答えは返ってこなかった。








オーベルシュタインを殴り飛ばすなんて……なんて怖いもの知らずな。


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