乾いてきた髪を後ろに払いながら、足音を立てない軽い足取りでは上機嫌で城内の廊下を歩いていた。
アルスラーンに従うようになってから、戦やその訓練に忙しく、長く怠りがちだった踊りの鍛錬に久々に励むことができたからだ。
風呂にも入り汗を洗い流して、清々しい気持ちで廊下を歩いていると静かな音が聞こえてくる。横を向くと、にわかに雨が降り出していた。
「あー、やっぱり雨になった」
朝はカラリと晴れた天気だったけれど、雲の動きを見ては雨になると予想していたのだ。廊下から覗くと、庭に出ていた女官たちが慌てて城内に駆け込んでいる。
「あ、!いいところに!」
馴染みの少年の声に振り返ると、駆け寄ってきた少年はその勢いのままで持っていた盆をに押し付けた。
「エ、エラム?」
「殿下に冷たい紅茶をお持ちするところだったんだ。だけど、雨が降り始めただろう?ナルサス様が絵を描きに外に出ておられるんだ。雨具を持って行って差し上げないと!」
「え、ちょっと……」
「頼んだよ!」
エラムは手を振りながら駆けて行ってしまった。一瞬の出来事だ。
盆を両手に、は呆然と廊下に立ち尽くした。
「えーと……」
盆に目を落とす。玉杯と冷たい紅茶を入れているのだろう水差しと。
「……た、頼まれたし……」
まさか殿下お一人なんてことはないよね、と王太子の部屋を訪ねたは、入り口で再び呆然と立ち尽くした。
「ね……眠って、る?」
アルスラーンは毛足の長い絨毯の上で、クッションを枕に横になっていた。呼吸に合わせて軽く身体が動いて、倒れたなどの深刻な状態ではなくただ眠っているだけのようだ。
このまま引き返すべきかと考えて、いくらこのペシャワールが温かい土地だからといって、上に何も掛けずに眠っていると風邪を引くと、何か掛けるものを探して部屋を見回した。
手頃な打ち掛けを見つけて、持っていた盆を卓上に置き打ち掛けを手に眠るアルスラーンの横に膝をつく。
瞼は降ろされ、が好きな晴れ渡った夜空の色の瞳は今は見えない。
だけどこんなに近くで落ち着いてアルスラーンの顔を見ることが出来たのは久々のことだ。
再会してからは、多くの苦労を背負い、それでも強い眼差しで前を見据える立派な王太子の姿をずっと見てきた。
それだけに、こうしてすべての責務から唯一解き放たれる眠りの時の、穏やかな寝顔にほっと息をつく。
その眠りを妨げないようにと細心の注意を払いながら、打ち掛けをそっとアルスラーンの上に掛けた。
「……アル」
掠れるほど、ほんの小さく囁いた声にも眠りの呼吸は変わらない。
それに力を得て、消え入りそうな小声に心の底からの願いを込めては両手を握り合わせた。
「この安らぎが続き、夢魔に妨げられることがなきよう、どうか女神アシの加護を」
美と幸運の女神アシは、旅芸人たちの間ではもっとも一般的に信仰されている神だ。
アルスラーンが誕生した折に寄進されたのがミスラ神殿だと考えると、本来はミスラ神に祈るほうがいいのかもしれないけれど。
旅を続ける者たちが子供の眠りにこうして祈る時、最後に我が子の額に口付けを送る。
これは風習のようなもので、他意はない。
けれど、果たして額とはいえ王太子に口付けなど送っていいのだろうか。
ついアルスラーンの眠りを守るための祈りを口にしてしまったものの、その寝顔を見つめて困り果てた。
そうしなかったからと言って、祈りが無効になるという話は聞いたことがないけれど、習慣となっているものだけに収まりが悪い。
迷いに迷ったが、そっと指を伸ばして額に落ちかかる髪を払おうとしたそのとき、突然手首を掴まれた。
息を飲むの目に、晴れ渡った夜空の色の瞳が薄く開かれる様子が映る。
「…………?」
眠りを守ろうとして、妨げてどうする。
やはり打ち掛けだけかけてすぐに部屋を出るべきだったと唇を噛み締めていると、アルスラーンはそのまま瞼を下ろした。
「……傍にいて」
「え……?」
「傍に……」
手を引かれて膝をついた状態からぺたりと絨毯に座り込むと、アルスラーンは掴んでいたの手をそのまま抱き込むように両手で握る。
「アル……!」
思わず悲鳴を上げ、昔の呼び方をしてしまったと掴まれていない手で慌てて口を押さえると、アルスラーンは再び目を開けてにっこりと夢を見ているような表情で微笑んだ。
……」
嬉しそうに名前を呼ばれて、苦しくて胸が詰まるような痛みに呼吸を止めた。
込み上げる幸福を抑えなくてはと思うのに、それができない。
アルスラーンがゆっくりと瞼を下ろし、すやすやと穏やかな寝息が聞こえてくる。
「ア……で……殿下……?」
再び穏やかな眠りに入ったアルスラーンは、夢を見ているようというより、確かにまだ夢の中だったのだろう。
「どうしよう……」
手を抱き込まれてしまって、前のめりに腰を屈めながらは泣き笑いの気持ちで呟いた。
困ったのに嬉しい。
から触れることはあんなにも難しいのに。
その困惑する幸福は、と同じくしっかり雲の動きを読んで雨具を準備していたナルサスとともに帰ってきたエラムが、この部屋を訪れるまで続いた。







「触れる瞬間の緊張」
配布元:capriccio


サイト開設一周年感謝企画第三弾小話でした。
彼女はその後、長時間前屈みだったせいで腰を痛めていると思われ……。
お持ち帰り自由ですので、よろしければお持ちくださいませv