見上げる空は、分厚い雲に覆われた重苦しい鈍色。
見渡す周囲は、曇り空の下、積もった雪の白と灰色。
は汗を拭いながら、まだまだ続く雪の積もった山道を見上げる。
「結構きつい……」
背中に背負った食料や水、折り畳んだ防水仕様の防寒布など、野外でビバークするための荷物が肩に食い込んで体力を削っていく。
、大丈夫かい?」
後ろからかけられた声に振り返ると、より更に疲労した様子のヤンが疲れた目で汗を拭いながら見上げていた。
士官候補生としてのバランスはともかく、純粋な体力で言えば、ヤンはより遥かに劣る。
「大丈夫です。あの、先輩は大丈夫……ですか?」
「ああ……ああ、大丈夫だよ。これでも私は何度かこの山を越えているんだからね」
!休むなっ」
本当に大丈夫かなあとヤンのことが心配になったは、頭上から先を行く同行者に呼ばれて顔を上げる。
相手は同じ小隊に振り分けられた、戦略研究科三年次のワイドボーンだ。最初から印象の良くなかった相手に、は意地で元気良く踏み出す。
「はい!すみませんっ!」
先を行くワイドボーンの頭上から、白い雪がちらつき始めていた。



眠れない夜の話(1)



士官学校には、それぞれコース別の専門課程の他に、どの課でも共通の科目や課題もある。
一般教養と呼ばれるそれと、地上勤務、艦隊勤務、衛星基地駐屯など、どこへ行っても対応できるようにと射撃、陸戦格闘、航空技術、耐熱、耐寒、耐G訓練や、最低限の応急手当ができるだけの止血や心臓マッサージなどの簡易的な医療知識もその一つだ。
の成績は、専門の機関工学についてはまずますのものだったが、その他の科目はからっきしだった。戦略や戦史はまだしも、綿密な計算式を旨とする工学は得意なのに、なぜか経理関係の教科まで惨憺たる有様。
だが実技はそれなりによかった。入学したての頃こそ、体力に任せるだけではどうにもならなかったが、格闘や射撃などコツを掴んでからは専門の工学ほどではないにしろ、成績平均値を引き上げることに貢献するようになった。
おかげで幼馴染みからは、体力馬鹿という有難くないあだ名までもらうに至っている。
「研究者ならともかく、戦艦乗りにでもなれば最初は現場を走り回ることになるんだから体力がなくてどうすんのよ!」
という反論に対して、幼馴染みは鉄灰色の髪をかき回して一笑に伏すだけだった。
なぜなら、彼自身は体力系実技に関しても、ほどではないにしろ、平均よりやや成績がよかったからだ。卓上の教科に至っては言うまでもない。
対照的だったのは、幼馴染みではなく二学年上のヤン・ウェンリーだ。
専門課程である戦略、戦史の成績だけが異様によいヤンは、代わりといってはなんだが射撃から格闘から運動神経が関わってくるものは全滅で、どうにか落第を免れるという体たらくを披露している。
幼馴染みに対しては、体力馬鹿と言われようと強気に返していただったが、入学以来最初の試験が終わった時点での成績を知ったヤンの一言には赤面した。
「私よりの方が頼りになりそうだね。私なんて紙のように投げ飛ばされそうだ」
誉め言葉なのは判っている。入学して半年ほどの付き合いながら、ヤンにはデリカシーというか、情緒というものが欠けていることにも、既に気づいていた。
だがこれは、仮にも女性に向かって言うことだろうか。
そう思ったは、すぐに自分の思考に首をひねる。
女だとか男だとか、筋力などの生態上の区別ならともかく、差別をする奴は嫌いだと公言しているのだから、これはやはり素直に誉め言葉で受け取っておくべきことなのではないだろうかと思ったからだ。幼馴染みのようにからかって言ったわけでもない。
だが、何故か嬉しくない。
「先輩はあからさまに参謀タイプですからね。の奴を盾にしたらちょうどいいんじゃないですか?」
「ダスティはいちいち一言余計なのよ」
「まあまあ。は機関工学が専攻だから、兵器開発に回るつもりでなければ体力がなければ話にならないだろう。もっとも、軍人はすべからく体力が必須だとは思うけれど」
幼馴染みの胸倉を掴み上げるに、後輩二人の成績表を見ていたラップは苦笑して宥めようとする。
その後ろから、軽い咳払いが聞こえた。
「そんなことよりお前たち、ここがどこだか判っているはずだな?何故ここでくつろいでいる」
テーブルを囲んでいた四人が一斉に振り返ると、今年赴任してきたばかりの若い事務局次長がデスクに両手をついて睨みつけていた。
「そんなことって、学生にとって成績は何より重要ですよ!」
「どこって事務局ですよね」
「ここのコーヒーは食堂よりは美味いんです」
「食堂には紅茶がないので」
テーブルを叩いて力説するアッテンボローに、軽く部屋を見回す、カップを掲げて指差すラップ。最後にコーヒーカップで事務局次長の私物の紅茶をすするヤンが肩を竦めた。
「お前らな……」
若い事務局職員は額を押さえて深い溜息をつく。
「ヤンとラップはまだしも、そっちの一年坊主二人は本当にふてぶてしいというか……一年目からそれとは、将来大物になりそうだ」
「多少はふてぶてしさがないと、ジャーナリストなんて勤まりませんからね」
「わたしは先輩達のお相伴に預かってるだけですー」
腕を組んで胸を逸らすアッテンボローと、頬に手を当てて白々しく笑うに、年長者たちは顔を見合わせて笑うしかない。
「アッテンボロー、お前さんは軍人になりにきているんじゃなかったのか?」
「そのことについては、俺の親父の陰謀です!」
事務局次長、アレックス・キャゼルヌは自分で振った話題でありながら、既に一度聞いた話を、手にした紙を揺らして遮った。
「なら、そのジャーナリストになりそこねた奴に一早く情報をくれてやろう」
「え、試験問題ですか?」
一斉に呆れた視線を向けられて、アッテンボロー手を振って笑う。
「冗談ですよ、冗談。試験問題たって、前期試験は終わったばっかりじゃありませんか」
「期待されても事務局に試験問題が流れてくるはずがなかろう。そうじゃなくて、今度の学年合同の野外演習の話だ。お前さんたち一年坊主は初めての経験だろう」
とアッテンボローは同時に顔を見合わせた。
「日取りが決まったんですか?」
「日取りと組み合わせだな。野外演習初体験のお前さんたちには、三年次生がフォロー役としてつく。だがのいる軍事技術工科は一年次しかいないから、お前さんたちは別の科にくっつく形になる……という話は知っているよな?」
は、軽く肩をすくめながら頷いた。
「うちの科は、学年合同の度にどこかのお世話になって、お陰で何かとお荷物扱いですよ」
「まあそう腐ることもないだろう。その分、先輩風を吹かせた同科の上級生がいないんだからな」
「シトレ校長の薫陶よろしく、現在はあまり理不尽な下級生いじめはありませんけどね」
ヤンがぬるくなった紅茶に眉をひそめて舌を出した。その話にキャゼルヌはまた溜息をつく。
「お前さんたちの時代が羨ましいことだ。話を戻すぞ。アッテンボローは判っているだろうが、同じ戦略研究科の三年次と合同で、来月の頭が予定されている。大体七、八人ずつ班を作って小隊として動く。運が良ければラップと同じ班になれるかもしれんぞ」
「あー、それはぜひ運に恵まれたいなあ」
「運が悪ければヤンと同じ班かもしれんがな」
「あー……それは……まあ」
「アッテンボロー、お前ね」
当然の反応と判っていても、あからさまに「運が悪い」だの、言葉に詰まられるとヤンとしても面白くない。
「で、それはも同じだ」
「わたしですか?じゃあ……」
「そう、お前さんたち軍事技術工科は戦略研究科と合同だ」
は手を叩いて万歳をして喜ぶ。
「やった!じゃあ先輩たちと一緒になれるかもしれないんですよね!」
のオーバーアクションに、ラップが笑いをかみ殺した。
「それはそうだが、アッテンボローでもでも、贔屓はしないぞ?」
「別に贔屓して欲しいわけじゃありません。でも、今度の野外訓練は一泊ありの冬山越えですよね?丸二日近く一緒に上級生と行動するなら、できるだけ肩が凝らない相手が嬉しいじゃありませんか」
「だったら私でもいいのかい?」
「はい、もちろん!」
ヤンは冗談めかして自分を指差しながら訊ねたのだが、思いの他はっきりとが即答して、自分で言ってみたくせに唖然とする。
にこにこと笑顔のに、それがお世辞や、先ほど扱き下ろされたヤンに対する配慮ではないのだと確信すると、少し照れたように指先で頬を掻いた。
「そうか、は私でもいいのか。いい子だね」
テーブルの向かい側から伸ばされた手に、少々強く頭を撫でられては目を瞬き、次いでじわじわと頬が赤くなる。
、点数稼ぎだぞ」
「ひ、人聞きの悪い!そんなんじゃないよ」
拳を握って、撫でて下げられていた顔を勢いよく上げた幼馴染みに、アッテンボロー首をかしげて指を差した。
「あれ、お前顔赤いよ」
「え!?」
両手で頬を押さえたは、慌てたように立ち上がった。その際に、足をテーブルに打ちつける。
「い……っ」
「わ、お前何やって……」
足を押さえて涙目になったは、すぐに幼馴染みの手を払いのけて二人の上級生と、一人のOBである現職員に向けて敬礼する。
「そろそろ次の講義室に行ってきます!」
そのまま三人の返礼を待たずに、事務局から慌てて駆け出していった。
駆け去る足音が遠ざかるまで、の急な行動にしばらく室内に呆然とした沈黙が下りる。
やがて、キャゼルヌがにやにやと笑みを浮かべて顎を擦り、ラップは納得したような、感心したような様子で腕を組んで頷いた。アッテンボローが少し面白くなさそうに頬杖をついて他所を向く中、ヤンは自分の腕時計を確認した。
「まだ半分くらい昼休憩があるのに。準備に時間がかかる教科なのかな」
アッテンボローが頬杖をついていた手から顎を落とす。
「ええっー!?」
に続いて立ち上がった後輩に、ヤンは驚いたように目を瞬いてアッテンボローを見上げた。
「ど、どうしたんだアッテンボロー」
「どうしたって……ほ、本気ですか!?」
「本気って、何が?」
失礼にも先輩を指差して、がくんと顎を落としたアッテンボローの肩を、立ち上がったラップが軽く叩く。
「これがヤンだ」
「……すごいですね」
なんだか判らないまでも、なんとなく馬鹿にされている雰囲気を読み取ってヤンは眉をひそめる。
「一体何なんだ」
ヤンやラップとは六歳しか歳の離れていない、まだ二十代も前半のキャゼルヌは、ふっと笑って呟いた。
「青春だな。頑張れ。敵は手ごわいぞ」


そんな声援を受けているとは知らないは、右手を赤くなっていた頬に当て、左手に教科書類を詰め込んだ鞄を下げながら廊下を走っていた。
「なんだろう、どうして急に恥ずかしくなったんだろう!?」
こちらもあまりヤンと大差はない。赤面したことや、つい事務局から逃げ出してしまった行動の謎に首を傾げていたは、階段から上がってきた教官にばったりと出くわした。
「廊下を走るな!候補生っ」
「はいっ!申し訳ありません!」
急ブレーキをかけて教官に向き直り敬礼をすると、教官は頷くだけで罰則を与えることまではしなかった。
相手が口うるさい生活指導のドーソン教官でなかったことがせめてもの救いだ。
それにしても、自分の行動が自分でも謎のまま、は首をひねりながら今度は歩いて講義室へと向かった。




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